じぃじと過ごした2000日

私もnoteなるものを記してみようか、と思ったのは、父との生活を少し覚えておきたいというのがあるから。誰かに伝えたいというのがないではないが自分のために。

母が亡くなった平成25年11月28日、その日から
私は父専属のデイサ-ビスを開設した。

父はその少し前から認知症の傾向があった。それでもおおよその人がそうであるように父も際立って変だというのはなく、物忘れが徐々に多くなっていた感じ。

私は幸か不幸か、お仕事で高齢者の施設で音楽を20年ほどやらせていただいていて少々変になった父のことを「どうして!?」とは感じなかった。年齢を重ねると人は忘れる。娘の顔などを忘れるようになると少々困ることもあるが、何とか生活できればよしとする。でも父を見るについては相当いろんなことを覚悟した。

実家の父の家と私の住んでいるところはドアトゥドアで40分程度。
朝、父は電車に乗って我が家に来て、また夕方自分の家に帰って寝る
そんな生活が延々と続いた。

父のことを考える、知る

昭和一けた生まれ。寡黙。ほんとにしゃべらない。怒ることもない。よくこんなんで仕事ができてたな、周りの人はさぞかし大変だったことと思う。

体は丈夫だった。風邪をひいても母の作った玉子酒で治す。医者にはいかない。痛さにも強い。建築の仕事をしていて骨が見えるほどのけがをしていても「痛い」という言葉が父の口から出たことはない。田舎の育ちなので小一時間歩いて小学校に行っていたと聞く。
少し早く行こうと思うと近道して山の中、道なき道を走っていったらしい。
 

母が亡くなり、さて一日を我が家で過ごすことになったものの
趣味がない、人とはしゃべりたくない、
私、どうする?
唯一歩くのは好きだとわかっていた。私の記憶で父が家でのんびり休んでいることはない。土曜日はもちろん日曜日も仕事に行った。
休日の過ごし方をしらない人だ。
定年になって時間ができると歩く。歩くしかない。一人で六甲山、摩耶山に行っていた。
お土産は山に自生しているユリとかアケビとかわらびとか。

「あんたもいっしょに行ってないか?」(一緒に行こう)と言われたけど「結構です」と断った。まさか後々にこんなことになるとは。

私はとりあえず父と歩くことにした。
午前中1時間半ほど散歩。
幸いにも我が家の付近は歩ける場所、散歩にふさわしいところが多いので歩きやすいところを選んで歩く。
そして午後は食事の買い物がてら散歩。
父が我が家に来て帰っていくまでにざっと毎日1万5千歩以上。
正直私は毎日フラフラになった。私は運動が嫌いだ。

歩くだけではだめ。歩きながら何かをする。
認知症状が出てきていた父が何とかQOLを下げずにやっていくには-といろいろ考えた。
父のためではない。自分のため。
父の認知症状がひどくなると、しんどくなるのは私なのだ。

「しりとり」
これは結構嫌がらずに応じてくれた。
しかし同じ文字からは必ずと言っていいほど同じものが出てくる。
私の知らないものの名前も出てきた。
今これを書いているのは亡くなって2週間の時点だが
いやはや、私ももうそれらを忘れている!
「え~~それなんですか?」と聞き返して何度も言ってもらったのに。
それほど私は嫌だったのだろう。覚えていたくもない、ということか。
同じものを言うと「言いました!」と私が言う。
すると嫌がらずに他のものを考える。これこれ、この作業が頭を動かすのだ、と私はほくそ笑みながら歩く。

しりとりと並んでよくしたのが100から3づつ引いていったり
7づつ引いていったり、という引き算。。
数字が何より好きだった父はそれらを好んでしてくれた。毎日繰り返してやっていると、覚えてもよさそうなもんだけれど、そこはやはりそうはいかないらしい。

気分がいい日は道行く車のナンバ-プレ-トの4つの数字を足していった。
これは実を言うと私の頭の体操にもなった。一緒に足し算しないといけないから。
こっちの気分がよくないときも多々ありそんなときはとってもしんどい。

もちろん、気分の良くない日がたまにあって、すべてのことに
「もう、よろしい」「しません」と拒否されることも。
そういうときはとりあえず、あ、そう-と理解する。          気をそらすために空に浮かぶ雲がおいしそうな食べ物に見えるね~とかヒヨドリがえらく鳴いてるね~とか話題を色々変えた。
30分もすると気分が変わっていることもある。
声のト-ンを変えたり、景色が変わったりすると気分が変わるらしい。認知症のいいところ。その見極めが私の役目だ。また引き算をしたり、しりとりしたり。

歌。
父はかなりの音痴である。私は絶対音感があり自分で口ずさめる曲なら
すぐにピアノで弾く。。
私は本当は音が半音の半音くるっていただけでも気持ちが悪いのだが
そこはぐっと我慢。一緒に歌った。
やっぱり歌の力は大きい。最初は小声でもだんだん大きくなる。
お気に入りは「二宮金次郎」だった。♬芝刈り縄ない~ 手本は二宮金次郎
他にも童謡や唱歌
「野崎参り」「湯島の白梅」「君が代」などなど。
軍歌も歌った。父が「うみゆかば~」と歌いだして なんじゃいな?と調べたら...https://youtu.be/yUwvIFYcCqo
大伴家持作詞の軍歌の準国歌だった。歌詞はともかく、個人的には君が代よりもこの曲のほうがかっこいいなと思って、一緒に歌った。
とってもへたくそだけどそこがまた父である。
声を出してくれるなら何でもいい。おまけに私もいろいろ知識が増える。

いずれにせよ、よく歩く。
私がゼイゼイいうような坂道でも平気ですたすた歩く。
本当に80歳を数年越している人か?と思った。

歩くしかない日常で 毎日晴れて散歩日和なら問題ないものの、やはり雨の日もある、台風の日もある。
そういう時はどこにも行けない。
当然家でぼ-っといることになる。
いかんいかん。
頭を使うのだ! 家で頭を使うこと-それはオセロ、そしてナンプレ。
父は数字が大好きだった。なんでも数える。
もしかすると発達障害だったといえるかもしれない。車に乗って移動しているとすれ違う車の数を数える。
亡くなる間際の数か月、ベッドに寝ているときも天井の模様である『四角』を数える。
意地悪な私は横で違う数字を大きな声で叫んで途中で分からなくさせてみることも。
そんな父にナンプレはいい刺激だった。3年ぐらい一生懸命してもらった。
初級の問題が難なくできると中級・・・と進むはずだったが、初級以上の問題はやはりもう無理だった。3年目くらいには初級もしんどかった。
できなくなると逆効果になるので結局辞めてしまった。
ふたりでやるオセロは結構楽しんでくれたと思う。
実は私の中で四隅のところには最後までおかないと自分のル-ルを作った。
でなければ私が必ず勝ってしまう。
やはり父は自分が勝つとご機嫌になる。
10回に一回ぐらいは私が勝ったけれど。
私は「また負けたなぁ~くやしいな~」なんて小芝居もいっぱいした。
「私が勝つまでしよう!」と促すと従ってくれる。これで一時間以上時間をつぶせる。

声を出す   これは百人一首でクリア。
これも私が幼いころから両親とよくしたので、特別なことではなくごく自然にできた。
父はとにかくしゃべるのが嫌いなので一日黙って過ごしても困るような人ではない。
でも。やはり声は出さなければ!脳が休もう休もうとする。
私が40枚父が60枚ほどの読み札を読んだ。
不思議なことに父は目もそう悪くなかったので100枚の札の中から読まれた札を選ぶ
その作業が楽しかったようだ。
時には本当に私より早く見つけた。「すごいね!よく見えるのね!」というと妙にうれしそうな顔をする。
「さよか?」 父の決まり文句である。大概の会話はこんなもの。
でも父も60枚の札は読むので声はかなり出していることになる。


ちょっとブレイク


父とず~~~っと一緒にいることになって一番困ったこと。
自分の買い物。
服はもちろん、靴も。そしてそして下着。
女性ものの売り場には行きづらいのだ。
服はまぁ、ネットを使う・・・。ほとんどしなかったけど。
靴は近くのスーパ-で安物を。
下着、つまりブラが問題だった。
父をつれて下着売り場に行くことは・・どうしてもできなかった。

父が自分の家に帰ってから遅くまでやっているス-パ-でパパッと選ぶ。

意外なことだけど、これが辛かった。。。のだ。

認知の症状


大阪が最多の2117人で、埼玉1782人、兵庫1585人、愛知1422人、神奈川1280人

行方不明の認知症の人の数だそう。
我が家も他人事ではない。
忘れもしない、2014年の大みそか。
私と夫がちょっと目を離したすきに父は一人で「散歩」に出かけた。
いや、本当は自分の家に歩いて帰ろうとしたのかもしれない。
自分の家に帰るには我が家からある道路まで行くとま~~~っすぐ西。  とはいうものの2時間少しかかるのだが。
その”ある道路”まで行くのがちょっと難しかったらしい。
方向感覚だけはいいので「西」むいて父は歩きだした。
私が出先から父の携帯に「もう少しで帰るから待っててね」と電話した後
「待つ」ことを忘れて!出かけてしまった。
しかも唯一の頼みの綱である携帯を我が家のテ―ブルに置いたまま。
そのころはまだ、携帯を肌身離さず持つことが まだ父の中にインプットされていなかった。
当然のことながら連絡できる手段はない。
私が実家で、夫が家でずっと待っても帰るはずもなく。
夫が警察に届けてくれた。
なんにせよ大みそか。人通りは多いからもしかしたらわかるかも。。と
私の中では家の方向に行ったに違いないとは思っても
間違いかもしれない。
「これで何かあっても仕方ない。」一晩中そう思い続けた。
次の日。世間はお正月。
警察の方は本当に一生懸命探してくださった。
我が家の周りでどこかで倒れているかもしれないと溝を中心に見回ってくださったり
近くの駅から電車に乗ったか乗っていないか―それを調べるために
駅の防犯カメラのチェックまでともしてくださった。
「お父さんらしい人はその時間帯に改札を通ってはりませんね」
なんて手を尽くしてくださるんだろう!ありがたいこと!!涙が出るぐらいうれしかった。申し訳なかった。
結局。
その正月の夕方H警察から電話があり。
高速道路を歩いていたと。名前も年も言っているのと合致すると。
ちなみに写真も手配していただいていたので父に間違いないということで。
つまり、父は一晩中丸一日かけてフツ-なら車で高速飛ばして2時間以上かかるところまで歩いたことになる。
迎えに行くとフツ-の父がいた。
いや少しだけテンション高かった。
「そんな、人が歩いたらあかん道路があるんか、さよか。」といった。お風呂から上がった父の足を見ると皮がずるりと剥けていたから歩いた距離を伺えた。

それでもそのあとも調子を崩すこともなく父はまた毎日歩くことになる。

こうして父は行方不明になっても見つかったし、名前も年も言えたからよかったけどもう少し認知が進んで名前も言えなくなったら。。。
そう考えるとぞっとした。
それ以降「携帯は必ずポケットに入れてね」と口やかましく言うようになった。
ある時気づいてベルト通しに引っ付けるチェ-ンを買い、それからは落としたり置き忘れたりする心配が少し減った。

認知といろんなものの関係

気圧というやつ。
最初の一年はそんなことを感じる暇すらなかった。
が。だんだんわかったことがある。

これはネットで調べてもあんまり出てこないし、(実は少ないけどなくはない)まして医学的にはエビデンスがない、、、らしい。
私の父観察結果であってあくまで「個人的見解」なのだが
気圧が低くなると「認知」が悪くなる。
いつもはしないことを突然したり
いつもできることができなかったり
とにかく違う。
気圧病、または気象病とか言われるものとは少し違う気もするのだ。
そのことに気づいてから、台風が近づいたときなどはいつもに増して
父のことをよく観察しなければならなくなった。

台風の近づいた朝、父はいつもと違う駅に行こうとした。携帯の「今どこサ-ビス」で分かったからよかったけど、また警察のお世話になる羽目になる。

気圧は山など高い場所に上がっても低くなる。
私も自然なところが好きでよく一緒に山に行った。
でも高い山の上に行くとやっぱりおかしい。
一人でどんどん好きな方向に歩いて行ったり
変なことを言ったり。
よくよく考えると気づく。
気圧の変化だと。わかってからは山に行くのはやめた。
 
もう一つ付け加えると、気圧とは関係なく
市販の風邪薬もNGだった。

これはたぶん父がほかに薬を何も飲まないということが原因かも。
咳もしているし 風邪薬でも飲んどいてもらおうかと判断して
飲んでもらった。
しばらくすると様子が変わってきた。
お酒に酔ったような感じになる。
少しふらつく感じもあるし。
試しにその時だけで薬をやめると元通りになる。
それ以来薬はやめた。 そしてそれは自分自身に対しても。
私自身あまり薬を飲んでいたわけではないけど、やはり風邪気味の時は飲んでいた。
人の体は自然治癒力が備わっている。それが明らかだった。
日々お仕事をされている人なら仕方ないだろうけど
高齢者の父や私なら薬なしの生活はできなくはない。「自然」を待つことができる。

父の最後は このことが功を奏したのかもしれない。

認知との共存
父の物忘れは日々増していった。
5分前に言ったことを忘れる。
ど-でもいいことならなんてことはない。
朝自分の家で起きて、それから私の用意した朝ごはん(たいていはパン、そして野菜ジュース)を食べ、。電車に乗って我が家に来る。
しかし
事態は変化していった。
忘れる。朝ごはんを食べるのを忘れる。
歯を磨くのを忘れる。
お風呂に入るのを忘れる。私の家に来るのを忘れる。電車で降りる駅を忘れる。 
私はメモを置くことにした。
A4の紙に「パパへ 朝起きたらすぐに顔を洗ってこのご飯を食べてくださいね」

数か月後には朝一番に携帯で電話を入れてもらうようにした。
「パパへ 朝起きたらすぐに〇〇に(私の名前)電話してください。☎のマ-クを押して一番を押すとつながります」
絵と文章でどうにか目に付くように記してダイニングに置いておく。

この「パパへ」というのが私的にはかなり重要だと感じていた。
私は幼いころから変わらずじぃじのことは「パパ」と呼んでいたし
父も私に電話してくるときは「パパです」と言っていた。
これでもし私の名前がわからなくなっても娘だといつも感じてくれるのではないかと
そんな馬鹿な思いだ。

こういうメモはどんどん増えた。
2年目くらいから冬はゆっくり起きるようになった。気温が低いと起きられなくなるらしい。
下手するとお昼頃まで起きない。
寝室の壁に「パパへ 朝は10時ごろまでには起きてくださいね。でないと
○○が心配してます」

我が家にいても私がどうしても少しだけ出かけるときもある。
父を看るようになって最初の3年半ほどは午前中のお仕事もさせていただいていたから
その間にいなくなると困る
「パパへ 〇〇は仕事に行かなくてはならないので、〇時までここで待っててくださいね。急いで帰ってきますから」
とか
「待っていてくださいね、〇〇は帰ってからパパの晩御飯の用意をします。なので
ここで待っていてください」
こういうメモはわかりやすい目立つようにしなくてはならないから
カラ―ペンを使ってきれいなものにした。
そして時折色や書き方を変えなくてはいけない。
父が自分の前のテ―ブルに「いつもあるもの」となってはいけない。
「あれ?何が書いてあるんだろう?」と思ってもらわなくてはいけない。
読んでもらわないと意味がない。
こうしていろんな文言を考えていても、それでもなおふっといなくなることもある。
我が家のカギは持っていてくれるので、出かけるときは必ずカギはかけてくれる。
携帯さえ持っていてくれたらそれでも連絡がつくからいいのだが。

だから私はいつも四六時中ピリピリして過ごした。
父を残して仕事をしていてもずっと気になる。心臓はずっとドキドキ状態。
だから玄関開けて父がちゃんと待っていてくれた時は本当にうれしかった。安堵した。
私は父の前では「こども」になっていた。子どもを演じた。
「いやぁ、ちゃんと待っていてくれたのね!ありがとう!!ありがとう!!」と
幼子のように喜んだ。
すると「はいはい」といってやはりうれしそうな顔をしてくれた。

私がご飯の支度をするときもメモを置いた。
「今からパパのごはんの用意をするのでここで待っていてくださいね」と。
でなければ、私がそばにいないとすぐに「帰るよ」と立って出ていこうとする。
父がいるところとキッチンはそんなに離れていないけど、それでも帰巣本能が働くらしい。

週4回は私も一緒に実家に帰って働いたが
他の日は私が夕方から仕事だったりして一人で家に帰ってもらうこともある。
家に帰って食べてもらう夕食を持って帰ってもらうのだが、それにもメモ。
「パパの晩御飯です。お茶も入っているのでどうぞ。お風呂も入ってくださいね」

そのうち父は自分の家に帰るとすぐ寝るようになった。
そこでもう夕食は私の家で食べてから帰ってもらうこととした。
夕食に関するメモはそれから必要なくなった。

辛い~どんぐりになりたい

自分のこと。父とずっといっしょに過ごす。まる一日。
私の自分の時間は母の死とともになくした。
金魚の何とか、みたい。
とにかく目が離せないから父と四六時中一緒にいる。

このことは私にとって大きな負担でもあった。ずっと心臓バクバク状態。
「楽しい」と思えることが何一つなくなった。
街を歩くと通り過ぎる人たちが笑っている。
当たり前の情景が不思議だった。
みんな、何がそんなに楽しいの?
私は生きているのが苦痛なのに。
大好きだった音楽さえ耳に入ってこなくなった。片時もイヤホンを外すことなく聞いていた音楽も聞こえなくなった。
他の人といるときは平生を装っていても、一人でお風呂に入ったり
寝る前のほんの少しの時間一人になると涙が出た。
これはきっとストレスだから泣いたほうがいいと自分に言った。ねられないのもつらかった。「ふと起きだしてどこかに行ったりしないだろうか」と考えだすと寝られなかった。心臓がまたバクバク。また泣いた。
泣いたらまた明日生きる。

それでもつらい時はつらい。
父と一緒に歩いているときに道端に落ちているどんぐりが目に入ってくる。
ぐちゃぐちゃになったドングリを見て息が苦しくなった。       「私もドングリになりたい」
私自身はとにかく昔から平凡な人生を送れればそれでよかった。
「人殺しさえしなければ人生は成功」と本で読んだ。
自分で自分を殺めると、私の人生成功ではなくなる。
ドングリになれば道に落ちてそれをぐちゃっと誰かがふんでくれる。 
魂も何もかも消えてしまうような気がしていた。
だからドングリになりたかった。
 あるいは
道を歩いているときにいきなり通り魔にやられるというのも考えた。
それならしかたないと神様も許してくださるだろうと。
車が突っ込んできてくれてもいいと思った。
テレビでそういう関連のニュ-スが流れると
「私のところに来てくればよかったのに」と考えた。


でも私は生きなければいけなかった。父のために。

デイサ-ビス


私が父のことを一人で見てきたのは訳がある。
父はとにかく人と話すことが嫌い。
デイサ-ビスやショ-トステイで過ごす男の人たちを見てきた私にとって
人とコミュニケーションの取れない男の人が なすすべなくボヤっとそこにいなくてはならない辛さを身にしみて感じていたから。
どうして女性はあんな風に知らない人と会って1秒でお話しできるんだろう。
お互い話がかみ合っていなくても「そやね~」と相槌を打てる。
仕方なく私は父専用のデイサ-ビスを開始した。

父をみていた5年半で「もうあかん、無理」と2回思った。
一度目は父を看始めて2年目。
何とか昼間楽しく過ごせるところはないものか、
私が少しの間だけでも一人になれる時間を作りたい、そう思って
HPで見つけたところに相談をした。
・・・・・・なかった・・・・・
作品を作る、園芸、囲碁将棋、すべて父には合わなかった。
その時はそれで踏ん切りがついてもう少し私が頑張ればいいと思い直した。
そして今までで一番熱いといわれた2018年の夏。
私は夏に弱い。暑さに弱い。毎日毎日へとへとだった。
「もうあかん、もうだれかにSOSを出そう」と決心。
そして「介護認定を受けてください」となって病院へ。


ここで初めて介護認定してくれるドクタ—は必ずしも認知症のことをわかってる人ではないと知った。
なんじゃそれ。
私がどんな生活を父と送ってきたかを説明しても頓珍漢な返答が帰ってきたりする。
そっか、こんな人が介護認定の書類を書かれるんだ。申し訳ないけど「あなたは何もわかっておられないわ」と感じた。
20年以上認知症の人とお付き合いしてそれに合った音楽やリクリエーションを手探りながらやってきたものとしてはちょっとお笑い種だった。
しかも!長谷川式のスケ-ル。笑う。まだこんなことをしているんだ。
でもまぁ、ちゃんと書類を書いていただかないと介護認定をされないんだから。
言いたいことは胸にしまって話をハイハイと聞く。
長谷川式はお断りした。そんなことしなくても認知だと私が誰よりわかっている。

で、なんとか父は要介護1の判定をいただき、ケアマネさんも決まった。
ケアマネさんはとにかく「娘さんのことが心配です」と
随分私のことを気遣ってくださった。
あとから聞けば、私はどうもひどい顔色で今にも死にそうな見かけだったらしい。
一週間に一度でも数時間でもゆっくりと過ごしてください、と
父の得意な体を動かすサ-ビスをすすめてくださった。
器具を使った運動をするデイサ-ビスだった。             マシンも充実したところだった。
そこの職員さんも「娘さんが倒れたら元も子もないから」と私のことを心配してくださる。
今思えばありがたいことだけど、その時は私の頭も心も凍結していて
父のことしか考えられなかった。
其処にいるときにふいと勝手に出ていったらどうしよう、
ふと時間が空くときがあると父はどんなふうに考えるんだろう?とかそんなことばかり考えた。

スタッフの方にもそう話してとにかく次々とやることを指示してもらい
考える暇を亡くしてもらうこと、そして
ふっと出ていくことがないように入り口付近から離れたところに座らせてもらうこと
私も
『スタッフの人が「帰りましょうね」と言われるまでそこにいてくださいね』
と書いたカードを父に首からぶら下げてもらい またまたメモ作戦を実行。
送ってきてくださったスタッフが
「お父さん、ちゃんとカードを何度も見て確認してはりましたよ」
と言ってくださったからそれも役に立っていたようだ。
幸い内容も父には合っていたようでプログラムを淡々とこなしていったらしい。
「ほんとうに88歳とは思えない!元気ですよね!」と言われるほどだった。
もう少し慣れはったら時間を延ばして一日にしましょうね、と
週に一度父のいない3時間ほどの時間を得ることができた。
子どもを保育園に行かせた母のようだった。
ちゃんとしているかな、勝手に出て行ってまた行方不明になったりしないかな。一人でいても考えることはそれ。
無事に帰ってきたときは安どした。
その日は午後からまた私の家に来て夕方まで過ごす。
そうこうして2018年はすぎていった。

もう少し

年が明ける。2019年
お正月も終わり、いよいよまたいつもの生活が始まるとの思われた1月

11時になっても起きたよ、という電話連絡がない。
「あ~今日も起きるのがおそいな 。。」そう思った私、いつも通り迎えに行く。この頃父は冬になるとなかなか起きられなかった。
いつものようにまだベッドの中で寝ている。
「起きてくださいよ~~!」というと
「はいはい、おはようさん」といつもの父
着替えをして顔洗い、朝ご飯を食べ…としていると咳を何回かする。
高齢者はのどが詰まりやすいので、ご飯の時にせき込むことも珍しいことではない。
お茶を飲んだり、ジュ-スを飲んで様子を見る。
でもこの咳の仕方はどうも風邪っぽいな~~
そう思いながら我が家に来て、のど飴をなめてもらったり
はちみつをなめてもらったり。
「今日は寒いから散歩もあんまりしなくていいかしらね~」と言うと
「まぁ、せやな。」
まぁ珍しい、父がこんな風に言うなんてよほど調子が悪いんだなと感じる。
それでもお昼には軽くおじやを食べたりするから
あんまりひどくなるようなら薬を飲んでもらおうか・・・
でも市販の薬はまた厄介だからどうしたもんかな、、とあれこれ考える。

夜は自分の家でお風呂も入り晩御飯におうどんも食べ
そのあといつものようにテレビも見ているし
でも咳は続いていたから
「パパ、今夜は1階で寝る?途中でトイレに行くときも楽やし」
というとこれまた素直に聞き入れた。

1階に布団を敷いてあげてそのままテレビを見ながら寝る態勢になる。
この5年でこんなことは初めて。私はそれを見届けて帰ることに。

帰りの電車の中で私は自分が結構しんどいということに気づいた。
父のことをあれこれ気遣っていると自分のことは忘れている。それでもちょっと違う。

「あれ、節々が痛い」
「ふらふらする」
「これはもしや、フル-ではないの?」
「ということは、父もフル-ってこと?」

とにかく私がひどくならないようにしなくちゃ、と帰ってとりあえず寝る。


翌朝、私はまず父のところに。
トイレの近くで吐き戻したようなあと。
あ~やっぱりそうか・・・
「しんどいですか?」と聞くと、案の定「だいじょうぶ!」と答える。

いろんなことを考えながら家のすぐ近くの病院に行く。まず私を見てもらった後相談しなくちゃと。
私が「A 型です」
となったところで
「実は昨日から父がそれっぽくて、今朝も吐いた跡があります。
 ここまで連れてくるので看ていただけますか?」
看護師さんはドクタ―と相談して
「この病院は今受け入れるベッドの余裕がないから、無理だわ」と断られるも
「家、近いので車椅子貸していただいたら連れてきますから」とただ診ていただくだけでいいからと食い下がる。もNG。

今までちょっとした風邪なら薬もなくやり過ごしてきた父。
今回もどうにかなるんじゃないか?とか
いやいやこれはあかん、絶対にドクタ—に看ていただかなくちゃ、とか
でもタクシ-に乗ってその運転手さんにうつしたらどう-するよ?
今寝ている状態から玄関までも歩けないだろうな?
父をおんぶなんてできないわな?とか
もう本当に苦しくなるぐらい考えた。
結局私の出した答えは「救急車」
救急隊員の人にうつったら申し訳ないけどなぁ~と
断腸の思いだった。
じぃじに「今、救急車呼ぶからね」というと
「なんでや?誰が悪いんや?」ときた。この時はもう呼吸が苦しそうだった。
そして「大丈夫」とまた言った。


救急隊員の方たちは天使だった。
状況を説明するとてきぱきと動いて「お名前言えますか?」とか
意識のあることを確認して一人の隊員の方が父を背負って車に運んでくださる。
一応みなさんマスクはされているけれど、うつったら申し訳ない!!とずっとそればかり考えた。

本当に幸いにも一つの病院が受け入れOKということで運んでもらった。
病院のドクタ-も看護師さんたちもまたまた天使だった。
嫌な顔一つせず動いてくださる。
「娘さんはインフルエンザと確認済みです」と声が飛ぶ。
あらかじめしていた私のマスクの上にもう一枚マスクをしてくださいと
渡されて2枚のマスク状態。あ~そうか。こうすれば少しでも違うわな。

父は熱もあり、インフルエンザと肺炎を起こしているということだった。
それでも意識はあって「しんどい?」と聞くと「だいじょうぶ」と答えた。

そのあとどうやって家に帰ったかわからない。
そう、私もインフルエンザ。しんどいのはしんどい。

その後私は2日ほどの記憶がない。実家でずっと寝る。

宗教

母が亡くなったとき、うちは「何宗?」となった。
宗派によってお坊さんも違うし、お代金も違うと初めて知った。

恥ずかしながら当時52歳の私は何宗か全く知らなくて、というか知ろうと思ったこともなく
その時父に聞いたら「さぁ、なんやったかいな?」というし。
母はお風呂で亡くなり、その第一発見者が当然父だったこともあって
父は頭が真っ白になっていたんだと思う。
何か月か経って改めて聞くと「天台宗」と即答した。

母の葬儀は結局違う宗でしていただいた。
息子の友達の家がお寺で、その宗派だったから。そこの宗派で。

ただこれがきっかけで私は深く考えるようになった。
「仏教」というものはもともとお釈迦様が教えてはったものなのに
なんでそんなに違うものがあるの?
意味が分からない。
息子がお世話になっていた学校は真言宗で、保護者会では親が歌を歌った。
母の生家の宗派は浄土宗。祖母や叔母が仏壇でむにゃむにゃ言っているのを
よく聞いていたから、それはよく知っていた。
ご詠歌なんてものも歌える。

仏教とは一体なんだ?
と心の片隅で思い続けていた。

そんな時ちょうどテレビで出会ったのが「維摩経」
NHKのテキストを買って読む。
「自分の都合を小さくすると生きやすい」
以前から自分がそうじゃないかな?と思っていたことを「そうですよ」と
背中を押されたように感じた。
今は父のために生きる。自分のことはとりあえず置いておく。
そうだ、いつまで続くかわからないけどやれるところまでやる!
えらい方もそんな風に考えていたんだ、と
こんな風に考え始めると少しだけ、少しだけだけど
「だれか私を殺して病」が治まった。

父のインフルエンザは間もなく快方に向かった。
2週間ほどの処置のあと、普通病棟に。
それでも肺炎は引き続きよくならなくて、しばらくは家に帰れない。

私のインフルエンザも完治。
自分の体調が戻ると、また心配事が次から次へとわいてくる。
「意識が戻ったら病院から家に帰ろうとするだろうな」
「病院を抜け出していったらどうなるんだろう?」
「また警察にお世話になるんだろうか?」
「よしんば、退院したらもう今までのようには生活できないだろうな」
「今までより私はもっと苦しまないといけないのか?」
考えれば考えるほど哀しくなった。

これからの不安がまた大きくなってきた。

それでも、今は自分一人の時間だ。
5年と少しず~~~っといっしょだった父が側に居ない生活。
次にこんな風に自由の時間を持てるのはいつか分からない。
そう考えて気分転換をするために買い物に出かける。
父が一緒でない歩行は、なんだか体が傾いた。
いつも横にいた人がいないということはこんな感じなのか。
「自分の時間」、だれにも気遣うことなく過ごせる時間。
なのに。
いろんな商品を前に、私は戸惑った。
「ほしい」と思うものが何もない。
父と一緒だと「あ~ゆっくりあれこれウインドウショッピングしてみたい」
と思っていたのに。
「買い物の仕方」がわからなくなっていた。
洋服もどうやって選んでどうやって買おうと思ってたんだろう?
・・・・・
2年前までいてくれた愛犬もいない。これはとても大きかった。

時間はあるはずなのに
家にいても落ち着かない。何をすればいいのかわからなかった。
ある日、昔の友人たちが「会おう」と言ってくれた。
本当に久しぶりに友達とゆっくり話す。                あ~こんな感じやったな、人と話すって。。。
本当にありがたかった。

そして、驚いたこともある。
いつもご挨拶くらいしかしないご近所の方からふと声をかけられた。
「もしかして間違っていたらごめんなさいね、いつも一緒にいらしてるのは
お父様?」と。
いつも父と一緒に歩いている私を遠くから見ていらしたらしい。
その方は「あなた、すごいわね」と、また              「私もあなたみたいな娘が欲しいわ」
とも言ってくださった。

こういう声掛けはこの方のみならずほかの方からもしていただいた。
一人や二人ではない。
みなさん、遠くからずっと見守ってくださっていたのだ。
なんてこと。なんてこと。
私はそんなことをつゆとも知らず、
一人で頑張っている、なんて思いあがっていた。なんてこと。
ありがたかった。本当にありがたかった。
もう少し頑張れる、とそう思った。

父はインフルエンザが完治して食欲も戻ってきた。
私が心配した通り歩けるようになると外に出ようとする。
病室を出ようとするとナースセンタ-に知らせるセンサ-をつけて下さり
何度か捕まえてくださったこともあるようだった。
しかし、こればっかりはもう私の手の及ぶところではないので
成り行きに任せた。
病院に慣れてくると、それも少なくなった。
ところが。
退院の話が出始めたとき父の食欲がなくなった。入院から1か月弱の時だった。
「はい、もうごちそうさん。」
看護師さんたちに「もう少し食べてくださいね~」と言われても。
今までご飯を残すことがなかった人が残すようになった。

ドクタ-は
「もしかしたら認知が進んでいて、よそのごはんを食べようという気がしなくなったのかも」とおっしゃる。
トイレも自分で行くし、私が病室に入ると「おっ!」と反応する。
「家に戻られたらまた食欲が戻ることは大いに考えられます」と退院を勧められた。
ただ。
「首から足の付け根までのレントゲンを撮ったんですが、、、」と
癌の可能性を示唆される。
そりゃ、人間88年も生きていれば病気の一つぐらい癌の一つや二つあるだろう。あんまり驚きもない。
20年以上高齢者のところで音楽をさせてもらっていると
自分はどうやって逝きたいのか考えるようになる。
仏教的に言うと「逝きたい」という表現もほんとうはNGだ。
「たい」は自分の欲求である。
自然に任せる、というのが私の生き方。
しかしこれは私個人の意見。人に同意を求めるわけではない。
親子であっても人格は違う。これは私の中で揺るがないことの一つ。

父はどんなふうに思っているか。
私は今までのことを一生懸命思い出そうとした。

私の知る限り父は「~~したい」というのがない人。
着るものだって「なんでもよろしい」
食べるものだって「なんでもよろしい」

目の前にあればそれを着る、それを食べる。
お金についても同じ考え。

こう考えると私はやはり父に似ている。笑える。
でもこうして生きていると楽に生きられる。
この考えは曽野綾子さんにも背中を押された。
「人はしたいことをするのではなく、するべきことをする」

そこで私は成り行きに任せ退院してもらうことにした。
父に話すとその時だけ「もう少しここにおってもええ」といった。
これは珍しく「もう少し病院に居たい」ということ。
でもドクタ-がそうおっしゃる以上退院だ。
父の「たい」は却下されたけど、何とかなる。なるようになる。
ケアマネさんも「しっかりサポ-トします」と言ってくださったし。
どこかの老健にお世話になることも考えたが、一人でトイレに行けるし
これ以上精神的な負担を父にかけると認知が進むと考えた。
「じぃじのため」???
「認知が進むと私がしんどい!これって私のエゴやん!」とも考えた。
しかしケアマネさんが「一度家に帰ってみてどうしても無理そうなら
またそこから考えましょう」と言ってくださった。
やっぱり右だ、いや左,いや右!とにかく考えて考えて考えた。
そして私が後悔しない方法をとなった。様子を見る。
2階の父のベッドを1階に下ろし、マットレスを体に優しいものに新調。
ケアマネさんのお勧めで手すり(ベッドから起き上がりやすくする)を置いてとりあえず家で過ごしやすくした。
さ、ご飯を食べてもらおう!

自分の家で過ごす

とりあえず自分でトイレに行ける。
ベッドから起き上がるのもそんなに心配ないし、何より軽やかに歩けた。
なので今度は私が自分の家から実家に『通う』ことにした。
朝8時ごろから夜8時ごろまで父の側に居て、夜は家に帰って寝た。
そして。
親指の先ほどのおにぎりを作る。
ノリで巻いて香りもいい。でも鼻が利かないから意味ないんだけど。
最初の1か月弱ほどは一日にそのおにぎりを2つほど食べてくれた。
「もう一つぐらい食べてくださいな」と口のところにもっていっても
「もうよい」と拒否。
父の好きなお酢のご飯にしても同じだった。
有名なお寿司屋さんの巻きずしならどうかと試した。結果は同じ。

訪問看護の看護師さんも「少しくらい召し上がりませんか?」
と言ってくださったけど受け付けなかった。
果物ならどうかとイチゴやバナナ。
ヨ-グルトもプリンもNG
ただ飲むことは拒否しなかった。
飲むヨ-グルト、乳酸菌飲料、そしてジュ-ス。
特にお気に入りだったのは私がリンゴをおろし器ですって作るジュ-スだ。
これはごくごく飲んでくれた。
それと訪問のドクタ-が勧めて下さった高カロリ-飲料。
これらをとっかえひっかえ飲んでもらう。
家にあるすりおろし器はあんまりよくなかった。
少し困ったことは腕がつかれること。一日2~3個ほどすり下ろすのだが、腕がパンパンになる。
ネットでこれはオススメ!というおろし金を購入。
数千円したけど、これがまた優れもので明らかに楽にすりおろせる。
なんでもある時代だ。洗濯も洗濯機がしてくれる。
私は小さな小さなおにぎりを作りリンゴをすりおろすぐらいしか役目がない。
やがて、固形物は食べなくなる。一旦、口に入れたイチゴも出した。
私は無理強いはしなかった。

「食べる」ことを拒否するということは
「生きる」ことを終わろうとしている、そう感じたからだ。
一般的に考えてみれば薄情な娘だ。何とかして栄養を取らそうとするのが普通かもしれない。
しかし「生きる」ことを終わろうとする人を邪魔してはいけない。
全くもって私の勝手な思いだけどそんな風に感じた。
本能で幕引きをしているのではないかと、私は思った。
実はこんな風に思うことには大きな理由があって
本当はその理由も書きたいのだけれど、はばかられるのでここではやめておく。

とにかく。
一か月間ほどは一日に1リットル弱ほどの水分をとっていたことになる。

私以外の人にみてもらう
ここで、定期的に来てくださったドクタ-と看護師さん、
そして介護用品のことっをあれこれ考えて下さった方、そしてケアマネさんについて。

もう皆さんにどんなに感謝してもしきれないほどありがたかった。
退院してすぐケアマネさんが手配してくださったドクタ-と看護師さん。
合計5人が父のことについてあれこれ話し合ってどんな介護をするのがいいのかを一生懸命考えて下さった。
私はその場にいて号泣してしまった。
それまで一人であれこれ考えた、人に頼ることなく、とにかく自分で考え
そして行動して5年の日々を夢中で過ごした。
今目の前にいる人たちはみなさん父のことを一生懸命に考えて下さっている。
もう、どうしていいかわからないくらいありがたかった。

ドクタ-は週に一回。
物静かで、でも父にはちゃんとやさしく語りかけて様子を把握してくださる。
そして看護師さん。週2回。基本おひとり。
一日だけお風呂に入りましょうと 二人で来てくださったこともあった。
お二人とも優しくてしっかりお仕事される方。当たり前かもしれないけど
私は20年以上も介護施設でいろんな人を見てきたからわかる。
心からその人を思って作業されているかどうか。

歯磨き,清拭、着替え、足を湯につけて洗ってくださったりもした。
バイタルチェックだけだと思っていた私は驚いた。介護士の仕事だと思っていたことを次々して下さった。。

褥瘡のこともよく観察してくださった。
自分で起きてトイレにはいくけれど、そのほかは全く動かない。
臀部の上あたりが赤くなったりして「これがひどくなるともっと痛みがあります」と言われた。
何しろ固形物をとらないのでどんどん痩せていく。
最後のほうは骨が見えるほどだったらしい。

娘の私が褥瘡の様子を見ようとしても父はそれを許さなかった。
「よい」と布団を抑える…見ないでいい、つまり見るな、ということだった。
看護師さんだけには素直に従った。
こういうことも私は父の命令に従った。
看護師さんが勧められた褥瘡を防ぐマットレスを介護用品担当の方にお願いする。
お二人で時間を合わせて来て下さり話し合い。
どれが適当なのかを協議してくださる。
こんなことってあるの?
たかがマットレスでこんなにいろいろ考えてくださるなんて。
またまた感謝。

日本のこのシステムは私が考えるよりよほど優れていた。
いや、優れていたのは担当してくださった看護師さんたちなんだろう。
感謝しかない。

100わに

終わったとたん、喧々囂々のネット。
個人的にはふんふんとうなずくところ大いにあり、あ~やっぱりね、と腑に落ちるのだった。
これはいつ終わるともわからない「介護」をしている方なら誰しも感じることだ。
毎日毎日 同じ人を同じリズムでお世話するのは本当に苦労が多い。
うちの父の場合は文句言ったり馬騰したりすることもなかったから
そういう意味ではとてもらくちんなものだったかもしれない。
実際私は最後の最後まで「下の世話」もしなかったので
本当の介護をしなかったことになる。

もし神様か誰かに「あと100日でこの方は昇天します」と言われたとしたらどうだろう?
ほとんどの介護者が「あと100日」なら頑張ろう!なんて思えるに違いない。
私は父が一切固形物を食べなくなり、ドクタ-から「点滴しましょうか?」と言われても「よろしい」と拒否した時点で、終わりを見た。
それまでは「いつまでこの暮らしが続くんだろう?」
と毎日毎日苦悩した。私の人生にはもう自由な時間はないのかな?とか
もし私が先に逝ったら父はどうなるんだろうとか、いろいろ考えた。

が、点滴を拒んだ時からあと何か月、とはわからないけど
とりあえずはできることを今まで通りする!と心を整えた。


自分のことを「あと何日」と知ることはぜったいにあってはならない。
ワニくんがフツ-の生活がおくれたのはそれを知らなかったからだし
人はそんな風に生きることが使命だとも思う。

ワニくんをみて自分も確実に「カウントダウン」されていると認識した人は
私も含めて多かっただろうと思う。
この今の物騒な時代だからこそこの認識は大切なのだ。
ちょっとしたことで大笑いしたり 泣いたり。
最後の父をみていて今の一瞬一瞬が貴重なのだと感じた。
そんなことを思い起こさせてくれた「ワニくん」だった。

残された日々

毎日リンゴジュ-ス、あるいはカロリ-飲料のみの生活が1か月、2か月と続くにつれ
「せん妄」が出始めた。
私をちらっと見て「なんや、前に進まへん。早う行ってほしい。。」

「そこにお金落としたら拾って」
「あの紙を落としたから拾って」
「あそこに(壁の上のほう)になんや紙があるのをどけといて」

父のさす方向には何もない。
「わかりました、ちゃんと拾っておきます」というと
「今、やっといて」と念を押す。
ご飯のテ―ブルの上に置いたランチョンマットが少し歪んでいるのが気になる人。
玄関の靴がちゃんとそろっていないと嫌な人。
でも、そのことで私や母に「ちゃんとしろ」と言うこともなく黙って自分でする。
 
なのでこういう時は適当に話を逸らすとか、私がそこから席を外す、
と色々策を練る。
脳に酸素が行きにくくなることから起こるといわれているが
ひどい人はもっと看護者を困らせるような行動や言動をすると聞く。
父はまだそこまではいかなかった。
熱が出ることもなく、側に居る私にとっても「楽な」見守りだったと思う。
毎晩自分の家に帰ってお風呂に入って寝た。
朝は自分の家の洗濯などの家事ををちょろちょろっとしてまた父のところに行った。

このころ一日に500㏄ほどの水分をとって
一日に3回ほど自分でトイレに行った。
夜中にも1回ほどトイレに行っているようだった。
その生活が変わったのは4月の半ばだった。

4月の18日、いつものように父のところに行く。
寝ている部屋のドアが開いている。
入り口のところで父が寝ていた。
いつもトイレから帰って自分のベッドに自分で上がって寝ているのに。
気分が悪くなったのか、と思いきや
「自分でベッドに上がれなくなった」ということらしい。

もう限界かな・・・
オムツかな。
でも嫌がるだろうな。

私は結構背も高いし力もある。
しかしいざ、父の体を起こして「ベッドにあがりましょか」と
声をかけてあげようとしても 重い。 重い。
父はこんなに大きかったんだ。父もしんどそうだ。
やっとの思いでベッドに戻ってもらう。
正直、一年たった今どうやってベッドにあげたか覚えてない。
でも「無理やな、これは」と感じる。


思いついたのが「ひも」だった。

実は私がネットで得た知識で「ヒモトレ」というのがあった。
紐が人の体のバランスを整えてくれる、というものだ。
まるで怪しげな宗教かいな、と思いきや
ヒモトレした私の足は、かかとはそれまでのザラザラから
つるつるに変身した。
意味が分からない。わからないけど曲がった高齢者の腰が伸びて歩けるようになったり
その効果(実際この言葉を使うことには抵抗がないではない)が目に見える。
バッグにいつも紐を入れていたので、それを父の腰のところに緩く巻いてみる。
「効果を求めていない」と言えばうそになるけど
そんなに期待していたわけではなかった。
その日の夕方「トイレ」とじぃじが起き上がろうとする。
私は戻ってきた父をベッドに上げる覚悟を決める。
トイレに行き帰りの足取りはもうフラフラだった。
危なっかしいとはこのことだ。
それでも自分で用を済ませて、部屋に帰ってくる。
いよいよベッド。腰にはひもを巻いたまま。
---------------。
体を抱えようと用意していた私をしり目になんと楽々上がれた。
父は当たり前に感じているだろうけれど
いやいや朝のベッドに上がる様子と比べたら!違う人だった!それより、よくよく考えてみたらトイレまで行ってトイレができることがすごかったのだ。

「ひも」のパワ-はすごかった。
百均の紐だ。

それまでもいろいろ考えていた体の不思議を思い知った。

限界

ベッドに楽々上がれる、といっても
やはりたとえ数十歩しか離れていないとはいえ、「歩く」というのがもう無理なのかも、と思い始めた私はいろいろ考える。
思いついたのが「災害時用のトイレ」だった。
よく知らなかったけどネットで注文してみる。

モノは「ダンボ-ル」だった。

画像1


結論から言うと本当に優れモノだった。
父が寝ていたところは6畳の狭い部屋。ポ-タブルトイレを置くと余計に狭くなる
普段は隣の部屋に置いておいてトイレに行きたくなった時に側に持ってこられる、
そんなことができればいいと思っていたのだが。
まさにそれができるものだった。
これは組み立てた状態で、配達された時には平面状のもの。
これにビニル袋をセットして尿など固める粉を入れておく。
段ボールなので軽い。父がベッドから起き上がろうとしだしたときに
さっと隣の部屋から持ってくる。
用を足しても殆ど臭わない。蓋もできる。  しかも安い。
父がドスンと座っても安定もしている。

あとでケアマネさんがご覧になって、言ってくださればよかったのに、と言いつつ
「これはいい!」とほめて下さった。
「フツ-のポ-タブルトイレは持って動くことなんてできないし
いかにも“トイレ"だし。。。これならお父さんも抵抗ないですね」と。

おっしゃる通り父が「いやや」と言えば元も子もなかった。
でもやはりトイレへの道のりが長かったのだろう。本当はしんどかったのだ。
素直にこのトイレで納得してくれたのだった。
言うまでもなくこのトイレは実際に災害があったら
私たちにとっても一番に役に立つ。

父がベッドに上がれなかった4/18から
私は自分の家に帰って寝るというのをやめた。
トイレをするのを見守ることにする。
とりあえずどのタイミングでも(朝でも昼でも晩でも)
作ったジュ-スを飲んでもらってトイレに行った後すぐ私は自分の家に帰る。
自分の家の洗濯などの家事を済ませてまた父のところに。
夜は父の隣で布団を敷いた。

この時 人センサ-のついた小さい電灯をセット。真っ暗な中トイレをとりに動くために用意した。父がトイレに起きようとする、私が起きて動くと明かりがつく。
亡くなる1週間ほど前。夜中に父が動いていないのにこの電灯が10分おきくらいに点灯した。
あっちでは父を迎える準備で大わらわ、のように感じた。怖くはなかったけど、何やら複雑だった。次から次へといらっしゃっている。

それ以来、電灯をセットするのをやめた。


ずっと寝ている間これと言って何をしなくちゃいけないということがないのでふとぼーっと考えた。父のことを看ることになったのは母が亡くなった2013年の11月だったな。
「この5年5か月って日にちにしたら何日くらいなんだろう」

計算してみたら、、約2000日。

以前記したように父を見ている間何度となく鬱になっていた私は
仏教の本をいろいろ手にした。
その中でも「千日回峰行」には惹かれた。
祈りはもちろん堂入りと呼ばれる断食、断水、不眠、不臥、を7日間続ける
というような行を含め、約1000日間(正確には975日らしい)真言を唱えつつ山中を歩く、歩く。途中で自分でだめだと思ったら自決しなくてはならない。

バカな私は「やってみたい」と思っていた。そこまで自分を試すことができるか。一方で”自分の時間がない”とお風呂に入るたびに泣いて参っていた、というのに。

そしてこの時 何日だろうと数えて”2千”となって私はうろたえた。
夜は一応自分の家で寝て、ご飯は食べようと思えばいつでも食べられる。
お風呂にも入る。トイレにも行く。
よく歩くから靴はあっという間にダメになって、ということはあったけれど
もしかしたらやっぱり私は修行をさせていただいていたのか。
やりたかった千日回峰行モドキをやらせてもらったのか。
本当の修業はそんなもんではないと承知している、しているけれど。
このころの私は肝が据わっていた。
怖いものもなかった。(畏れはあったけど)
モドキなんだけれど辛い時間を過ごしてみて、確かに何かが違っていた。
言葉にできない何か、である。

よかった、投げ出さなくてよかった、そう思うと泣けた。
変な言い方だけど私には入り口が見えたようだった。

そう思うと父にもこの2千日にも感謝だと思い始めた。

父はせん妄が出たり たまに気分が悪い、ともどしたりすることもあったけどとりあえずは穏やかに生きていてくれた。

生きる

父が家で寝るようになって私はそばでキ-ボ-ドを弾いた。
高齢者施設で20年も音楽をやらせていただいていたのだ。
役に立たせなければ。

この5年半の様子を見るに、音痴な父は歌が嫌いというわけではなさそうだ。
なので知っているであろう曲をたくさん弾いた。
「桜井の決別」をはじめ「二宮金次郎」「鉄道唱歌」などなど。
もう歌声はなかった。でも口は動いていた、手も布団の上で拍子をとっていた。

穏やかな時間があった。
「歌って疲れたでしょう?ジュ-スでも飲みましょうか?」といえば
か細い声で「せやな」と言って飲んでくれた。
窓の外は蒼くてピンクだった。桜が咲き始めていた。
そして父からみえるところにしょっちゅう「ツバメ」がいた。
「みえますか?ツバメ!」というと黙って首を縦に振った。
「本当は桜も咲いててきれいなんですよ、見に行きたいでしょう??」というとそれには首を横に振った。やはりしんどいのね。あるいはそういう欲望もないということ。 もともと欲がないものね。

生きた

「令和」が始まった次の日。

愚息が帰省してきた。
愚息は父の唯一の孫である。
「じぃちゃん、ただいま~」というと
満面の笑みになった。これほどまでに違うものか。私には見せることのない笑顔だ。

そんな日の晩のこと、呼吸がおかしい。

高齢者のみならず、子どももそうだけど夜中の変調は少し恐ろしい。


息が荒くて「ここが痛い」と胸をさする。「ここも」と褥瘡のところ。

父の人生で「痛い」という言葉は初めて発したのではないか。
よほど痛むのだろうと察しが付く。
少しさすっていたら「もうよい」と手を払う。
以前ドクタ-からいただいていた痛み止めの薬を飲んでもらい
とりあえずまた寝息を立てる。

翌3日、看護師さんが「褥瘡が相当ひどいです」と。
GW中だから先生と連絡とれるかどうかわからないけど相談してみますね、
と言って下さる。
実はこの1週間ほど意識がもうろうとしていることが多かった。
私から見たらちょっとあちらの世界を見てきます、となっているみたいだった。あっち行ってはこっちに帰り、みたいな感じだ。

それでも一日に2回ほどは自分で起き上がってトイレをする。
飲む水分は100㏄ほど。
尿はほとんど出てなかったんじゃないかと思う。
でも尿意があって起き上がるのだ。
結局ドクタ-とは連絡がつかなかったと看護師さんから連絡あり。

その夜も父は痛がった。
もう一度痛み止めを飲んでもらった。
私はだんだん覚悟を決めて過ごした。

生きた、生きた

5月4日
いつものように時間が過ぎていく。
朝7時ごろトイレをしていつものようにジュ-スを少し。
お昼過ぎにまた水が欲しいという。この時はもうジェスチャ-で訴えていた。
「あら今日はたくさん飲みはるんですね、もう春やからのども乾きますか?」
と言いつつ50㏄ほどのジュ-スを飲んでもらう。
しばらくするとまた「なんか飲むもんちょうだい」と催促
いつもとは少し違う様子に戸惑ったけど、確かにその日は天気も良くて
春らしいあたたかい気候だったからのどが渇くのかとまた50㏄ほどのお水。
これもごくごくと飲み干す。

しばらくして突然「起こして」と手を差しだす。
いつもトイレに起き上がるときは自分で手すりをもって起きるのに
なぜかその時私に起こせという。しかもトイレとは反対方向に。
「トイレはこっちですよ」と言ったりした。それでも「起こして」。
何をしたいかがわからず「どうして?」と聞くも
またまた「起こして」と両手を差し出す。
何が何やらわからず私は手をもって起こそうとした。
体が少し上がったその時、もっていた手がするっと抜けた。
あっという間に父はベッドにどたっと落ちる。
瞬間私は悟った。
「あ!いっちゃった」午後2時50分。
テレビでは阪神が勝っていた。

不思議に涙が出ない。
よう、最後まで生きてくれた。そう感じた。

ほんとに最後まで生きた。


葬儀を済ませた数日後、看護師さんが弔問に来てくださった。「私、今回初めて人が枯れるように亡くなる、というのを体験しました」とおっしゃってくださる。色々な考え方があるだろうけれど私自身はそれが人の本来の姿だと感じていた。父はどう思っているか知らないけど、私は自分がそうして欲しいように父にした。私のおおきなお役目は終了した。

最後に

父を見ることになって、オットは表面は何事もなくふるまってくれた。私はそれが申し訳なくて彼には私の思いを何も話さなかった。休みの日には車を出して父と私をショッピングに連れて行ってくれた。行方不明になったときも警察に行って手続きしたり走り回ってくれた。少しでも嫌な顔をされたらもう終わりだと私は自分に言い聞かせていた。彼は耐えてくれた。最後のほうはろくに食事の用意もできなかった。内心では舌打ちをしていたんだろうと思う。それでも何も言わずにいてくれた。これはとてもありがたかった。本当に感謝している。

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