原文テキスト 先に読むか、訳しながら 読むか問題
こんにちは、あるいはこんばんは。ここ数日、Twitter界隈で翻訳者たちが面白い議論を交わしています。その議論とは、原文を(たとえざっとでも)最後まで読んでから翻訳し始めるか、原文を通読していない状態で翻訳を始めるか、というものです。
結論から言えば、正解や王道というものなどなく、個人の好みや分野の違いなどが大きいようです。しかしここには、後半の「翻訳者は何者にもなる」で解説している通り、面白い事実が隠れていたのです。
順を追って話します
私の知る限り、きっかけは越前さんのこのツイートでした。この時点で越前さんは「先に原文を通読してから訳すものだし、そうせざるを得ない」と考えているように読めます。私自身も、このツイートを読んだときに「まったくその通り」と感じました。
が、どうも翻訳とはそう単純ではないらしいのです。
ミステリーなら真犯人やトリックの伏線などを知らずに訳していくのは大変そうです。いや、それでも読み進めて先の内容がわかった時点で、すでに訳した部分を修正するという方法さえとれるのかもしれません。
一方のノンフィクションですが、基本的に前から読み進めてわかるように作られているとは言え、作者が想定していた全体の構成や流れを俯瞰できないままでは適切な訳文を作りにくいのではないか、と私は考えていました。
その後、さらに興味深いツイートが続きます。
ほかにも、複数の翻訳者が自分なりのスタイルを紹介し、その根拠なども添えてくれました。そのあたりも踏まえて考えたことが、以降の内容です。
翻訳者は何者にもなる
私、ひらめきました。
先に原文を通読したい人は、いったん著者の目線になりたい人ではないか、と。著者の目線から全体を見て、著者の気持ちに近づきながら訳文を作っていく。そして訳文を作りながら、同時に読者の気持ちになって訳文を受け止めて、また著者の気持ちで訳文を書き……というように視点がぐるぐる回っていく形。
一方で、通読せずに頭から訳していきたい人は、まずは原文読者の目線で情報を受け止めて、その新鮮さや驚きを踏まえて、同じ感情が生まれるような訳文作りをするのではないか、と考えました。この課程でも、著者の目線に切り替えて、著者の気持ちに寄り添うことが当然ながら必要になります。ただし、先の部分や全体については見えていません。
結局のところ、どちらの方法を採るにせよ、翻訳者という中間的な目線から、読者の目線、著者の目線、という2地点(or 3地点?)をぐるぐると切り替えながら訳文が作られていくという点では変わらないわけですね。
この視点の切り替えという表現については、翻訳フォーラムの皆さんが出されている「できる翻訳者になるために プロフェッショナル4人が本気で教える 翻訳のレッスン」で高橋さきのさんが担当していたところで読んだ受け売りなわけですが、まさかこうした翻訳スタイルについて考える上でのヒントになるとは思いませんでした。
私自身のことも少し話します。
私は普段、短ければ1,000ワードくらいのブログ記事から、長くても30,000ワードほどのホワイトペーパー的なドキュメントを担当しています。ブログ記事では、半ば即興のようなライブ感が記事を「らしく」してくれることがあるという経験則があります。一方で長めのドキュメントであれば、全体の構成を頭に入れた上でプレーンに訳した方がまとまりや説得力が出るように思います。あ、字幕の場合はかならず最後まで目を通します。これはきっと、字幕というコンテンツタイプに制約が多すぎるからだと思いますけど。
ということで今日はこのへんで。今から夜翻頑張ります。ちなみに、今担当しているお仕事は通読なしで頭から訳しているブログ記事です。
アディオース!
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