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いざ!しまなみ海道へ!!(その4)〜「竜馬がゆく」と共に

(承前)

観光の記録です。2日目は雨、どこにも行かないのも勿体無いので、ホテルから車で20分程度の距離にある鞆の浦を訪ねることにしました。

鞆の浦と言えば、坂本龍馬。海援隊を結成した竜馬はオランダ人から蒸気船を購入します。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」から少し引用しながら紹介します。

船を検分したした竜馬は、船尾の美女の彫像を発見、売り手は<「アビソという名の美女です。私は、このアビソに守られて長い航海をした」>と話し、<航海安全の守り神>だと説明します。

竜馬はこの船に、<「もののはじめ、という意味さ」>と、「いろは丸」と名づけます。そして、1867年薩摩藩の依頼で新式銃器と弾薬を大坂へ輸送する仕事を、いろは丸の処女航海とします。乗組員には長崎中から調達した洋服を着せたとされ、竜馬の意気込みは凄かったことでしょう。

瀬戸内海に入ったいろは丸は、しまなみ海道周辺の多島海に侵入しますが、夜の海に<霧が出はじめている。竜馬はこの霧が気がかりだった>。 そして、<操舵室に、竜馬の時計がある。その針が、十一時を指した。そのとき海面がにわかに盛りあがって、くろぐろとした巨影が船の正面にあらわれた>。

この巨影とは、紀州藩の明光丸、<いろは丸のざっと五倍の大きさである>。いろは丸はなんとか避けようとしますが、<すさまじい衝突である>、いろは丸は沈没してしまいます。

竜馬たちは沈みゆくいろは丸を捨て、明光丸に飛び降りるのですが、明光丸は<船長以下が船室で眠りこけている様子なのである>。

竜馬はさぞかしショックだったでしょうが、<(なにもかもだめだ)とは竜馬は思わなかった>。この惨事の損害賠償交渉を、いかに紀州藩と行うかに頭を切り替えるのです。交渉を有利に進めるためには、<藩の名を出すほうが有利と思い、「私は土州藩の才谷梅太郎である」>と変名を使います。

事故が起きたのが鞆の浦沖合、<「近くの港といえば備後の鞆(とも)だ。そこまで舵をまげられよ」>と竜馬はゴリ押しし、紀州藩と竜馬との最初の交渉が、私が訪れた鞆の浦の町で行われたわけです。

<鞆は、古来瀬戸内海最大の商港のひとつとして栄えている。桝屋と言う回船問屋がある。(中略)隊員三十四名はここを宿所とした。「船の仇を討つ」と、竜馬は一同に宣言した」。

この枡屋の建物も現存していますし、「いろは丸展示館」では船にあった品物、衝突の様子が見られます。いろは丸は今も沖合に沈んでいます。

鞆の高台には、福禅寺という真言宗のお寺があり、本堂に隣接して対潮楼という建物があります。江戸時代に、朝鮮通信使の迎賓館として使われ、そこから見える景色は「日東第一形勝」と称えられたそうです。確かに、仙人が住むという仙酔島などが美しく見え、島に渡る「平成いろは丸」の姿も見えました。

なお、寺所蔵の“日東第一形勝“の額字を含む「朝鮮通信使に関する記録」は、ユネスコ記憶遺産に登録されており、鞆の浦歴史民俗資料館に保管されています。

また、保命酒という薬草酒の製造が有名で、酒蔵が何軒かありその建物が残っているほか、古い街並みに風情が感じられます。酒蔵だった建物の一つ、「太田家住宅」は公開されており、なかなかに立派な建物でした。

こんなところまでと思うほど、外国人観光客の姿を目にしたのですが、瀬戸内クルーズの観光スポットになっているようです。

昼は、妻のリクエストで広島風お好み焼き。鞆の浦は広島でもかなり東に寄っているので、必ずしも広島風が食べられるわけではありません。食べログで調べて行った「鉄板 きち」は入ると地元の人ばかり。お好み焼きはとても美味しかった上、燻製マヨネーズも良い仕事してくれました。

天気の方は、街歩きが進むにつれ雨が本格的になり、2泊3日の中日は早々にホテルに戻り、妻はホテル内のエステへと向かわれたのでした

次回は最終日、尾道へ


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