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「師匠 御乱心!」と六代目圓楽〜三遊亭円丈の叫びの先に(その2)

(承前)

「師匠 御乱心!」に登場する人物のほとんどはもういない。担ぎ上げられた三遊亭圓生はこの本の最後で他界する。その後、彼を担ぎ上げようとした、立川談志、古今亭志ん朝。著者の三遊亭円丈の眼からは悪者でしかない、五代目三遊亭圓楽も鬼籍に入った。

そして、2008年頃から七代目圓生襲名に関する騒動が始まる。江戸から明治にかけての東京の落語界は、ざっくり言うと、三遊派と柳派で形成されていた。そして、圓生という名前は、三遊亭の宗家と言え、柳家の小さん、桂の文治と並ぶ大きな名跡である。なお、“桂“という亭号のルーツは上方である。

この名前を巡って、六代目圓生の直弟子円丈、春風亭柳枝門下から移ってきた圓窓、孫弟子で圓楽一門の鳳楽の間で「我こそが次の圓生だ」という騒ぎが起きた。私はなんとなくフォローしていたが、そもそも圓生と共に協会を出た圓楽一門から、これまで襲名の動きがなかったのか。芸風の全く違う円丈が横槍を入れてくるのか、よく理解できなかった。そのことは、「師匠 御乱心!」を読めばよく分かる。

そして、圓窓も円丈も亡くなった。本書を読みながら、頭に浮かんだのは、圓生の孫弟子であり五代目圓楽の弟子、前名楽太郎の六代目圓楽(以下、圓楽)である。彼は、圓生襲名を目指していた。しかし、叶わずに彼も他界した。(参考:広瀬和生の“「七代目圓生問題」はなぜこじれたのか?“

圓楽の活動のベースにあったのは、本書で書かれた落語協会分裂問題にあっただろう。彼の大師匠と師匠が巻き起こした、落語界の分断の修復に圓楽は努めた。自身の圓楽襲名をきっかけに、落語芸術協会・寄席との距離を縮め、寄席の高座への復帰を果たし、その後は客分扱いとして完全復帰を果たす。

さらに、博多で落語祭を開催し、落語協会・落語芸術協会、さらに上方落語界も巻き込んでいった。圓楽の人徳がなせるわざだが、そこには上記のモチベーションがあったに違いない。「師匠 御乱心!」の巻末には、円丈・圓楽・三遊亭小遊三の鼎談が掲載されている。円丈にとっては憎っくき存在である、五代目の弟子圓楽が登場していることが象徴的である。

この鼎談の中で、協会の壁について圓楽は、「だからいつも言ってるけど、全部一緒になっちゃえばいいんだって」、「変な枠は壊した方がいいよ」と語っている。落語ファンの立場からすると当然である。寄席にしろ、ホールにしろ、魅力的なプログラムでなければ客は集まらない。寄席の低迷の理由が、協会至上主義にあることは明白である。

さらに、圓生の名前について圓楽は「いっそ俺が継いじゃおうか。みんな死んじゃったら」と話す。

圓楽の死によって、落語界の一体化の動き、そして何よりも圓生という名前の復活が頓挫したことが、返す返すも残念である。歌舞伎界として、市川団十郎をなくしてはならないのと同様、圓生という名前を消してはいけない。

しかし、道筋は一旦消えてしまった


文藝春秋の12月号に、春風亭小朝「追悼・三遊亭圓楽さん」を寄稿している。その最後、圓楽が圓生秋明にこだわったもう一つの理由を書いている。圓楽は小朝の耳元で囁いた。

「やっぱりさぁ、最後は巨人軍で終わりたいんだよね」 落語家らしいサゲである



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