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『神聖喜劇』 – 日めくり文庫本【8月】

【8月20日】

 一個班に二箇所、食堂に三箇所、総計九燈の十六燭光が、わびしい明るさで彼らを照らし出していた。寝床はすでに昼食後に用意せられて、毛布の封筒が連なっている。下駄箱、内務班出入りの叫び、整頓板のひびき、石炭の燈炉に投げ入れられる音、話し声、『勅諭』暗唱のすぶやき、潜り戸の開閉音、——陰の多い、うそ寒い新砲廠の屋根の下は、新兵たちの日の営みの不協和音を孕んだ自由時間である。
 ……やがて、手箱の蓋をはずして机の代わりにするか食堂の卓に凭(よ)るかしてはがきを書く兵たち、「地方」の思い出などを雑談する兵たち、四月満期除隊が実現するや否やを論議し合う兵たち、第三分隊側燈炉を囲んで村崎古兵のバカ話に興じる兵たち、神山上等兵他出中の第一および第二分隊側燈炉に暖まる兵たち、明りに背を向け毛布の上につくねんと胡坐(あぐら)を構(か)いてだまり込んでいる兵たち、——兵たちのそういう仕事を切り上げた恰好が数を増したのにつれて、大方の「点呼用意。」の号令を待ち受ける気構えもおのずと熟してきた。点呼用意開始は通例二十時(冬期)であり、日夕(にっせき)点呼時限は二十時三十分(冬期)である。
 その十九時三十分ごろ、私は、私の為すべきことをひととおり終え、食堂に行き、第三分隊に近い食卓の一端で『広辞林』を開いていた。私がここに持って来た書物は、この『広辞林』のほかに、『改訂コンサイス英和新辞典』、『田野村竹田全集』一冊本(この本の裏表紙内側には、竹田会刊単行小冊子・今村考次著『竹田先生百年祭を挙ぐるに先だちて』が、以前私の亡父によって挟み込まれたままになっている)、『緑雨全集』縮刷一冊本、『三人の追憶』「岩波文庫」本、『民約論』同上、『暴力論』上下二巻同上、"Buch der Lieder"〔『歌の本』〕「レクラム文庫」本、"A Farewell to Arms"〔『武器よさらば』〕「モダン双書」本である。この選択には、格別深い意味もなかった。兵営内に居住する下士官兵が「地方」の書物を所持するには、所属隊長の許可を得なければならない(——『軍隊内務書』第二十章「起居及容儀」第百八十二に、「典令範及勤務書以外ノ書籍竝(ナラビニ)新聞雑誌類ハ所属隊長ノ許可シタルモノニ非ザレバ読ムコトヲ許サズ。」があった)。われわれは——私以外にそういう新兵はあまりいなかったが、——そのため入隊第三日に私物の書物を纏めて神山に渡した。私の『三人の追憶』、『暴力論』および洋書二冊がまだ残されて、他の書物全部が一昨日われわれの手にもどっていた。私のその四種五冊については、控置部隊長が「目下なお検討中」ということでもあった。

「第三 夜」二より

——大西巨人『神聖喜劇 第一巻』(光文社文庫,2002年)94 – 95ページ

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