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錦秋十月大歌舞伎「文七元結物語」(その1)〜えっ!義理の母娘だったの?!

錦松十月大歌舞伎の「文七元結物語」、寺島しのぶの出演が話題になっている。私も「ついに彼女の念願叶ったか」と思いつつ、観劇はパスと思っていた。

原作は、三遊亭圓朝作とされる落語「文七元結」。歌舞伎の演目「人情噺文七元結」となり、寺島しのぶの父、七代目尾上菊五郎が得意とし、私は2003年10月平成中村座における、五代目中村勘九郎(当時)の素晴らしい舞台を目撃した。

菊五郎/勘九郎が演じたのは、左官屋の長兵衛。腕が良いのに博打にハマり、今日もとられて長屋に戻ると、娘のお久がいないと女房のお兼が騒いでいる。お久がいた場所は。。。。

落語の人情噺の名作を舞台化したのだが、今回は山田洋次が台本をさらに補綴し演出した。

日刊スポーツに掲載されていた山田洋次の言葉が引っかかった。

「お兼とお久は血はつながっていないけど、互いを思っている。聞き間違いじゃなければ、三遊亭圓生の工夫だと思います。とてもいい工夫です」

えっ、実の母娘じゃなかった! 私は古今亭志ん朝のこの噺によって落語の世界に入り込んだと言えるのだが、そんな印象はまったくない。志ん朝、談志、圓生さまざまな音源も聴いているが、そのような設定とは思っていなかった。

早速、志ん朝の口演を聴いてみたがそんな演じ方はしていない。談志に至っては、実の親子であることを強調している。

そうして、山田洋次の言う六代目三遊亭圓生の録音、「圓生百席」のCDで聴いてみた。すると、お兼(落語では彼女の名前は登場しない)がお久のことを「自分の腹を痛めた子ではない。先のおかみさんの子供である。しかし、あんな気立の良い子はいない」と話しているではないか。サラッとしたセリフなので、私の頭には引っかかることがなかったのだ。

さらに、お久の方にも、「実の親なら知らず、義理のある母親と父(長兵衛)の間に諍いが起こるのは耐えられない」といった趣旨のセリフがあるではないか。

CDには演じた後に芸談が収録されているが、圓生は義理の母娘であることに触れ、「昔の人は義理・人情を大事にした。こうした点が表現されないと、この噺に深みが出ない」と話している。

そこで、圓朝の速記本にあたってみたが、そこには圓生が口演したような表現はないではないか。しかし、芸談の中で、圓生はいかに「文七元結」が圓朝から自身に受け継がれて来たかを話していることから、速記本とは違い、義理の親子版で演じたのもあったのかもしれない。こちらの音源を聞くと、圓朝作をベースに、四代目圓生が完成させその形がの残っているようにマクラで話されている。とすると、四代目圓生が義理の親子版をこしらえたようにも聞こえる。

いずれにせよ、圓生同様、山田洋次はお兼とお久が義理の親子であり、それが故に互いに案じ合うという構造を重視して演出するのであろう。

こうなったら、観に行くしかないではないか。

幸い、歌舞伎座の一幕見席が復活しており、前日12時から座席の予約もできるようになった。以前のように並ぶ必要がない。寺島しのぶ出演ということもあって、人気のようなので、12時にスタンバイしてチケットを入手。歌舞伎座へとおもむいた

尚、興行は10月25日まで。気になった方は、早めに歌舞伎座へどうぞ。言って損はないです

*2023年11月8日追記
「圓生百席」“牡丹灯籠〜御札はがし“収録の芸談で、三遊亭圓生は次のような趣旨の話をしている。
“圓朝は自演の噺は弟子たちが演じているので、彼らに気を使い速記本の方は実際の口演に手を入れた。それにより、速記本の方はちょっと辻褄が合わないようになっているものもある。また、圓生が演じたものは、弟子たちがいなくなると消えていったが、本の方は残った。実際に演じた内容を本として残してくれたらよかったのに“


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