トルコにバロック建築がある!?|魅惑のオスマン美術史入門(2)|イスタンブル便り
トルコのことを研究する。
星山晋也先生に背中を押されて、人生にそういう方向があるということを示された。だが、右も左もわからない。大学四年生になった、春のことだった。
先生がコピーしてくれた英語の世界美術百科事典 『Encyclopedia of World Art』の項目、Turkeyは、当然ながら英語で書かれていた。トルコのことを勉強しようとすると、文献は英語なのか。その事実に愕然としていた。
外国のことを学ぶのだもの、当然だ。しかしそれを知っているのと、実際にやる、というのは、大違いだ。だがどうやら道はそれしかないらしい。仕方がない。腹を括った。同時に、わたしは図書館に入り浸りとなった。「トルコ/Turkey」というキーワードから、日本で手に入る限りのあらゆる文献を探した。
しかし、完全にわたしの知りたいことが書いてある書物には、なかなか巡りあわない。イスタンブル旅行の最終日、わたしの興味を強烈に惹いたドルマバフチェ宮殿。なぜ西洋式のこの宮殿が、トルコの地で作られたのか?トルコの建築史のなかでも、特殊なものだ。
そのうち、次のようなことがわかってきた。19世紀の近代化の時代は、「トルコ建築史」の中では、邪道とされている。西洋の影響を受けた建築は、 「純粋なトルコ建築」ではない、らしい。むしろ、忌むべきもの、トルコ建築の堕落、とさえ、思われている。
トルコに行く前、もともと同時代の明治に興味を持っていたわたしは、驚いた。明治から大正浪漫、昭和への流れは、日本では研究者も多くいるし、少なくとも「堕落」と捉えられてはいない。
それはなぜだろう? 日本では、近代化は肯定的に語られる。日本の現代建築が、 いわゆる世界の「近代建築史」のなかで、ある程度の地位を保っているからだ。メタボリズム、ポストモダン、脱構築。日本の建築家たちは、世界で時代時代を反映する建築を牽引する理論も構築してきた。近代建築の評価とは、現在から見た過去のつじつま合わせである。
そんなことが薄々感じられるようになってきた。でも、わたしが知りたいのは、日本でなくて「トルコの」、その部分だった。それに。では「純粋なトルコ」とは、一体なんだろう? かつては「オスマン・トルコ」と呼ばれていたが、オスマン帝国、とは、そのままトルコ共和国ではない。「トルコ」以外のさまざまな民族が共存する、多民族国家だった。その点も、日本人にはかんたんに測り難い謎である。
そうこうするうちに、一冊の本を見つけた。外国の出版社の、新刊カタログの中だった。美術史の学生が溜まり場とする専修室には、そういうカタログが置かれているから、みるといいよ、と先輩から教えてもらったのだった。
たしか、当時助手だった益田さん(益田朋幸早稲田大学教授、ビザンチン美術)だったか、ドイツ美術史研究の安松さん(安松みゆき別府大学教授)だったように記憶している。
『A History of Ottoman Architecture』(オスマン建築史)。イギリスの出版社から出ている本は、日本では手に入らない。注文すれば取り寄せられることを教わった。トルコ語講座をようやくのことで見つけて習い始めた頃だった。
数ヶ月後、届いた。大学生協で受け取ったその本は、美しかった。黒地に白抜きの文字、表紙には美しい装飾が施されたドームの写真。5センチほどの厚みのある、大判の分厚い本である。遠い異国からはるばる来た本。その重みを抱えて、わたしは胸がいっぱいになった。
これを読めば、オスマン建築の謎に、近づける(はずだ)。嬉しさではちきれそうになりながら、文学部キャンパスのメタセコイアの並木路を歩いたのを、今も鮮明に覚えている。明日から夏休みになる、ちょうどその日だった。
日本の図書館に、他にオスマン建築の概説書がなかったわけではない。だが、わざわざこの本を注文したのは、カタログの説明に、こう書かれていたからだ。「本書は、通常重視されない18世紀の<オットマン・バロック>に焦点を当てたものである」。
オットマン・バロック。
それは、オスマン建築が西洋と出会い、独自の進化を遂げた結晶である。現在では、「オスマン・バロック」として建築史の中でも定着している。だが、当時は新しすぎて、突飛、あるいはオスマン建築の<堕落>とさえ見る保守的な歴史家も多かった。むしろ、それが大半だった。
著者はゴッドフリー・グッドウィン。話は逸れるが、遠い遠い世界の人としてわたしの人生に入って来たこの人物と、のちに知遇を得た。絵に描いたような品のいい痩せぎすの英国紳士で、美しい英語を話した。不思議なご縁がある。博士号取得後、わたしが初めて教えたのは、なんと恐れ多くも、このグッドウィン教授が過去に教えた講座「三首都の建築史」だった。
結婚後、ある夕方、ボアジチ大学キャンパス内の森の中を一人で散歩していると、グッドウィン教授にばったり出会った。一対一で話をするのは初めてだったが、その時、初めて買ったこの本の話をご本人に伝えることができたのは、ほんのひとときの幸運だった。 イスタンブル滞在中に、ぜひお茶にいらしてください、とお誘いしたが、果たせないまま亡くなられてしまったのは、心残りである。
閑話休題。
基本文献を手に入れたはいいが、道のりは険しかった。英語の障壁が依然としてあるのはもちろんだ。それに加えて、オスマン建築のモスクは、見分けがつかない。どれもみな丸いドームがあって、どれにも鉛筆のようなミナーレ(光塔)がついている。平面図も、立面図も、建築を学んだことのないわたしにはチンプンカンプンである。その上に、専門用語である。パンダンティフ・アーチやらスキンチ・アーチやら、一体何のことかわからない。「プラットホーム」と言われても、駅のホームのこととしか、思えない。
そんな時、わたしは何をしたか? まずとにかく単語の意味を調べた。次には一文の意味がわかるようにした。 のろのろと、ただひたすらに、目の前の一文だけがわかるようにしていったのである。まるで修行である。
もっと賢かったら、色々なことがすぐにわかるのだろう。いつも歯がゆく思う。けれども、わたしにできることは、目の前の小さなことを、まず解決することだった。その方式は、ゆっくりだけれども、諦めずに続ければ、しばらくするとそれが蓄積となる。
どうにかこうにか書き上げた卒業論文は、「オスマン・トルコの建築に見るバロック」。そのまま大学院に進み、修士論文でようやくドルマバフチェ宮殿をテーマにした論文を書いた。
その過程で、トルコでの恩師、2018年に逝去されたアフィーフェ・バトゥール先生に出会った。オスマン建築の19世紀、近代建築研究の草分けであり、泰斗である。今では自分の職場となったイスタンブル工科大学建築学部、タシュクシュラ校舎の先生の部屋に初めて訪ねた時、わたしは一も二もなく、「留学したいので指導教授になってください」と頼んだ。その頃にはもう、留学する以外にこの道を続ける方法はないとわかっていた。
第一外国語がフランス語のアフィーフェ先生とは、フランス語で話したような記憶がある。先生の答えはこうだった。
「いいでしょう、でもまず、トルコ語を習得しなさい。研究に使えるレベルでね」
* * *
留学のチャンスがやってきた。トルコに留学するにはいくつかの奨学金があった。トルコ政府給費留学生、企業の奨学金、そして第一希望は日本政府の「文部省(当時)アジア諸国等派遣留学生」だった(今思ってみれば、この奨学金が初めて適用、支給されたのは、のちにわたしが本のテーマとした、伊東忠太だ )。博士課程の学生対象の、国費留学である。 書類審査があり、面接に呼ばれた。
初めて足を踏み入れる文部省のいかめしい建物、どんな格好をして行ったのか覚えていないが、おそらく着慣れないスーツで窮屈な思いをし、周りの人がみんな賢く偉く見える。たしか数人一緒に面接を受けた。
部屋へ入ると、面接官の先生がたの人数の多さに驚いた。せいぜい4~5人と勝手に予想していたのが、広い部屋に、ずらりと10人くらいいる。それに加え、いろいろな係官がたくさん控えている。まずそれに圧倒された。そして全員がすごく怖い顔で、にこりともしない。冷や汗が出る、とはこのことである。
わたしの番になった。面接官は、全員書類に目を落とし、質問が始まった。
「青木さんね……。えー、通常の留学奨学金は一年ですが、この奨学金は、二年間あります。えー、これに受かったとして、あなたね、二年も何するんですか?」
質問に驚いた。わたしの知りたいことは山のようにある。何年かかるか、一生かかってもわからない、と思っているのに、たった二年で何が学べるというのだろう?
思わず口をついて出た。
「二年では足りないくらいです!」
その瞬間、面接官が全員顔を上げて、わたしを見た。
(続く)
文・写真=ジラルデッリ青木美由紀
ジラルデッリ青木美由紀
1970年生まれ、美術史家。早稲田大学大学院博士課程単位取得退学。トルコ共和国国立イスタンブル工科大学博士課程修了、文学博士(美術史学)。イスタンブル工科大学准教授補。イスタンブルを拠点に、展覧会キュレーションのほか、テレビ出演でも活躍中。著書に『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ウェッジ)、『オスマン帝国と日本趣味/ジャポニスム』(思文閣)を近日刊行予定。
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