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【読書記録】『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』を読んで考えたこと。

ゆるゆると、あっちに行ったりこっちに行ったりしておりますが、『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』を読んで考えたことを書きます。

この本は、関わってらっしゃる方が多くて、田野大輔さん、小野寺拓也さん編著、香月恵理さん、百木漠さん、三浦隆宏さん、矢野久美子さん著という……。
各々研究者の方々を私は存じ上げなかったのですが、歴史研究者の方々、アーレント研究者の方々が、ハンナ・アーレントの『エルサレムのアイヒマン』からきたアイヒマンと〈悪の凡庸さ〉について、第一部で持論を展開され、第二部で対談をされております。

基本的に『エルサレムのアイヒマン』を読んでいる前提ですべてが進むので、この本を読む前にそちらを読む必要があります。
私も3年くらい前に読みました。理解できてる自信は全然ありませんが……。


通俗的な〈悪の凡庸さ〉

『エルサレムのアイヒマン』を初めて読んだとき、私も思ったんですよ。
へえ~、ホロコーストで悪名高きアイヒマンって、実は事務処理能力だけの小役人だったの? 他のナチ幹部に逆らえなくて、流されるままに大量虐殺の準備をしてただけの人だったの? と。

確かに『エルサレムのアイヒマン』を読んでいる間中、アイヒマンってそんなに大物じゃなくない? という気がずっとしていたんですね。
なんか、軽い。弱い。存在のインパクトがない。
常に周りの目を気にして、自信なさげで、おどおどした感じがする。

それは〈悪の凡庸さ〉というフレーズが先に入っているから、というのもあったかもしれないし、ナチの敗戦もアイヒマン裁判の行方も知っているから、破滅に向かって進む人間の心理とは? という視点で読んでいたからかもしれない。
だから、絶対バイアスはかかっている。かかっているけど、どうということはない下っ端の官僚……みたいに思っていたのも事実。

この、通俗的な〈悪の凡庸さ〉のイメージにどう対応するかというのも、この本の議題の一つです。

言葉は難しい

通俗的な〈悪の凡庸さ〉が生まれた発端が、ハンナ・アーレントの説明不足というのだから、まあ言葉というのは難しいもんです。
アーレントは一般向けに本を書いたことがなかったそうなので(『エルサレムのアイヒマン』は哲学書ではなくルポルタージュ)、研究者ならわかるだろう……のまま書いてしまったことが発端とか。

例えば、アイヒマンの「思考欠如」。
別にアーレントは、アイヒマンが何も考えずに行動したとか、一般的な思考力を欠いていたとか、そういうつもりで言ってなくて、「誰か他者の気持ちになって行動する能力の欠如」というようなことらしいと。
共感性とか想像力とか、そういう話だったのに、歯車の一部の指示待ち君的な意味合いにすり替わっている。

誰でも言葉の使い方の癖はあって、言葉に持たせるニュアンスも人それぞれ微妙に違っていて、だから事細かに説明しなければ、意味の取り違えは起こる。巻末の注はそれを防ぐためにある。
でも、本当に伝えたいことをそのまま伝えたかったら、膨大な注釈が必要になってしまって、そのうち本当に伝えたいことってなんだったっけ? ってならない? とも思ってしまうわけで。

ならば、逆に読む方も「この意見の本意はどこにある?」と注意しながら読まなければ、著者の本意などわかるはずもないというか、少なくともネット上で条件反射的に異論反論オブジェクションするのは危険というか。
のんびり熟慮している間に話題が風化していくので、世間の波に乗っていこうとすると厳しいんですが、瞬間的に奥の奥まで読み通す読解力を持つのも難しいし。

言葉には丁寧に向き合いましょう。
そういうことですね、はい。

アイヒマンと〈悪の凡庸さ〉とホロコースト

アイヒマンとはどういう人物だったのか。
この本の、いろんな方の意見を読んで思うところは、結局、学歴はさほどじゃなくても功名心があって、事務処理能力があって、仕事として「ユダヤ人問題」に取り組んだ人だけど、だからといって「私は組織の歯車の一つにすぎません」なんて言い訳が通用するほど責任がないわけではなく、根本的な思想として反ユダヤ主義に加担したし、ナチから離れるという選択をせず、ナチの民族第一主義に則って自覚的に行動した。

それは、現代日本でいうところの、「私は知りません」を連呼する政治家と変わらないんじゃないか。やったことが虐殺か汚職かの違いだけで。
そこに〈悪の凡庸さ〉があるんじゃなかろうか。

もちろん、虐殺と汚職の差は大きい。汚職だけで、600万もの人命が失われることはない。
でも、社会の仕組みを否定する行為だし、汚職が横行する国は傾国と言わざるを得ないし、つまり災害一発で多くの人命が失われる。

これまで欧米で、ホロコースト問題が特別視されていた部分はあったと思うんですね。それは、やっぱり。
だから〈悪の凡庸さ〉という言葉のイメージ先行に対し、アイヒマンはそんな凡庸な小者ではない、という方向になっていったんだと思うんですが。
でも、アーレントの言う〈悪の凡庸さ〉はそこまで小者を示していないし、ホロコーストは許されざる悪だけれど、それ以外にも許されざる悪はある。今のガザ攻撃のように。

なので日本人としては、アイヒマンを特別視することなく、〈悪の凡庸さ〉の真の意味である功名心が虐殺を呼ぶということにも注視する必要があるかなと思うのです。
仲間うちのウケ狙いで、弱者切り捨て論をかますことも、いやそれナチがやったことなんで。
生産性とかコスパとか、世代や民族で対立をあおることも、全部ホロコーストにつながってるから。
政府が生殺与奪権を握り、国民を粛々と従わせる万能感と、経済的権益を独占するうまみ。それが独裁政権の欲するところだから。

〈悪の凡庸さ〉の誤解の弊害

〈悪の凡庸さ〉という言葉がひとり歩きして、「どうしようもなかった」「言われるがままに従ったやつに責任はない」というふうになってしまうと、社会派もう収拾がつかなくなるんですよね。
てか、それだと誰も反省しないじゃん。
ナンバー2以下だと「自分は下っ端だった」と主張できるし、トップや単独犯は「これまで生きてきた環境が悪かったから、こんな人間になってしまった」などとぬかす。いやいや、人は人。罪は罪。

価値相対主義というのもくせ者で「本人に悪気はなかった」「あいつは正しいと思ったことをした」……というのって、NHK大河の主人公を描くときの常套句みたいですが、人を殺したり加害したりすれば悪気がなくても加害責任は発生するし、心神喪失してたとしても罪は残るよ、本人が一生背負わなきゃいけない罪は。

あと、故人の罪を暴くなというやつ。
確かに故人はおのれで自己弁護できない分、生者にとって都合の良い被疑者かもしれませんが、事実は解明せんとな。あかんやろ。
本当のところはどうだったのか。ここと向き合わずに、死者を弔う気持ちだけで口を閉ざすというのは、自分たちのアイデンティティに都合の悪い部分から目をそらしているに過ぎない、と言われても仕方ないよな。
それを自虐と言うって、メンタルよわよわすぎ。
本当に強い格好いい人間は、おのれの非から目をそらさんぞ?(そういうひとにわたしはなりたい……)

〈悪の凡庸さ〉の反省が向き合うべきところ

以前、『反逆の神話』を読んだときに、ホロコーストの反省から、体制への従順さが危険視され(従順さの先に〈悪の凡庸さ〉があると思われたから)、ゆえに現在の否定から入るカウンターカルチャーが流行ったというくだりを知りました。

でも〈悪の凡庸さ〉が従順さだけではなく、功名心から来てるとなったら、カウンターカルチャーそのものが〈悪の凡庸さ〉の入り口につながりやすいのでは? とも思っちゃったんですよね。
地獄の入り口は、どこにあるかわからない。

だから、人権意識は絶対必要だし、他者目線を意識することも絶対必要。自分と違う誰かの自由と権利を、絶対に侵してはならないという意識が必要。
でも自己意識ばかりじゃ限界があるから、強者を縛る法が必要。その究極が、国家を縛る憲法。今の日本国憲法って、そういう意味ではめっちゃいい憲法なんですよ。
私が昔読んだのは、池澤夏樹氏の『憲法なんて知らないよ』です。

おわりに

まあ、ここまで書いたのは私の個人的な視点もりもりで、研究者の間でも意見が分かれる問題なので、ぜひご一読してみてください、というのが正直なところですね。
ただ読んでみて、アーレントの著作もアイヒマン研究の本も全然読んでいない、ふがいないおのれを知るに至りました。
読書すればするほど無知な自分を知る。人生後半戦にとっくに入っているのになあ。読んだ本の内容も忘れるしね。

ま、それが人間なので。
ふがいない自分なんて、自分が受け入れてやるしかないじゃん。
そして、楽しみのために、また次の本を読むのであった……。
長々とお付き合いいただきありがとうございました。

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