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立川談春 芸歴40周年記念興行 3月9日昼(その1)〜「鰻の幇間」長講

立川談春の「芸歴40周年記念興行〜これから〜」@有楽町朝日ホール、チケットの発売ベースで言うと第2クールとなり、私は3月9日の会に行くことにしていた。

談春が登場、これまでは記録に残すことも考え、受けすぎないように演じる“前座噺“をかけてきたが、雪を見て、そんなことをやっている場合じゃないと考えたという。立川談志に入門する際、親を同行してこいと言われたが、一人で訪問することになり、談志に叱られた。その日、東京は雪、説教されていた談志の家の部屋から雪が見えた。

「お日さまより月が良い」、「意外に思われるだろうが花が好きだ」、そしてあしかがフラワーパークの素晴らしい藤に話が及んだ。終演後の演目表には、「トーク(雪月花)」と書かれていた。

この日のネタは「鰻の幇間」と「お若伊之助」。私は「鰻の幇間(たいこ)」という話が大好きで、これを談春がどう演じるか観たかった。

主人公の幇間は、花街で有名な師匠ではなく、客先を訪れたり、往来で馴染客に声をかけて商売する“野だいこ“一八である。路上で、知り合いと思しき客と遭遇したので、なんとか稼ぎにつなげようとする。浴衣姿の客は「それじゃぁ、近所の鰻屋に行こう」と誘い、店の二階の座敷で飲み始める。運が向いてきたとご満悦の体の一八だが、客は中座するふりをして店を後にする。一八が期待した祝儀などは残されておらず、勘定もすんでいない。。。

“コン・ゲーム“という言葉がある。“信用詐欺“とでも訳すのだろうか。“コン“は“コンフィデンス“、映画「コンフィデンスマン」の“コン“である。“コン・ゲーム“を題材にした映画で、最も有名なのは「スティング」(1973年)だろう。私はこの映画に刺激され、“コン・ゲーム“を取り上げた小説を何冊か読んだ。重要なポイントの一つは、“騙す“という社会通念的には悪行を、痛快な行為に変換することである。

「鰻の幇間」も“コン・ゲーム“であり、後味が悪くならないように、騙される一八に聴き手が同情を覚えることのないように演じなければならない。

立川談志は、<志ん生と文楽(注:八代目)の違いは「鰻の幇間」で一番わかる>(「立川談志遺言大全集6」付属CDより)と言った。

八代目桂文楽は、上記のような“コン・ゲーム“としての痛快さを残しながら、幇間・一八の悲哀を、シリアスにならない程度の文学性で表現した。

一方の志ん生、私としては息子の古今亭志ん朝を挙げたいが、そのテンポとギャグによって戯画化し、面白さのみを残す作品に仕立てた。

私はどちらも好きなのだが、立川談春はどう料理するのか。

自分が騙されていたことを理解した一八、その怒りを店の女中にぶつけるかのように、クレーマーとなる。ここが、文楽・志ん朝の違いが大きくでる場面である。談春版は以下の通りである。

酒がまずい:酒が凍っている、“氷酒“だ
鰻が舌の上でとろっとこない:箱根から西は知らないが、東京では蒸して焼く。ちゃんと蒸せ。これじゃあ、“スルメうなぎ“だ
漬物が不味い/薄く切りすぎ:自家製キムチなど出すな。力の入れどころが間違っている
鰻屋の2階は、婦人と上がって色っぽい展開になるような場所。なのに、床の間の掛け軸が〜文楽は「応挙の寅」。丑寅は鰻を食べない!〜志ん朝は「二宮金次郎」:金子みすゞ「鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい」
酒器の問題:言及せず

このように、談春が描く“セコな“鰻屋は、文楽・志ん朝のそれを遥かに上回り、一層現実離れした存在とする。

さらに、談春の特徴は店の女中。通常は、必要最小限のセリフしか与えられないのだが、彼女に存在感を持たせる演出となっている。

このように、談春版として独自な視点から作られた「鰻の幇間」。騙されているらしき人間を、冷ややかに見つめる女中という、新たな人物造形を含め、45分という長講となった。

なお、噺のプロローグとして、一八がお土産を片手に馴染客の家を訪れるが失敗に終わるという段があり、その後の展開との落差をつけるために、三遊亭圓生はこの箇所は必須としている。私の持つ音源では、志ん生はこれを演じるのだが、文楽・志ん朝(演じたケースもあり)はカットしている。談春もカットだった。私はカットした方が良いと思っていたが、圓生の主張(初めて聴く人にとっては特に)も理解できる。

サゲは、文楽は客が一八の正目の通った草履を履いていき、自分が履いてきた汚い下足を残して行く。志ん朝の演出は、客は一八の草履をはき、自分のものは新聞紙に包んで持って帰る。談春は、文楽の型で演じた。

ここでお中入り


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