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琵琶湖疏水を造った男・田邉朔郎が回想する南禅寺界隈の景色|偉人たちの見た京都

偉人たちが綴った随筆、紀行を通してかつての京都に思いを馳せ、その魅力をお伝えする連載「偉人たちの見た京都」。第24回は明治20年代に琵琶湖疏水をつくった若き主任技師、田邉朔郎です。彼がこの地に通っていたころは、「人にうて南禅寺を問うことをやめよ、一帯青松、路迷わず」という頼山陽らいさんようの詩の通り、総門から中門までの道沿いには松並木があるのみで、道を迷うこともなかったといいます。

第二橋東雨後泥
村園門巷路東西
遇人休問南禅寺
一帯青松道不迷

とは、頼山陽*の「遊南禅寺」と題する有名な詩である。

*江戸時代後期の歴史家・政治学者。『日本外史』の著者として知られる

私が琵琶湖疏水工事を担任しておって毎日のようにこの辺を通行して見た時の景色は、まさにこの詩の通りで、えびす川の橋を東へぬけると南禅寺の方へいまの疏水運河のある場所には人家は一軒もなく、東の方に岡崎村の小村と聖護院の森が見えて、今の公会堂のあたりは市中のごみ捨て場、ごみ焼場であった。

思い出を語るのはなべ朔郎さくろう。明治20年代に主任技師として、琵琶湖疏水を造った男です。この回想は、歴史に残る大工事から約40年後、1928年に発表された随筆に残されていました。

田邉朔郎

疏水は、京都でも有数の巨刹・南禅寺の南西から北西方向に流れ、その一部は支流として、南禅寺境内にある水路閣というレンガ造りのアーチ橋の上を流れています。南禅寺界隈は、まさにこの大工事の現場だったのです。

南禅寺の水路閣
水が流れる水路閣(上から見た様子)

琵琶湖疏水は琵琶湖から京都へ水を運ぶ人工の水路です。構想されたのは明治10年代のこと。明治維新における事実上の東京遷都によって、当時の京都は衰退し寂れる一方。人口も35 万人から 20万人余りに激減し、「いずれは狐や狸の棲家になる」とまで言われたほどでした。

1881(明治14)年、第3代の京都府知事に就任した北垣きたがき国道くにみちは、豊かな水量のある琵琶湖から疏水で水を引き、灌漑や舟運による産業振興、水車の動力による工場建設などによって、京都を復興させる計画を立案します。

その琵琶湖疏水工事の主任技師として、北垣知事に抜擢登用されたのが、まだ21歳という若さの田邉朔郎でした。田邉は幕臣の子として、1861(文久元)年12月に現在の東京都文京区に生まれます。幼時に父を失い、幕末に外交官として活躍した叔父の田邉太一が後見人となって育てられます。工学者を志し、工部大学校(現在の東京大学工学部の前身の一つ)に進み、土木工学を専攻しました。

工部大学校在学中、田邉は疏水工事の話を聞き、自費で京都に調査旅行に出掛け、卒業論文として「琵琶湖疏水工事の計画」(英文)を完成させます。校長の推薦もあり、田邉は1883年に卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、大工事である琵琶湖疏水の担当となるのです。

琵琶湖疏水計画は江戸時代からたびたび言及されていたものの、あまりに巨額の費用と困難を伴うため実現には至りませんでした。北垣知事は、前代未聞の大事業に当時の京都府の年間予算の2倍以上という巨額の工事費を支出、最新の技術や知識を投入します。主任技師となった田邉の肩に、大きな期待と責任の重圧がかかったことは間違いないでしょう。

田邉の回想はさらに続きます。

そしてこの地方一帯はむしろと紙障子とでつくったむろでもって、野菜の早作りをする所で、畑地としては収入の多い一等の土地、したがって疏水工事で買上げた代価も割合に高価で一坪一円三十銭位であったが、今は値が百倍にもなっている。

南禅寺の松林は実に見事なものであったが、インクラインがその中間を横断し、りんあんがその松林を邸内に囲い込んだのが真っ先で、この松林もはなはだふるわない事になってしまった。

鴨東おうとうは東山の麓まで人家が連なって、どこに南禅寺の松林があるか近所へ行かなければ分からなくなったくらい、実に非常な発展であるが、「雨後泥」が山陽時代と今日と同じであることはまさに現代人の恥辱である。

かつて南禅寺の境内は非常に広大で13万坪もあったといわれています(現在は約4万坪)。特に松林は有名で、総門から中門まで見事な松並木があったと伝えられ、頼山陽の詩もこの松林を詠んだものです。

しかし琵琶湖疏水工事によって、南禅寺の松林は姿を一変させられ、現在では琵琶湖疏水記念館の向かい側にある、山県有朋の別荘無鄰菴の庭園内にその残影を見るばかり。松林のあったあたりには、疏水工事の一環としてインクライン(傾斜鉄道)が造られました。

インクライン(傾斜鉄道)

琵琶湖疏水は京都と大津の舟運を目的の一つとしていましたが、蹴上の付近は落差が大きく、そのままでは船が運航できません。そこで、勾配のある水路にレールを敷き、その上を走る台車に船を載せ、ケーブルで引っ張って上下させるインクラインが計画されたのです。

蹴上のインクラインは1891年から1948年まで使用されましたが、舟運の利用が減少したため、レールも一部をのぞき撤去されていました。しかし、貴重な産業遺産として1977年に復元され、現在は国の史跡に指定されています。周囲には桜並木が連なり、花見の季節には多くの観光客の訪れる名所です。インクラインに添った小公園には、若き田邉朔郎の銅像が建っていました。

蹴上船溜(1893年)
インクライン終点の蹴上船溜。台車に船を載せた復元モデル
田邉朔郎の銅像

さて、工事の実態はどのようなものだったのでしょうか。

今日では赤煉瓦れんがは至るところにあるが、今から四十年も前の明治二十年頃には 煉瓦を知っている人は甚だ少なく、パンがわらと称して、土器のような土を焼いた、もろいものと思っておった。だから疏水工事のトンネルで、岩を打ち壊してその跡へパン瓦で積み上げることが腑に落ちなかった人もある。

そんな人に岩石はくされて崩れ落ちると、説明すると岩石は崩れるものではない、石は生成するものであるといい、当時は有名な古歌ではあるが、今日のように未だ神聖な歌にはなっておらなかった「君が代」の歌を引証し、さざれ石のいわおになるのであって煉瓦で巻立てるのは危険であると、真面目に論ずる人もあった。

もちろん私の幼時にも石は成長して大きくなるものだと教えられたもんであった。今日の科学的な頭では当時の事はちょっと考えおよばぬことであると思う。

琵琶湖疏水工事は1885年に着手され、大津市観音寺から山科、蹴上、岡崎を経て京都市左京区の鴨川合流点までの「第一疏水」と、蹴上付近から分岐し高野川、賀茂川を越えて小川頭(現在の堀川紫明付近)に至る「疏水分線」で工事が進められました。

開渠かいきょして運河にするだけでなく、山を貫くトンネルも多く掘られました。特に琵琶湖の取水口の近くにある長等ながらやまを掘り抜く第1トンネルは、当時日本最長となる2,436mの長さ。これを土木工事用の重機のない時代に、ほとんど人力だけで開削したのですから、ただ事ではない努力が必要でした。

第1トンネル出口。工事の様子(1877)

岩盤をダイナマイトで破砕し、つるはしで土を掘り、手提げのカゴで搬出する、さらに大半の資材を自給自足で賄う。大量のレンガを調達するため、レンガ製造工場まで建設されました。とにかく大変な難工事で、約5年の歳月と延べ400万人の作業員を動員した末、1890年についに竣工します。琵琶湖疏水は外国人技師の手を借りず、設計から施工まで全工程を日本人の手で担った最初の土木工事となりました。

「びわ湖疏水船」の乗下船場の近くにある、第一トンネル入り口。トンネル上部の扁額へんがくごうは伊藤博文によるもの

南禅寺から北へ延長している疏水の支線は、田地用水もその目的の一つであったが、今日のごとく市街が発展して行っては、将来は水を掛ける田地が一枚もなくなるであろう。そして当時考えておらなかった上水道*が役に立ち、松ヶ崎に今では浄水池と貯水池ができたのである。

*主に飲料水などとして使用される水の給水施設

松ヶ崎(左京区)に浄水場が完成したのは1927年。京都市で2番目の浄水場でした(第1号は1912年に竣工した蹴上浄水場)。琵琶湖疏水は当初は農地の灌漑も主な用途として考えられていましたが、さすがに疏水の水を農業用水として利用する割合は少なくなりました。

その代わり、疏水の水は1912年に完成した「第二疏水*」を基本に、京都市民の上水道の主要な水源として、貴重な存在となっています。また、岡崎地域に疏水の水を利用した庭園がいくつも造園され、日本屈指の近代庭園群となったことも特筆に値するでしょう。

*第一疏水で足りなかった水量を補う目的で作られた

琵琶湖疏水は、現在も多くの貢献を果たしている生きた産業遺産と言えます。ちなみに2018年から、春秋限定で、大津と蹴上の間の琵琶湖疏水に観光船「びわ湖疏水船」が運航されています。

山科疏水を進むびわ湖疏水船

琵琶湖疏水工事の後、北海道官設鉄道の建設など明治期の多くの土木事業で活躍し、日本の近代産業史に大きな足跡を残した田邉は、京都帝国大学教授、京都帝国大学工科大学長などを歴任した後、1944年に82歳でこの世を去りました。

出典:田邊朔郎「疏水」(金尾文淵堂発行『京ところどころ』所収)

写真提供=琵琶湖疏水沿線魅力創造協議会、田邉家資料
文・写真=藤岡比左志

▼びわ湖疏水船ホームページ
https://biwakososui.kyoto.travel/

▼周辺地図

藤岡 比左志(ふじおか ひさし)
1957年東京都生まれ。ダイヤモンド社で雑誌編集者、書籍編集者として活動。同社取締役を経て、2008年より2016年まで海外旅行ガイドブック「地球の歩き方」発行元であるダイヤモンド・ビッグ社の経営を担う。現在は出版社等の企業や旅行関連団体の顧問・理事などを務める。趣味は読書と旅。移動中の乗り物の中で、ひたすら読書に没頭するのが至福の時。日本旅行作家協会理事。日本ペンクラブ会員。

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