伊勢とおひつ

「あっ!!」
その光景を見たとき、びっくりして思わず両手でテーブルを叩いてしまった。
立派なテーブルに並べられた箸置きや食器が僅かに震えて音を立てる。
「なに?どうしたん?」
箸を持ったまま目を丸くした夫が向かいから問いかけてくる。
「これ、これはSNSで炎上してるのを見たことがある例のあれ。すごい、初めて体験した!」
半ば興奮して、少し喜んですらいるわたしの目には、白ごはんが並々と入っているおひつが映っていた。

四月末、夫と二人で伊勢へ行った。
一泊二日、思えば夫婦になってから初めてのちゃんとした旅行だった。
挙式を終えたら、伊勢神宮のおかげ横丁で死ぬほど食べようと約束をしていた。
わたしも夫も食べることが好きだ。
せっかくなら、旅館の食事も豪華なところにしようと少し良い宿をとった。
鮑やお刺身の魚介や、憧れの松坂牛ステーキが提供される最高の宿だった。

一日目、河崎を散策したあと、外宮に参拝し、早めに宿へ向かった。
夕食は大広間で提供されるスタイルで、わたしたちの席にはすでに豪華な食事が用意されていた。
伊勢の新鮮なお刺身、自分たちで焼いて頂く鮑と松坂牛、ムール貝や鯖江に伊勢海老まで!
普段はお酒を嗜まないわたしも、この日ばかりは夫と乾杯をした。
ひとくち食べるたびに「おいしい!」「うまい!」と言い合う至福の時間。
そんな中、仲居さんがおひつに入ったごはんを持ってきてくれた。
自分たちでお茶碗にごはんを盛るタイプのお宿だった。
「ありがとうございます」とにこやかにお礼を言い、仲居さんが奥に戻ったあと、わたしは気が付いた。
明らかに、"わたし側"におひつが置かれている。
夫側でもなく、夫とわたしの間でもなく、明確にわたしの真横におひつが置かれている。

「あっ!!」
これは、つい最近SNSで見た光景。
旅館で食事をすると、ほぼ必ずと言っていいほど、おひつが女性側に置かれる。
ごはんは女性がよそうもの、という偏った価値観からできたと思われる、老舗旅館に根付いている慣習だ。
夫婦として旅館を利用したことで初めて体験したことだった。
噂は本当だったのか。
子どもの頃、家族旅行に行ったときいつもおひつは母の側に置かれていただろうかと思い出そうとしたけど、そういえばうちは幼い頃に両親が離婚していたので、あまり関係がなかった。
なんだか都市伝説に遭遇したような、なぜか感動すら覚えてしまって、これがあの!!と大興奮してしまったのである。

もちろんだからと言って憤慨したり、「性差別だ!!家父長制の現れだ!」と叫んだりしないし、仲居さんを呼びつけることもしない。
"おひつを女性側に置かれること"自体に怒る人もいるけど、わたしはどちらかと言うと"おひつを女性側に置かないと怒る男がいる"ということが許せない。
だから仲居さんたちもこの慣習を変えることが出来ないのではないかと思う。

「お母さんおかわり!」とお茶碗を高々と掲げる父親と子ども、嬉しそうにごはんをよそってあげるお母さん、そんなアニメやドラマのワンシーンが頭に浮かぶ。
愛している人のごはんをよそうことは、苦ではない。むしろやってあげたいと思う。
でもそのイメージの中にいるのが常に『お母さん』や『妻』であることはおかしいことなのだと改めて思う。

とりあえず目の前でぽかんとしている夫に、ことのあらましを興奮しながら説明した。
わたしが思想強めなことは夫はとっくに承知済みなので、ときにおどろいたり、関心したりしながら話を聞いてくれた。
わたしの興奮ぶりを見た夫は、そっと自分の方におひつを引き寄せようとしていてちょっと笑った。
「ちゃうねん、別にごはんをよそいたくないわけじゃないねん」と笑いながら二人分のごはんをよそった。
湯気が立つあつあつのごはんはとてもおいしかった。

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