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迷いを消す御瀧の音|文=北阪昌人

音をテーマに、歴史的、運命的な一瞬を切り取る短編小説。第21回は、社会人5年目の営業マンがかつて岐路に立った時に聴いた、熊野那智大社の滝の音です。(ひととき2024年3月号「あの日の音」より)

 春の雨は、容赦なく降り続いた。急きょ買ったビニール傘の上で雨粒が踊る。スーツのズボンの裾は、濡れて重くなっていた。

 得意先でのプレゼンは、我ながらうまくいったと思う。商品開発部から営業部に異動になった当初は、クリエイティブな仕事ができなくなると意気消沈していたが、営業という仕事がいかにクリエイティブに満ちているか、ようやくわかるようになってきた。

 芽吹き始めた街路樹の並木通りを歩きながら、雨の音を聴く。ザーッ、ザザーッザザーッ! ふと、懐かしい思いがこみ上げて来た。そうだ、あのときの滝の音に似ている……。

 大学4年の春。僕が卒業旅行先に選んだのは、関西方面、という漠然としたものだった。目的地を決めず、気ままにひとり旅を楽しもう。社会人になれば、きっとそんな旅もできなくなるに違いない。

 東海道新幹線の通路側に座る。新横浜駅で僕の隣にやってきたのは、30代
後半くらいの女性だった。左手の薬指には銀色の指輪があった。ショートカットに白い横顔。黒いリュックから取り出したのは、1冊の本。

 それは、ニール・サイモンの自伝だった。鎌倉の図書館のシールが貼ってある。たまたま僕が書き終えたばかりの卒論のテーマがニール・サイモンの戯曲だったので、チラチラ見ていると、「お好きなんですか、ニール・サイモン」と声をかけてくれた。そこから和やかに言葉を交わすことができたのは、女性に相手を包み込む優しい笑顔があったからだ。

 当時、僕には迷いがあった。大学で演劇サークルに所属していた。気軽な気持ちで始めたけれど役を演じることがどんどん楽しくなり、芝居と就職の道、どちらを選ぶか迷っていた。

 サークル仲間の何人かは、就職せずに劇団を作った。彼らの報告を聞くと、僕の心は揺れた。

 そんな気持ちまで、女性に話してしまった。彼女はじっと僕の話に耳を傾け、やがてこう言った。

「私、もともと和歌山に実家があって、結婚して鎌倉に住んでいるんだけど、何か迷うことがあると、必ず行くのが、熊野那智大社。別宮の飛瀧神社から見上げる那智御瀧は、それは見事で、あの滝を見ていると、余計なものが振り払われて、すっと素の自分が見えてくるの」

 そうして僕の卒業旅行の目的地は、熊野那智大社になった。実際に見た御瀧は、想像していた以上に凄かった。

 迷いなく、淀みなく、進むべき道を真っすぐ流れ落ちる。

 目を閉じると、ザザーッザザーッ! と滝の音が脳内に響いた。もう一度、自分に問うてみる。演劇が本当にやりたいことか。そこに逃げの気持ちはないか。やがて迷いは消え去り、僕は就職する道を選んだ。

 会社員になって5年。あのとき迷いを吹き飛ばしておいてよかったと思う。仕事が辛くても、あのときの選択を悔やむことはなかったから。

 相変わらず春の雨は、傘を叩く。その音を聴きながら、僕は会社への道を力強く歩いた。

※史実をもとにしたフィクションです。次回は2024年5月号に掲載の予定です

出典:ひととき2024年3月号

北阪昌人(きたさか まさと)
1963年、大阪府生まれ。脚本家・作家。「NISSAN あ、安部礼司」(TOKYO FMほか38局ネット)などラジオドラマの脚本多数。著書に『世界にひとつだけの本』(PHP研究所)など。

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