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『スケッチ・ブック』 – 日めくり文庫本【4月】

【4月3日】

 リップとその連れの老人が遊びに夢中の連中たちに近づくと、彼らは突然ナインピンズの遊戯をやめて、まさに彫像のように瞬きひとつせずリップたちの顔を凝視した。その視線はなんとも奇妙で、しかも表情の変化に乏しい顔は正気に欠けていたのだ。こうした不気味な雰囲気に接してリップはすっかり動転してしまい。両膝がガタガタと震えた。彼らに給仕をするようにとリップに合図を送ると、リップは怯えて震えながらそれに従った。一団の男たちは黙ってその酒を飲み干すと、まもなくナインピンズの遊戯を再開したのである。
 次第にリップの恐怖心や懸念は薄らいでいった。彼は誰も自分に注意を払っていないことをいいことに、その隙に思い切って酒を口に含んでみた。すると、上等なオランダ産独特の香り高い風味が鼻に抜けた。リップは生来の酒好きな嗜好も手伝い、もう一杯、もう一杯と誘惑に負けて、ついつい酒がすすんだ。このように何度も何度も酒瓶を傾けるにつれて、いよいよ一人酩酊の淵に沈んで正気を失ってしまったのである。そして、とうとう、頭がぼーっとして重くなり、次第にその頭も垂れ下がると、そのまま深い眠りのなかへと落ちていったのだ。
 目を覚ますと、リップは緑溢れる小さな丘の上にいた。そこは夕闇の谷間で、初めてあの老人と遭遇したところであった。彼は思わず目をこすって辺りを見回した。陽射しの眩しい朝だった。茂みのなかでは小鳥たちが飛び回った利、囀(さえず)ったりしていた。一羽の鷲が空高く弧を描いて舞いながら、山の新鮮な息吹を満喫していた。「え、まさか?」とリップは思った。「まさか、一晩中ここで眠りこけていたというわけではないだろうな」。彼は眠ってしまう前の出来事を思い返してみた。リップの頭を過(よぎ)った風景は酒樽を肩に担いでいた男、山間の峡谷、岩間に隠れた未開の場所、ナインピンズの遊戯に興じる男たち、そして酒瓶であった。「あの酒瓶だ! あの酒瓶にしてやられたんだ」とリップを思った。「女房に何と言い訳したらいいんだ!」

「リップ・ヴァン・ウィンクル」より

——アーヴィング『スケッチ・ブック』(岩波文庫,2014年)84 – 85ページ


『野獣死すべし』(1980年)の終盤、伊達(松田優作)が瞬きひとつせずに柏木刑事(室田日出男)の顔を凝視しながら語るお話ですね。
「ラム、コアントロー、それにレモンジュースを少々、シェイクするんです。わかりますか?」
「エックス・ワイ・ゼットゥ……」
「そう、これで終わりって酒だ」

/三郎左

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