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いまで言えば2駅分!城下町まで丸ごと引っ越してきた名古屋城

東海道・山陽新幹線沿線には、日本を代表する多くの城が存在しています。2015年に刊行された書籍『新幹線から見える日本の名城』(加唐亜紀 著)から、その内容を一部抜粋してご紹介いたします。

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 名古屋城には、「清洲櫓」と呼ばれる櫓がある。国の重要文化財に指定され、時々一般公開されているので、事前に公開時期等を調べて名古屋城に行けば、内部を見学することも可能だ。

清州櫓

清洲櫓(写真提供:名古屋城総合事務所)
清洲城から移されたという伝承が残る櫓。清洲城の天守だったとも小天守だったともいわれるだけあって、櫓としては大きい部類に入る。

 この櫓は建っている位置から戌亥(いぬい)<西北>櫓とも呼ばれるが、一般には清洲櫓と呼ばれることのほうが多いだろう。では、なぜ清洲櫓と呼ばれるのかというと、近くにあった清洲城から名古屋城に引っ越すときに、天守も一緒に持ってきたのだといわれているからだ。といっても天守をそのまま丸ごと持ってきたのではなく、天守に使われていたパーツを持ってきて櫓を造ったというのが最近の見解らしい。

 今の名古屋城が造られたのは、慶長15 年(1610)のこと。家康の九男義直(よしなお)を城主として新たに造ることになった城、それが名古屋城なのだ。関ヶ原の戦い後も大坂にいる豊臣秀頼や、彼に同調する可能性のある武将たちが、西から江戸へ攻めてきた場合、それを食い止めようにも今までの清洲城では、川に囲まれ広い土地が取りにくいということがあったようだ。

 武将たちが城を移ることはよくあることだが、名古屋の場合、「清洲越(きよすごし)」と後々までいわれるようになったのは、城下町までひっくるめた大移動を行ったからだ。現在、JR東海道本線でわずか2駅、という近距離だが、トラックなどない時代だからこの距離でも大変だったのだろう。ばらしたとはいえ、天守は一体どうやって運んだのか知りたい。

 なお、計画では、名古屋城は江戸城よりも巨大な城になるはずだった。しかし、完成前に大坂の陣で豊臣氏が滅んでしまったので、西から江戸へ攻めてくる者はいないだろうと判断したのだろう。工事は中断され、名古屋城は現在のような城になったのである。

出典:新幹線から見える日本の名城
※この記事の内容は書籍刊行当時(2015年)のもので、現在とは異なる場合があります。詳細は、お出かけの際、現地にお確かめください。
※本記事で使用している写真と、書籍に掲載されている写真は異なる場合があります。

本書では、新幹線の駅や車窓からお城が見えるポイントや「ゆかりの名物」、お城に関するさらに詳しい解説などが読めます。

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著者:加唐亜紀(かから・あき)
編集者。長年、歴史関連書籍の編集に携わった後、独立。歴史分野を中心とした編集、執筆業務を行う。主な著書・共著に『写真と絵でわかる日本の合戦』『ビジュアル百科 日本の城1,000城』(西東社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研パブリッシング)、『“復元”名城完全ガイド』(イカロス出版)、『歴史道 vol.3』『歴史道 vol.10』(朝日新聞出版)等がある。

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