掌編小説●【天邪鬼のお年頃】



 もうすぐ30歳。三十路といえば体力の頂点を過ぎた老いの第一歩というイメージがあるけれども、しかしそれはたぶん江戸時代くらいの昔の話で、いまは立派なオトナとされる一方、まだゲームやアニメ、ビートミュージック、異性とのマッチングなどにうつつを抜かすお子ちゃまのお年頃でもある。

 そういうどっちつかずの年齢にふさわしく、私は皆さまから〈天邪鬼〉と謗られている。考えてみれば大のオトナに向かって〈天邪鬼〉とはなかなか聞いたことがない。つまり私に贈られた〈天邪鬼〉には、いつまでも理非をわきまえない幼稚な男だという揶揄も込められている。

 確かに、平気でドタキャンはするわヘソを曲げるわ、掌を返すわだから、それはむしろずいぶんやさしい、遠慮したいい回しなのだ。陰ではもっともっと辛辣なことを囁かれているに違いない。

 しかしわかってはいても自分ではどうにもならない。たとえば、甚大なリスクを負っている仕事の場面ではさまざまな約束や予定に従うけれども、少しでもスキがあればすかさず〈天邪鬼〉が騒ぎはじめる。

 友人と連れ立っていて突然姿をくらますとか、会食の最中に急に帰ってしまうとかはほぼ日常茶飯事であり、理由なく彼女と別れたことも何度かある。いや、だから、ただくらましたいなー、帰りたいなー、別れたいなー、と思ってそうしただけだ。

 またいつもの〈天邪鬼〉だな、と前兆を感じて警戒してもどうにもならない。この場は逃げられる、後足で砂をかけても大丈夫、と思えばそうせずにはいられない。

 その当然の報いとして後ろ指をさされ、信用を失い、知り合いや友人たちにも愛想をつかされ、孤独に陥っていく。環境が変わるたびそれを繰り返す。

 しかしそれでも直らない。社会性が欠如していると罵られても一片の反論もできない。大きな仕事のときは抑えられるのに、自分の裁量、勝手で動ける範囲だと思えば途端に耐え難くなる。

 おかげで会社の相互評価では人望がなく、協調性も責任感も信頼度も低く、人間性に関しては総合でほぼ最低、ビリから2番目の成績だった。不動のビリに社長がいるので、私は不動のビリから2番目。クズのツートップと評されている。

 そんなこんなで周囲の皆さま方の視線の険しさもいよいよ限界近くになってきたので、そろそろ決断を下さなければならないと思っている。

 決断というのはこの世から消えるということだ。好きにできないのなら生きていてもつまらないだけで仕方がないし、そもそもただ生きることさえ、息をすることさえ億劫だ。

 なぜこうなってしまったのか。思うに、私には奇妙な傾向があって、幼少期の記憶はすべてなにかしらの小さな失敗をやらかして逃げたり隠れたり、首をすくめたりしている場面なのだ。

 まだ小学校に上がる前、誤って友だちの頭を木の棒で強く叩いて泣かせてしまったことがあった。それを洗面台の鏡の前で思い出しているオトナになった私の顔は、目を見開き、唇を激しく尖らせて、まるで狐のように見えた。また大口を開けていることもあるし、激しく唇を歪めていることもある。

 きっと私は毎日何回も、鏡のない場所でそんな奇妙な顔をしているのだろう。幼少期の失敗の記憶はそれほど頻繁に蘇るし、最近はますます激しい。

 どこでどう繋がるのかわからないけれども、このことと〈天邪鬼〉のあいだになにか緊密な関係があるような気がする。

 このままでいくときっと失敗するという強迫観念に囚われて、そうなる前に自らすべてを台無しにしてしまおうとするのだろうか。それとも何かに操られているのだろうか。〈天邪鬼〉の虫みたいなものとか、〈天邪鬼〉な霊とか。

「吉木くんて変わってますよね」

 ほぼ誰からも声をかけられない私に食堂へ向かう廊下で声をかけたのは4年先輩の産業医、佐藤梨香子だった。実際に肩を並べて歩くと意外に背が高い。そして美人といえばいえないこともない、猛禽類のような個性的な顔つきをしている。

「天邪鬼ですから。皆さんにご迷惑をおかけしています」

「そうなんですってね。それで突然でたいへん恐縮ですけれども、そこのところのお話をお聞きしたいと思うんです。どうでしょう」

 事務的で抑揚のない喋り方がアタマのよさを主張する。統合失調症を研究していたというから、ついに私の精神状態に黄色信号が灯ったということかもしれない。

「もちろんいいですよ。プライベートはいつもヒマですから」

「そうですか。ありがとう。では今度の土曜日、いつも通り出社してきてもらっていいですか。これは決して強制ではありませんから、もし不都合があれば断ってもらってもけっこうです」

「いえ、大丈夫です。今度の土曜日午前10時にカウンセリングルームのほうでいいですか」

 了諾の返事をして、佐藤梨香子は食堂の前を通り過ぎる。

 さて、考えられることは3つ。1つは精神病の診察、2つ目はナンパ、3つ目は〈天邪鬼〉を発動させてドタキャンするかしないかの賭けだ。

 まさか2つ目はありえないけれども、3番目の〈天邪鬼〉をやらかすかどうかの賭けはあり得そうな気がする。社内では知らぬ者のないドタキャン常習犯と4日後の約束を交わすというのはかなり剣呑な話だ。賭けにするくらいのヘッジをかけている可能性はある。

 賭けの対象にされているかもしれないと思えば、大方の期待を裏切りたくなる。私はその4日後、約束の時間通りに社員のみんなが避けて通るカウンセリングルームを訪れた。

「いまお話しさせていただいた範囲では、不合理だったりとか、不自然な感じは受けませんでした。なんなんでしょうね。そんなに約束を守るのが嫌になってしまうというのは」

 佐藤梨香子は2人で2時間ほど世間話をしたあと独り言のようにいう。さあ、そういわれても、なのだけれども、それでは答えにならない。

「多重人格なんじゃないですか」

 適当な思いつきを口にしてみる。

「心あたりありますか」

「ありませんけど」

〈天邪鬼〉をしでかしている自分と普段の自分にそんなメリハリというか、違いはない。記憶も一貫している。少しゲンナリした顔つきの佐藤梨香子にこのままでは申し訳ないのでなにかお土産でも持たせてあげよう、と思った。

「私のような者がいては公序良俗といいますか、社内風土に確実に悪い影響を与えてしまいます。ですから、退職させていただこうかと考えているんです」

 佐藤梨香子は驚いた顔で私を見つめ「もう少し検討したいので、時間をください」といった。

 これでとにかく私の出番は終了した。短いような長いような人生で、もとよりこれといった成果などを残そうとも思っていなかったけれども、逆に何もしなかった、できなかったうちに幕を閉じたほうが潔くてよいのではないか、とも思う。身辺の整理が済めばさっそくオサラバだ。

 それから15日後、今日がこの世とのお別れと決めている。別にこれといった感慨はない。いつもと同じように起床して1日をはじめる。

 洗面台の前に立つ。幼少のころの失敗を思い出している百面相みたいな情けない顔ではなく、我ながらかなりイケている凛々しい、いい男だ。なあ、そうじゃないか。もったいないと思わないか。そういう女もどこかにいたかもしれないけれども、巡り会うことができなくてまことに残念だ。

 ゴシゴシと歯ブラシを使い、口を濯ぐ水を含んだ。なにか口の奥に不思議な違和感がある。上を向いて喉を伸ばし、鏡に映してみると内部で明らかに何かが蠢いている。小さなコブがいくつか左右に動いている。

 唐突な吐き気が襲ってくる。胃が収縮し背中が丸くなり、洗面ボウルに顔を突っ込むようにして水を吐き出した。そのとき、同時に赤黒い色をしたナメクジのような物体が口を飛び出し、クネクネと体を伸ばして排水口に滑り込んでいったのが見えた。口から出てからはかなりの長さがあった。

 吸い込まれていったあとを覗いても、もう何もない。音もしない。しかし確かにそれは生き物だった。ヒルのようなナメクジのようなプラナリアのような、もしかしたら舌のような……。

 ずいぶん気味の悪いものが体の中に巣食っていたものだとパニックになりかけたが、入ったのではなく出ていったのだ、と懸命に自分にいい聞かせ、うがいを繰り返しながら落ち着くのを待った。

 ああ、そうだ。あれが〈天邪鬼〉ならいいのに、……。

 そしてどうしたわけか私は死ぬのをやめ、人生を真面目に考え直し、約束は必ず守り、何かの拍子におかしなものが口に入らぬよう慎重の上に慎重を期して生きている。幸せなのか楽しいのか、それはわからない。私の身の上に何が起きたのかもわからない。


                              (了)


次回作もお楽しみに。投げ銭(サポート)もぜひご遠慮なく。励みになります。頼みます。

無断流用は固くお断りいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?