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ほのぼの日和#9 ”よい方法”

新年あけましておめでとうございます。ウガンダで2回目の年越しをしました。昨年は、コロナが理由か、花火があがりませんでしたが、今年は花火があがりました。とても近くて、爆音でした(笑)
さて、なぜ私がそういう花火があがる首都にいるかというと、時はさかのぼること(笑)9月20日、私の住んでいる地域でエボラ感染者が発見され、首都退避を余儀なくされました。いつも通りの朝だったはずが、あれよあれよという間に2時間ほどで、首都にあがることになりました。当時の私は、突然のことで状況が理解できず、3日ほどで帰ることができると思っていました。しかし、現在首都退避してから106日が経ちました。その間、自分の将来のこと、任地のこと、いろいろ考えて、SNSを更新する気持ちの余裕がありませんでした。現在、エボラの新規感染者はおらず、このままいくと1月11日にエボラの終息宣言が出され、任地に戻ることができる予定です。
では、本編へ(笑)ある出来事を通して、”よい方法”について考えた、エボラ前に下書きしていた分です。

日本でのやり方、日本でよいとされていることをそのまま他国に導入することはいいことなのでしょうか。たとえ導入する国がいわゆる“途上国”といわれる国で、私たちから見てよくない状況にあるとしても、日本とは背景、価値観、文化も違います。研究授業で、日本人の教職経験がある方が素晴らしい授業をされました。子どもたちは緊張はしていたようですが、教えあいをしていてしっかりノートもとっており、授業の流れをよく把握していました。日頃のその方の学級経営のたまものだと思いました。私は教壇に立った経験がないので、私にはできないことだと思いました。その方の授業が悪かったとかやり方を批判したいのでは全くなく、ただそれを安易に“よい”として、じゃあ自分の学校でもやるべきだとするのは違うのではないかと私は思いました。

国が違うのは当たり前として、その学校に通う子どもたちは全員違います。もちろん教員も違います。その学校の校風もあります。それらを加味して、一体自分は何がしたいのか、子どもたちの成績があがることが目的なのか、子どもたちが楽しく学ぶことなのか、先生方によりよい指導方法を考えてほしいのか、目的によって、手段は選ばれるはずです。

今回見学させていただいた授業は、たまたま日本式(この呼び方自体にも語弊がありますが)日本でよいとされている方法がうまくはまったのです。それを“よい方法”と鵜呑みにするのは、自分のためになってしまわないでしょうか。日本でよいとされている、流れが決まっている、最初に目標を定めて、課題を提示して演習して、最後にまとめをして、振り返る、確かにこの方法を取れば教員は格段に授業の準備がしやすくなり、授業を進めやすくなります。でも、目的は自分が楽に授業できるためでしょうか。その方法が、今自分の目の前にいる子どもたちに合うかどうか、それを望んでいるのかどうか、それを判断できるのはまぎれもない子どもたちを目の前にしているその人自身だと思います。

その方法をとって、自分の準備もスムーズにいき、その結果こどもたちにより多くの授業を提供できる、子どもたちも楽しんで学ぶことができる、それならばいいと思います。安易に“よい”と表現し、実行すべきだとする、そのことに私は非常に強い違和感を覚えました。まず目の前の子どもや教員の方々をよく見て、そこから出発すべきなのではないでしょうか。

“よい方法”なんてものは存在しないんだと思います。あるとしても、目的、やりたいことに適っているかどうかで選択されるうえでの“よい”“悪い”があるだけ。その国でうまくいっているから、その学校でうまくいっているから、その先生がやっているから、で判断される“よい方法”なんてものは存在しないのだと思います。

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