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あとしまつ

※画像は ポール・ゴーギャン/メトロポリタン美術館 さまより拝借致しました。ありがとうございます。



これは、全くのこと、自分自身についてのことで(まあ、私の場合常に自分ってもんについての言及なのだが)、何にしても乱読・乱聴といったあたりで、若い頃の名残があって。20代、30代のころはそれでも必要だったが、40代も末になって、流石に自分が、何か確たるものを知らず・持たざることが沁みてきて。




元より人間は「本来無一物」である、などという前に、生きているそばから、ほろほろとものを忘れ、会ったひとの顔すら朧というのは、どうなのだろう。と、思い、まずはじっくりと、今あるコレクションのなかから、じっと一つ一つ、内容を確かめ、味わうこと。もう、味が感じられるくらいに、読み、記憶し・反芻すること。それを試みている。




実際にやってみると、こう、今まで自分の「逃げていく感覚/意識」というものが、今少しだけ「ここ」に留まることが出来るようになった。以前の私はそそっかしさというものも、多分にあったとは思う。しかし、今はもう少し、意識の裾野が拡がったことにより、己の「あとしまつ」が、それなりについてきた。




とはいえ、まだまだ、やりっぱなしのいい加減さは保ちつつ、なんだが。それ故、今は文章を読むにしても、刻むように一歩一歩だ。特にゆっくり読んでいるのが、以下の本。


アリストテレス、読んでいた筈が何故かのハイデガー。これを毎朝二、三行ずつ読んでいます。刻んで読んで、反芻する。亀よりも鈍い歩みですが。読み終える頃には、一体何年の時が過ぎるのだろう。


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