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リスボンで故郷を想う 川添 愛(言語学者、作家)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2024年3月号「そして旅へ」より)

 遠藤周作が長崎を訪れたときにキリシタン禁教時代の踏み絵を見て、そこから小説『沈黙』の着想を得たのは有名な話だ。私は長崎の出身だが、地元で踏み絵を見たことはない。私が生まれて初めて見た踏み絵は、ポルトガルのリスボンにある美術館に展示されていたものだった。

 リスボンに行ったのは、もう二十年近く前のことだ。空港からタクシーで市街地に入ると、壁がボロボロの建物が並び、なんだかとんでもないところに来てしまった気がした。街を歩いていてもけっこうゴミが目につき、病院の前を通りかかったときにはレントゲン写真が道端に捨ててあったりして、なんてルーズなんだろうと思った。

 最初に食事をしたのは、スーパーの地下にあるフードコート。緑色と灰色の中間のような色をしたスープがあり、見慣れない色なので、飲むかどうか一瞬迷った。でも飲んでみたら意外とおいしい。聞いたところによれば、これはポルトガルの国民的スープで、名前は「カルド・ベルデ」(緑のスープ)。青汁でおなじみのケールをベースにしているらしい。

 この緑汁を始め、食べ物はどれもおいしかった記憶がある。ちなみに、今までの人生で食べたおいしい肉ナンバーワンは、このとき泊まっていたホテルで食べた仔牛のステーキ。雑味がなく、肉の旨みだけが詰まったような味と香ばしい香り。あれを超える肉料理には、いまだ出会ったことがない。

 しかしそれ以上に印象深かったのは、街のレストランで食後のデザートに出た真っ黄色の物体。食べてみたら、ものすごく甘い。だが、鮮烈な甘さの中に、妙な懐かしさもある。そして気づいた。「これ、博多名物『鶏卵素麺』やん!」。後で調べたら、鶏卵素麺はもともとポルトガルから長崎・平戸に伝来したものだという。そういえば、長崎の名物カステラもポルトガル人が伝えたことを、すっかり甘ったるくなった舌が思い出させてくれた。

 国立古美術館で踏み絵を見つけたのもまったくの偶然だった。遠藤周作が長崎で見た踏み絵は木の板に銅板をはめ込んだものだったようだが、私が見たのはペラッとした紙に落書きのような男性の顔が描かれた、非常に簡素なもの。描いた人もあまり自信がなかったのか、何らかの文字でわざわざ「キリスト」と書いてあった。あんな紙切れが本当に踏み絵として機能していたのか疑問だが、機能していたのだとしたら当時のキリシタンの人々と現代人の意識の違いに思いを馳せざるを得ない。この他にも、ポルトガル人が長崎を歩く様子を描いた南蛮屏風などが展示されていた。

 夕暮れで薄暗いリスボンの街には、胃にきゅーっと来るような情感があった。丘が多いせいか、空や雲が低くて街と一体化しているように見え、やっぱり長崎に似ていると思った。天正遣欧少年使節もリスボンに到着した時にそんなことを考えたのかもしれないと思いながら、闇に包まれていく街を眺め続けた。

文=川添 愛 イラストレーション=駿高泰子

川添 愛(かわぞえ・あい)
言語学者、作家。1973年、長崎県生まれ。九州大学文学部卒業後、同大学院にて博士(文学)取得。専門は言語学、自然言語処理。言語学や情報科学をテーマに執筆活動を行う。著書に『言語学バーリ・トゥード』(東京大学出版会)、『聖者のかけら』(新潮文庫)、『世にもあいまいなことばの秘密』 (ちくまプリマー新書)など。

出典:ひととき2024年3月号

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