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紀伊國屋書店と祖父の思い出〜立川談志著「酔人・田辺茂一伝」

母方の祖父のことが好きだった。長い間、私は唯一の男の孫だったこともあり、祖父は私に甘かった。そうしたことに加えて、俳優の山村聰に少し似ていて、外出の際はベレー帽を被るなど、ハイカラで格好良かった。

大阪の私の生家は、古い言い方をすると商家である。私の子供の頃は、住み込みの若い男女が10人前後いたと思う。母は寮母さんでもあり、毎日大人数の食事を作っていた。

一方、母方の祖父は大蔵省の役人だったようで、その後、関西地方の銀行に天下っていた。祖父の家は、兵庫県の武庫之荘にあり、日曜日にしばしば母と遊びに行った。大きくはないが典型的な日本の屋敷であり、庭、応接間、離れと呼んだ祖父の寝室など、大阪の家とは全く違っていた。

桂米朝は武庫之荘に居宅があり、たまにすれ違うこともあった。母が、「米朝さんやで」と言った。当時はテレビに良く出ていたので、子供でも顔が分かった。言うなれば、祖父の住む街はスマートな桂米朝であり、私の大阪の家はもっちゃりとした笑福亭松鶴の町であった。

レストランでの、ナイフやフォークの使い方を教えてくれたのも祖父であった。そうしたことも含め、文化の香りがした。その祖父がある時、「今度、梅田に紀伊國屋書店ができるぞ」と言った。1969年、私が8歳の年、「川の流れる三番街」、梅田の阪急三番街オープンに際しての、キーテナントだった。

大型書店というのがまだ珍しかった時代ではあったが、祖父の喜びは単なる書店のオープンではなく、東京生活で体験した「文化」がようやく関西にもやってくるという期待だったと、後に思った。

立川談志の記した「酔人・田辺茂一伝」である。田辺茂一は<明治三八年(一九〇五年)、新宿の薪炭問屋「紀伊國屋」の長男として生まれる。少年時代から本屋を営む夢があり、昭和二年(一九二七年)、現在地に書店を開業>。二十二歳の時である。紀伊國屋は単なる大型書店に留まらず、<新宿に情報・文化を発信する場を生み出した>。

上京した私にとっては、文化を感じられる憧れの場所の一つであり、何度か書いた紀伊國屋ホールでのつかこうへいの芝居はその象徴である。月例開催の「紀伊國屋寄席」は現在も続き、来年には700回を記録するだろう。

その田辺茂一と親交のあった立川談志は、紀伊國屋ホールで「立川談志ひとり会」を始め、<落語界でトップへと登って>いく。なお、ここまで引用してきた“田辺茂一伝”的記述は、本文ではなく、「解説」で高田文夫が書いている文章である。

肝心の本文には、“田辺茂一伝”的な記述は僅少で、もっぱら“酔人”の方に重心がおかれ、それどころか田辺茂一を狂言回しに、談志の交友録、思い出話的な様相を呈している。

それでも、冒頭に談志は<田辺茂一紀伊国屋書店社長が私の人生の師匠であった>と書く。そこから、話はあちらこちらに飛び、所々で“酔人”田辺茂一が登場する。これらを総合的にとらえると、田辺茂一と共に吸った時代の空気が感じられ、“田辺茂一伝”的なものになっているのが流石である。

<年々、田辺茂一が恋しくなる>と談志は述懐する。

大阪梅田の開店当時のことも書いてあった。ターミナルに隣接したその店は、通勤通学通路にもなり、人流が激しく、談志は<「人がぞろぞろ来て通るだけ、買わないよ、売れないよ、立ち読みだよ。へたすりゃ万引きだよ」>と田辺茂一に忠告する。確かに、そんなロケーションである。すると、<田辺亭、いったよ。「方法はともあれ、読んでくれれば満足だ」凄いね、大仏さんの境地だね>と談志は評する。田辺茂一は「文化」が発信できれば満足なのである。

こんなエピソードもあった。十代、生意気盛りの談志、<師匠小さんに「お前は判ってない」といわれ、「でも師匠の歳になればワカリマス」>と逆襲する。人生経験を経なければ分からないことはある、田辺は<「ガァ、判ってねえや。無理もない、ま、いいや、ホシは泳がせろ」>と言う。また、いろいろ分からないと言う談志に対して、<「五十過ぎなきゃ駄目だ」>と言い放つ。

私もヤな子供の部分が多々あった。例えば、夜爪を切っていて、祖母から「親の死に目に会えないよ」と言われると、「あれは、照明が暗かった昔は、夜切ると深爪するからそういっただけ。今の明るさだと問題ない」と口答えしていた。

母方の祖父から小言を食うことはなかったが、私は理屈っぽいことを色々言っていたのだと思う。祖父は、それに対して、「お前は合理的だね」と言った。祖父も、分かっていない私を、“ホシ“を泳がせてくれていた。今となっては、世の中「合理的」だけで通用しないことは判った……と思う。

祖父と田辺茂一、全く違うキャラクターだが、明治生まれの“粋人“として、相通じるものを感じた。そう言えば、二人とも缶ピースをを吸った。祖父が、紀伊國屋書店梅田店開店を喜んだ理由も、もう少し深く理解できた気もする


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