見出し画像

流れ者のつれづれつらづら。(序)

2011年3月11日金曜日。

僕は当時、住み働いていた神奈川県横浜市の、とある企業のコールセンターの休憩室で同僚と、遅い昼食をとっていた。

…地震か…?カタカタ…次第にそれは、いつも経験してきたような揺れとは、明らかに異質の、そう、地面もろともビルが根っこからぐるんぐるん回されてるような、立ってはいられない揺れだった。

「早く机の下!!」

誰ともなくみんないっせいにもぐった。長い…。いつまで揺れるんだ、これ…。未だ現実感のない状況だったが、今、振り返ると驚くほど冷静な自分がいた。

揺れが収まってオフィスに戻ると、すぐに屋外への避難が始まった。初めて降りる非常階段。既にあちこちに亀裂が入り、床にはそこから落ちたであろう小さな欠片が散らばっている。

横浜もあの日は寒かった。職場は女性、特に小さいお子さんのいる方が多く、みんな学校や保育園や幼稚園に連絡するがなかなか繋がらない。そんな中大きな余震が繰り返す。ガラス張りのビルが、皿にのせた豆腐を皿ごと揺すったかのようにたわんで揺れる。あれが割れたらどうなるんだ…。寒さと相まって未知の怖さが迫ってくる。

ある程度余震が収まったところで、業務再開とのクライアントの上の方からの声。ぶちきれるお母さんたち。当たり前だ。我が子の消息安否つかめていないのに。

結局、所属会社のマネージャーが押しきって、業務は終了、退社となった。僕も家路につこうとしたが…電車が止まってる?いつ動くかわからない?

携帯をみると家族やら友人やらから着信やらメールが。家族はどうやらみんな大事ないらしい。友人のひとりからのメールに救われた。「借りたバイク、駐輪場に止めておいた」。横浜からなら自宅まで普通30分弱で帰れる道は、消えた信号と車の渋滞と車道を歩いて家路を急ぐ人たちのために、結局2時間くらいかかった。

帰る前に次妹の家へ寄る。室内で買っている犬が気がかりだが、仕事の関係で(当時は特養でケアマネージャーしていた)、どうしても離れられないとのメールをもらったからだ。

いつもは懐いてこないヤツが、鳴きもせず側によってきた。怖かったんだな。そっとさすってやったら、初めて尻尾振った。ハグしてやった。

次妹たちの帰宅をまって自宅へ。思ったよりは散らかっていなかった。散らかるほどのものも無かったせいもあるが。ザッと片付けると、空腹を感じたので、コンビニへ。

見事なまでに、何も、そう、本当に文字通り胃に入れられるものは何もなかった。ここから当面、食糧とガソリンは横浜の地でも、入手に困難を極めた。

職場は明日も開けるという。職場に近く、かつ独り者で男ということで、クライアントさんからも直に出勤依頼される。已む無し。こういう時こそ自分の底値が試される。

テレビに一晩中かじりつく。「何だよ…これ…」。そして僕は思い出す。SNSで繋がっていた、仙台在住のサッカー友だちのことを。

打てば数分で返してくるメッセージが、一時間経っても帰ってこない。冗談じゃねぇぞ。冗談じゃねぇ。ふざけんな。思いきって、実名とガチの携帯番号とメルアドを送った。「大変だろうし、何もできないかも知れないけど、何かあったら連絡くれ」

僕と、東北との、つながりが始まった。

続きは思い立ったらまた起こします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?