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こころのひろさ、狭さ

おはようございます、けさも早起きです。いや、なんというか、時折おもうんですよね、ああ、わたしはこころが狭いにんげんだ、と。いわゆる、古代中国でいう「小人」ってやつっすね。で、あるときは、こころが広い人間と言われたり、うーん、どっちなのよ!と、問いたくもなりますな。まあ、人間、外にむける顔とうちに向ける顔とがあるといいますが、わたしは、外に向けるのはいい顔、って、そらあみんな一緒よねえ。

こころが広いひとって、わたしのイメージだと、お釈迦様かなあ。でも、意外とお釈迦様も激しいところがおありになりそうだから、どうやろ。こころを広くたもちたいなら、堪えることかなとか思ったけど、そうでもない。ちゃんと、オープンハートでいられることがたいせつとは知っている、積り。むしろ、こころを閉ざして、秘密主義でいくというのは、まあ、心の料簡が狭いと言われても致し方なし。いや、ほんま、そうやなあ、って。

なんでしょうね、こころは広い時もせまいときもあるってのが、まあ、誰の場合でもそうなんじゃないかなと思う。わたしは心広くありたいと思うけれども、いつもそうかというと、それはムリ、悟ってる訳でもない。だから、それでいいんじゃないかとも、おもいつつ、今に至る。あるがまま、ってこと。十牛図でいうと、なんだろう、はじめから牛を追ったりもしないっていうか、じゃあ、十牛図はじまらないじゃんってね。いわば、牛がいない状況の図でしょうかね、ふと、今を思うとそうです。あれでもいいし、これでもいい、あれでなくてもいいし、これでなくてもいい。

さて、今日の一冊

すごいね、これもただで読めるとは。

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