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旅の記憶23(その1)〜サンクトペテルブルグ建設の陰に

ロシアの作曲家、チャイコフスキーの祖父はウクライナのコサック(15世紀ごろに生まれた、ウクライナ・ロシア南部における自治的な武装集団)であり、彼の交響曲第2番にはウクライナを表す“小ロシア“という副題がついている。また、そのオペラ「マゼッパ」のモデルになった、イヴァン・マゼッパはウクライナの“悲劇の英雄“とも言われている。

1689年ロシアではピョートル大帝が実権を握るが、その頃のウクライナはキエフを流れるドニエプル川を挟み、東はロシア、西はポーランドが支配していた。東側はウクライナ人に一定の自治が与えられていて、マゼッパはモスクワ政府そしてピョートルと友好な関係を築き、その後ろ盾を生かしウクライナにおいて権力を握る。

そんな中、バルトへの進出を企てるロシアとスウェーデンが衝突、1700年大北方戦争に突入する。ロシアの指示の下、ウクライナのコサックが戦争に動員されるが、マゼッパはその扱いに疑念を抱く。そして、1708年スェーデンがウクライナに入った時をとらまえ、スウェーデン側に乗り換えた。ウクライナ独立の絶好のチャンスと踏んだのだ。また、ロシア帝国、ピョートルからすると、可愛がっていたマゼッパに裏切られたことになる。

そして、1709年ウクライナ中部のポルタヴァで大会戦が行われ、スウェーデン・マゼッパ連合軍は大敗、ウクライナの自治は一層制限され、独立の夢はついえる。そして、ロシアは大国への道を歩む。プーシキンは物語誌「ポルタヴァ」を書き、前述のオペラはこれを基にしている。(第3幕間奏曲「ポルタヴァの戦い」

その後、ピョートルはサンクトペテルブルクを新都にすることを決め、その建設にはコサックが駆り出された。

そんなサンクトペテルブルクを、私は20年前に訪れた。当時は、上述のような歴史はほとんど知らなかった。ただ、ロシアの国を垣間見る機会にはなったのである。

ウクライナ情勢に刺激され、前置きが長くなった。続きは明日


参考文献
「物語 ウクライナの歴史」黒川祐次  
ー元駐ウクライナ大使が書いたこの本は、とても分かりやすく、読みやすい

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