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ヴェルニーと軍港の横須賀【前編】|新MiUra風土記

この連載新MiUra風土記では、40年以上、世界各地と日本で20世紀の歴史的事件の場所を歩いてきた写真家の中川道夫さんが、日本近代化の玄関口・三浦半島をめぐります。第13回は、三浦半島の東部、横須賀本港を訪ねます。

電車がトンネルの闇を抜けると、左右の窓には港の艦船と谷戸の緑が見え隠れする。きょうはどんなフネが停泊してるのだろう? この瞬きのような光景に惹かれつづけてきた横須賀港。そして今回は写真を手がかりにして歩いてみたい。
「横須賀寫眞」。こう名づけられたエポックは近年、日本写真史に加えられたものだ。(*1)写真術はフランスが発祥の地。長崎の出島にいた外国人医師や写真師が、長崎製鉄所や日本の風景を写して上野彦馬らに伝授した。そして、この一連の黎明期の写真を「長崎寫眞」と呼んでみたい(*2)。同時代、この横須賀にも桐箱製のカメラを持ったフランス人エミール・ド・モンゴルフィエ(1842-1896)がいたのだった。

(*1)「横須賀寫眞」展(2015)横須賀美術館
(*2)上野彦馬(1838-1904)長崎生まれ 蘭医から湿板写真を、フランス人写真師ピェール・ロシェから撮影術を学ぶ。坂本龍馬などを写したことでも知られる、日本写真の開祖の一人。

フランス人技師のレオンス・ヴェルニー(1837-1908)は勘定奉行小栗上野介忠順おぐりこうずけのすけただまさ(1827-1868)とともに横須賀港を開いた。その甥っ子だった彼はヴェルニーの下で会計係をしつつ写真を習得。製鉄所から造船所への築港と幕末から維新への風景風俗を捉えていて、母国の子孫が保管していたものを8年前(2014年)に横須賀での写真展企画者が初見する。
モンゴルフィエの建設途上の横須賀村のパノラマ写真がすばらしく、これを手に21世紀のおかと海から眺めてみよう。その大半はいま在日米国海軍と海上自衛隊の基地としての港になっているが。

横須賀駅はフラットで放射状に出入口がある。

JR横須賀駅舎は地面の段差がなく、扇形をした出入口は旭日旗のように見えて昭和15年(1940)のまま変わっていない。横須賀線(明治22年[1889])は軍用鉄路として軍港、軍都横須賀のために敷かれたものだ。

オランダ製のスチームハンマー。

駅前に出ると港が広がり、いまはヴェルニー公園と呼ばれその名を冠したフランス・ブルターニュ風の記念館が建っている。館内に横須賀製鉄所の鍛造用スチームハンマーが展示されて、製鉄は造船所アーセナルへと進化した。ここから横須賀港の時が刻まれることになる。(*3)

(*3)『軍港都市の150年』上杉和英著 吉川弘文館

横須賀を母港にする護衛艦いずも。写真は公開日の様子。

港の左手、逸見へみ岸壁には空母型護衛艦「いずも」の姿がよく見られ、みぎわのボードウォークには横須賀で建造された戦艦「陸奥」の41センチ砲が移設(タイトル写真)。逸見波止場衛門(推定1930年頃 日本遺産)の衛兵詰所跡がぽつんと残されている。

旧海軍の衛門。

海軍兵は沖泊まりしている艦から通船で上陸、乗艦するのにここで検閲を受けていた。軍と民を分かつ境界では、兵と家族の涙もここで流されたはず。向かいのビジネスホテル「一國屋」はそんな海軍指定旅館だったが、コロナ禍のあおりを受けて創業134年で2021年に閉店したのだった。

春と秋に九つの花園でバラ(約1700株)を愉しめるヴェルニー公園一帯は、海軍の軍需部だったが田浦に移転。戦後は永く臨海公園の名で、原潜寄港反対やベトナム反戦の集会やデモの会場だった。平成13年(2001)にヴェルニーを顕彰して改名されフランス式庭園に一新されたものだ。

季節には美しい花でいっぱいになる。

そのヴェルニーと小栗上野介忠順の胸像が並んで対岸の横須賀港を眺めている。三浦半島の寒村だった横須賀村の入江は南仏の軍港トゥーロンに似ていることから、やがて造船所は屈指の軍港に変貌するが、そこがいま世界最強の米国海軍の港になっていることに「横須賀寫眞」のモンゴルフィエも、ヴェルニーも、そして小栗も驚いているに違いない。

横須賀港の生みの親、ヴェルニー。
ヴェルニー像の左側に、小栗上野介像が並ぶ。

よこすか近代遺産ミュージアム「ティボディエ邸」は、この公園に2021年にあらたに移設された。それは造船所の副首長だったJ.C.C.ティボディエ(1839-1918)の宿舎で(ちなみに首長はヴェルニー)、米海軍横須賀基地内に残っていたものだ。天井の梁や柱の礎石に元の部材が使用されて歴史の記憶を伝えている。館内は横須賀港史を最新のビジュアル装置で学べ、映画上映もあって「よこすかルートミュージアム」の案内所も兼ねている。

ティボディエ邸。
梁は創建当時の部材を使用している。

「見つける、つなげる、感じる。新しい横須賀。」
「よこすかルートミュージアム」は横須賀の新たな観光コンセプトだ。ペリー来航から始まる、市内に点在する近代化の見どころを「サテライト」とし「ルート」でつなげる「ミュージアム」という訳だ。そこには戦争と平和の遺産があり、横須賀の21世紀の歴史都市への試みが伝わる。邸をでると、かつてたけ獰猛もうどうと呼ばれた旧海軍艦艇の記念碑や歌碑が忘れられたように並んでいる。

ヴェルニー公園には旧海軍の記念碑や
歌碑が集められている。

モンゴルフィエ写真の造船所の右端は、現在の「コースカ ベイサイドストアーズ」に重なる。戦後もここは船台の巨大な鉄骨とガントリークレーンが建ち並ぶ場所。明治の造船所はやがて横須賀海軍工廠をへてこの町の代表的な戦後風景になっていたものだ。(*4)

(*4)今村昌平監督映画『豚と軍艦』(1961) 戦後の風景が残る横須賀市内のロケが秀逸。豚と軍艦を表徴するものは何かを考えさせる。

写真右側にヴェルニー公園、中央奥に見えるのが「コースカ」。元は製鉄所があった場所だ。

軍港クルーズ(YOKOSUKA軍港めぐり)の桟橋がある「コースカ」は2年前にフルリノベーションされて、いまの横須賀港のランドマークになっている。後半の遊歩とクルーズにそなえて、ここのフードコートで腹ごしらえをする。軍港がみえる店内は資料館の壁面になっていて、横須賀港の通史がわかる。見入ったのはテーブルに置かれた、ここ横須賀海軍工廠で建造された「飛竜ひりゅう」、「翔鶴しょうかく」など戦没艦の精密な艦船模型。海軍カレーとともに味わいぶかいものがあった。

精巧な造形に見入ってしまう、空母翔鶴の模型。

そして次は横須賀寫眞にあったティボディエ邸の「首長の山」をめざそう。そのためには米海軍の基地内に立ち入らなければならない。ふだん一般の日本人には禁断の場所だが、民間人が見学できる機会がある。

海上自衛隊横須賀基地公開日には、陸上自衛隊と航空自衛隊も参集する。

意外かもれしれないが、戦前の造船所や海軍施設の参観というものがあり、富士山や江ノ島もうでのような参詣地としての観光名所にもなっていた。フランス人による横須賀造船所は、初の近代設備と労働環境を整備した新生工業国日本のお手本とされ、のちの海軍工廠や軍艦の見聞は海軍思想や愛国教育の場としての「海軍の町」になったという。(*5)

(*5)『〈軍港都市〉横須賀』高村聰史著 吉川弘文館

そして現代の横須賀港詣なら、艦これ(ゲーム)や、猿島、軍港クルーズか。なかでも年数回の米日の横須賀基地公開フェスは市の恒例の祝祭日となるのだった。(*6)

(*6)ヨコスカフレンドシップデー2022(Yokosuka Friendship Day 2022)・よこすか開国花火大会は2022年10月16日(日)に開催予定。横須賀市観光協会HPなど参照

次回はその米海軍基地、ヨコスカベースへ、「タイガー&ドラゴン」を唄うクレージーケンバンドの横山剣のように三笠公園のゲートをめざそう。軍港をめぐるクルーズで海上からも眺めてみたい。

「YOKOSUKA軍港めぐり」は整備日を除き毎日運航。海上からさまざまな艦船を間近に見ることができる。

文・写真=中川道夫

中川道夫(なかがわ・みちお)
1952年大阪市生れ、逗子市育ち。高校2年生の時、同市在の写真家中平卓馬氏と出会う。1972年から同氏のアシスタント。東京綜合写真専門学校卒業。多木浩二、森山大道氏らの知遇をえてフリーに。1976年、都市、建築、美術を知見するため欧州・中東を旅する。以後、同テーマで世界各地と日本を紀行。展覧会のほか、写真集に『上海紀聞』(美術出版社)『アレクサンドリアの風』(文・池澤夏樹 岩波書店)『上海双世紀1979-2009』(岩波書店)『鋪地』(共著 INAX)。「東京人」、「ひととき」、「みすず」、「週刊東洋経済」等に写真やエッセイ、書評を発表。第1回写真の会賞受賞(木村伊兵衛写真賞ノミネート)。「世田谷美術館ワークショップ」「東京意匠学舎」シティウォーク講師も務める。

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