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アイデア満載だが、あえて“習作“と呼ぼう〜太田光著「笑って人類!」

爆笑問題は、好きな漫才コンビの一つである。ラジオ「火曜JUNK爆笑問題カーボーイ」は毎週配信で聴いている。テレビのネタ番組でも、彼らの漫才は必ずチェックする。その魅力の一つは、太田光の視点である。

彼は無類の読書家で、自身も多くの著書を上梓しており、中には小説もある。小説については、読んだことがなかったので、近著「笑って人類!」を読んでみた。

アイデア満載の、近未来的小説であり、奇しくも広島サミットにも通じるところがある。力作だと思うが、私はあえて“習作“と呼びたい。

「習作」:<絵画・彫刻・音楽・文学などで、練習のためにつくった作品>(広辞苑第七版)
あるいは、<未完成の段階にあるものの称>(新明解国語辞典第七版)

爆笑問題の漫才の面白さは、時事ネタを中心に世の中に対して、太田が独自の視点で切り込んでいくところにある。対象は目まぐるしく変わり、おもちゃ箱をひっくり返したかのように展開していくのだが、総体が一つの塊として、爆笑問題の話芸になる。「笑って人類!」は小説だが、太田光のこのスタイルを踏襲しているように見える。

舞台は架空の近未来的な世界である。テロ国家共同体との協議の場、“マスターズ和平会議“はある事件により失敗に終わる。その“敗戦処理“をなすため、平和を標榜する国家、ピースランドの“無能“とされる富士見首相は立ち上がり、フロンティア合衆国の大統領代理アンと協働をはかる。

現代を戯画化し、ギャグを散りばめ笑いを誘いながら、今の世界が抱える様々な問題を提起していく。描かれる世界は政治だけにとどまらず、“今どき“の若者も巻き込んでいく。

上述の通り、漫才の場合はアイデアの拡散は問題にならない。しかし、小説の場合は拡散を収束させ、一つの物語として作り上げなければならない。私が、この作品を“習作“と呼ぶのは、個々のパーツは輝いているにも関わらず、収束のさせ方が不十分であるように感じるからだ。

太田はインタビューで、「2年かけてシナリオにして、それが通らなくて、また2年かけて小説にして」と話している。配信の連続アニメになっていたら、また印象は違っていたのかもしれない。

“習作“と呼ぶもう一つの理由は、この作品を踏み台に、もっと素晴らしい小説が生まれると期待するからである。

太田光が敬愛する立川談志も、膨大な量の著作を世に出しており、太田はその系譜を踏襲している。しかも、談志が手を出さなかった小説の世界にも足を踏み入れた。「笑って人類!」には、彼の才能が散りばめられており、この本を手にとる方は、大いに楽しめることであろう。

それでも、彼に対する私の期待値はもっと高いとこにある。“習作“が“傑作“を生み出したとき、

その時は、心から笑いたい


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