掌編小説●【肥育】
道すがらのコンビニエンスストアか公園か、それとも駅構内のトイレかで朝食を吐き戻し、ひと息ついて学校へ向かう。中学校の入学2日目に電車内でサラリーマンの膝の上に大量に嘔吐してしまってからというもの、それが毎朝の欠かせないルーティンになった。
ママは貧弱な良太の体が中学生になっても小学校4、5年生くらいにしか見えないのをひどく気にしていて、朝から脂っこい肉や白米、牛乳、お菓子、プロティンなどを大量に摂らせようとする。
「私がまるで食べさせていないみたいに思われるじゃない。嫌がらせをしないでちゃんと食べてちょうだい」
その結果、良太の下腹はペンギンのように卵型に突き出て膨らみ、手足は老人の杖のように細い。
もちろん良太に嫌がらせのつもりは毛頭ないけれども、食卓に出されたすべてを無理やり喉の奥に押し込むのを見届けるまでママは決して許さない。それはママ自身が大樽のように太っているのも理由のひとつだと良太は思っている。
胃の中のものをすべて吐き出すと、良太はまっすぐに前方15メートルほどの地点を見つめ、できる限りの早足で歩く。不良や学校の上級生、それから何をやっているのかわけのわからない浮浪者みたいな連中に目をつけられないためだ。
早足で歩くと膝は最後まで伸び切らなくなり、背中は丸まり、顎は突き出て老人そのままの格好になる。良太の父親が小人症の一種であるゼッケル症候群を疑うのも無理はなかった。
緑と茶の、まさに池を泳ぐ鴨のような色合いの制服が、いわゆるエリート校の生徒であることをこれ見よがしにして、金の無心などなにかにつけ狙われやすいのは事実だった。その怯えを遠視用眼鏡の奥の落ち着きのない瞳がそのまま最もよく体現している。
しかし学校のなかでもイジメはあって決して安心ではなく、良太の緊張は授業が終わり、進学塾を経由して深夜家にたどり着くまで続く。
進学塾へ向かう電車の中で良太は左手の包帯をそっとほどいてみた。昨日の夜、いつものようにサークルで寝転がっている芝犬のキンちゃんを大きな三角定規でつついて遊んでいたら、突然、牙をむき出し吠えはじめ、驚いて飛び出してきたママに突き飛ばされて捻ったのだった。
湿布にもう効果はな区なっていたのでゆっくりと剥がして鞄に入れた。
キンちゃんが牙をむいて吠える、反抗するなどということは子犬時代から一度もなかった。昨夜までは考えられもしなかったことだ。だからもう気晴らしに虐めて遊ぶこともできなくなった。しかもママは自分よりキンちゃんと話すことのほうがずっと多いから、これで自分は完全に家のなかのいちばんの下っ端になってしまったのだと良太は嘆いた。
雨の日の電車のなかはビニールの匂いとなにかが饐えたような匂いと黴のような匂いが混じり合って息苦しかった。膝の横に立てた傘の先から雫が足元に伝わって、濡れた床にさらに水を被せ、じわじわと侵食していく。
早く大人になって昆虫の研究をしたいなあ、と良太は傘の先を小さく動かしながら夢見る。父親は良太を祖父や自分と同じくいわゆる高級官僚にしたいと願っているけれども、結局、そんなことは本人次第なのだ。本人にその気がなければいくら金や時間をつぎ込んでもダメだ。そのことにいつになったら気がつくのだろう。
高級官僚とはいえとくに血筋がよいわけでもない父親はママの口ぶりから推察すれば使いっ走りのようなもので、そんなことに無理に無理を重ねて疲弊しきっている姿は良太には哀れを通り越して醜悪にしか見えない。
自分はあんなふうになる前にどこかへ飛び出すぞ。そして自由に生きるのだ。センスオブワンダーは自分のなかにもきっとあるはずだ。この自分にも大きく高く飛び立つ日がきっと必ずくる。
電車が停車し、ドアが開き、大声で語り合う一団の客が乗り込んできた。目をあげるとそれは外国人観光客らしく、子どもも大人もみな驚くほど太って堂々としている。
外国人はどうして彼らにとっての外国にいてももの怖じしないのだろう? と良太はいつもの疑問にとらわれる。それは日本が敗戦国だからだろうか? 自分たち日本人が黄色人種だからだろうか? 自分たちはどこかでなにかを馬鹿にされているのではないのだろうか?
量販店の大きな紙袋をいくつも下げて通路を占領している外国人の集団は甘い匂いがして、女の鼻歌が聴こえてくる。太った肉の塊のあいだを探るように見ると、金髪の女の子だった。子どもだと思われるけれどもそうでないかもしれない。
子どもなら学校はどうした。学校へいけよ。こんな日本くんだりでお調子に乗っているんじゃないよ。
女の子の歌にひとりの大人が同調し、ハーモニーをつける。黒人の、これもまたひどく体格のいい女だ。後ろ向きの巨大な尻がリズムに合わせて揺れている。
そのとき良太は思いがけないものを目撃してたじろいだ。黒人女の尻が、後ろへ突き出た尻臀の肉の大きな塊が、左右別々に上下するのだ。まるで意図して生物としての圧倒的な強さを漲らせ誇示するかのように。
はじめての光景に視線を釘付けにしたままの良太は暴力的なほどの肉体の脅威に触れ、言葉もなく、センスオブワンダーに撃ち抜かれてフラフラと立ち上がった。
そして傘を水平に携えてその女の尻に突進したのだ。
5、6步進んで銀色の輪飾りの付いた祖父のヨーロッパ土産の傘の先端は女の尻の中心に当たり、まさかと思うまもなくズブズブと抵抗なく深く突き刺さっていった。
一瞬の沈黙があり、女がけたたましく叫んだ。前のめりに倒れ込む。傘が灰色のジャージのパンツの尻に刺さって垂直に立った。それは山頂に突き立てられたピッケルか、あるいはついに陥落した山の国旗のように見えた。
旅行の仲間が首を伸ばしてしゃがみ込んでいる良太と、うつ伏せに倒れて床を叩き、足をバタバタさせて震えはじめた女を交互に見やる。やがて怒号が飛び交いはじめ、叫びが上がる。ほかの乗客たちのなかに席を立って移動する者が出てくる。
もうすぐ次の駅に停車する。
茶色い髭だらけの大男が仲間をかき分け、良太に向かって大股で歩いてきた。
良太の体が宙に浮き、そのまま後ろの昇降口めがけて飛ぶ。ボコンという鈍い音を立てて頭がしたたかに金属製のポールに当たり、さらにそこを支点に回転した体はドアに張り付くようにして止まる。ショルダー型の鞄から教科書やノートが溢れ出す。
白いTシャツがいまにもはち切れんばかりに張り付いた筋肉自慢の日本人の若者が仁王立ちしている。後ろから突然なんの躊躇もなく全力で良太の顔を張り飛ばしたのだった。
「アイムソーリー」
若者はいった。誰に向かっていったのか。たぶん外国人の集団だろう。
口中に広がる血の味を、良太は生きている証しとして感じている。電車が止まり、誰かが良太の襟首を掴んでズルズルと車外に引きずり出した。
これじゃ太るのはとうぶん無理だ。
良太はただそう思った。
(了)
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