見出し画像

副汐健宇の戯曲易珍道中③〜モリエール『人間ぎらい』〜


全然バズる気配を見せない、こちらのnoteに指を運んで頂き、深く感謝申し上げます。

いつか陽の目を見る日まで(?)・・・しつこく、この”戯曲易”シリーズはやって行きたく思います。

戯曲が好きな方に対しても、周易や易経が好きな方に対しても、しっかり恥じる事無くアプローチして行けるようなシリーズを目指して参ります。引き続き、宜しくお願い致します!

今回、身勝手に取り上げさせて頂く戯曲は・・・

『人間ぎらい』 モリエール:著  内藤濯:訳

             (新潮文庫)

フランスの、俳優でもあり、喜劇作家でもあった、モリエールが描く、アルセストという世間知らずの純粋な青年・アルセストが、虚偽や駆け引き、清濁併せのむスタイルの社交界に嫌気が差し、誠実さを守る為に”人間ぎらい”になって行く過程を、丁寧な口論(?)の描写を重ねて行く事で、ダイレクトに見せて行く、名作戯曲です。

前回取り上げたテネシー・ウィリアムズの『ガラスの動物園』もそうでしたが、ほとんどト書きが無く、延々とセリフの応酬だけで展開されるお話は、それだけ演出家が、どうその戯曲の裏側を捉えるかによって、いかようにも匂いが変わるものだと思います。

今回、あらゆるシーンを六十四卦で表す、という事に関しても、やはり、登場人物の視点からで、大きく変わって来るように思いました。

今回は、やはり無難に、主人公のアルセストからの視点を重視して見て行きたいと思います。

無難、という理由もありますが、他には、アルセストが、いわゆる現代で断じる所の、”中二病をこじらせた男”、という側面から見る事で、現在の自身に投影出来る部分が多々あると感じ、アルセストの視点から、という側面により注力出来ると思いました。

無駄なマスターベーションである事は重々承知で、進めさせて頂きたく思います。


■第一幕 第一場


8〜10ページより引用

※愛嬌を言う親友のフィラントに怒り気味のアルセストを説得しようとするフィラント。

フィラント「でも、だれかが愛嬌たっぷりで、お辞儀しに来たら、こっちでも、それ相当のお辞儀はすべきものだよ。向うで、親切をつくしたら、こっちでも、できるだけ親切をつくす、向うで何がな御用をと言い出したら、それはむしろこちらからと言い、向うで固い約束を立てたら、こっちでもうやっぱり立てるのが、人間の踏むべき道だよ。」

アルセスト「いいや、そんなやり口は、君の好きないわゆる社交界の連中がとかく得意がるやつで、僕はそんな卑怯なやり口には、とうてい我慢ができん。あんな連中は、身命を惜しまずおためをはかるとかなんとか、とかく大袈裟な物の言いようをして、人前でいろいろへんてこな身振りをする。いかにも情が厚そうに、やたら接吻をする。物の足しにもならないことを親切そうに言いだして、だれとでもここを先途と、やたら礼儀をぶちまける。(省略)誠実や熱情や敬意や愛情を誓い、賛辞のかぎりを浴びせかけてくれたところで、そこへ通りがかりの下司なやつにも、おいそれとおんなじ仕向けをするんだったら、なんの役得にもなりゃしないじゃないか。(省略)」  

フィラント「しかし、社交界の一員である以上は、慣習上、世間一般の礼儀作法は守らんけりゃならんよ。」

アルセスト「いや、断じてそんなことはない。(省略)」

フィラント「率直一点張りというやつぁ、時によると、笑われ者になることがあるものだよ。(省略)」

                ⇩

以上のやり取りを、口論、と片付けたら罰が当たるでしょうか。と言いたくなる程、人間関係における示唆を多分に含んだ議論が、いきなり冒頭から展開されています。

こちらの議論を、六十四卦で無理やりに当てはめますと・・・

         天沢履(てんたくり)が妥当かと思います。

             ☰

             ☱

序卦伝には、「虎の尾を履む、人を咥(くら)わず。亨る。」

履は、礼の事。剛強な虎(☰)のすぐ下に軟い者(☱)がいて、尾を踏んでいる形になっている。しかし、兌(☱)には、人を悦ばせる徳があるので、虎には噛まれずに済む。和悦を持った礼儀礼節が大切と説く卦です。

何爻か、を絡めて見ますと、初爻が妥当かと思われます。

「初九は、素(つね)に履む。往けば咎なし。」

初爻は、陽爻でありながら最下位にいる。能力がありながら、謙虚に低い地位に甘んじ、相手を立てる事・・・まさに、こちらでのフィラントは、荒ぶる魂を孔子に憑依させて、”天沢履そのもの”をアルセストに説いていると思えてなりません。

■第一幕 第二場

29ページ、30ページ、31ページより引用


オロント「(自作の詩)

   希望(のぞみ)こそげにわれらを慰め、

   一ときはわれらの苦しき胸をなごましむ。

   されどフィリスよ、希望(のぞみ)ありともはかなし、

   希望(のぞみ)につづく喜びの絶えてしなくば。

   濃(こま)やかなりしそのかみの君がなさけを、

   何ゆえの情けぞとうらみ侘びつつ、

   いたずらに咲きにおう花をしのびて、

   たよりなき希望(のぞみ)のみたのむ物うさ。

   時じくにその日を待ちて胸の火の、

   狂うがほどに燃えもたけらば、

   死出の山路に入らんこそ心やすけれ。


   ああ君が心づくしの数々も今はうたてし、

   うつくしきフィリスよ、来ぬ日の幸を、

   とことわに待ちてあるうつし身の幸なさよ。」


フィラント「結びがじつに素敵ですな。ぞっとしますな。敬服の至りですな。」

アルセスト「(小声で)結びが効いてあきれるよ。いい加減にしろ! 結んだ拍子に腰でもぬかしてしまえ!」

                ⇩

アルセストは、社交界に染まったコケティッシュな未亡人のセリメーヌに想いを寄せている訳ですが、同じく彼女に想いを寄せている男・オロントが書き下ろした渾身の詩。それを、天沢履の権化の如く、フィラントは誉めそやしますが、アルセストは、そんな親友に絶望を覚え、オロントの詩を、占い師を小馬鹿にして悦に浸る、某日本の大物芸人が結成した”占い撲滅アベンジャーズ”の如く、ケチョンケチョンにこき下ろします。

オロント渾身の詩が高尚か否かは、読んで頂いた方それぞれの感性に委ねますが、このアルセストの態度は、まさに

          雷山小過の三爻

            (らいざんしょうか)

             ☳

             ☶

が、妥当かと思います。内卦を表す自身は、頑固(艮=☶)に自身の価値観に凝り固まっている。まさにアルセストです。しかも、三爻は、艮の主爻※にもなっています。一方、相手のオロントは、そんな彼をお構いなしに、自身の想いにまっすぐ(震=☳)に突き進んでいる。お互い向き合えない。同じ方向も向けない。背き合っている。

※一番その卦を表す爻。その卦の主体。

・・・結論から申してしまえば、アルセストは、この、”雷山小過の三爻”を雛形として、ずっとこの物語の中を生きる事になります。また、雷山小過そのものを見ますと、”小さく過ぎる”・・・つまり、タイミングを失う、という暗示が色濃く出ています。まさに、”中二病をこじらせた”・・・アルセストの為に用意された卦、と断じても過言では無いのではないでしょうか?

(と、言うには小さく過ぎてるでしょうか💦)


34〜35ページより引用

アルセスト「正直にいって、それは机の中に蔵(しま)いこんでお置きになるべき物です。あなたはくだらない作品を作の雛形になさったんです。第一使っていらっしゃる言葉がいっこう自然でない。「一ときはわれらの苦しき胸をなごましむ」とはなんです。「希望(のぞみ)につづく喜びの絶えてしなくば」とはなんです。(省略)「うつくしきフィリスよ、来ぬ日の幸を、とことわに待ちてあるうつし身の幸さなよ」というのもいっこう面白くない。(省略)」

                ⇩

ここまで来ると、”雷山小過の三爻”を雛形」としたアルセストですが、ここまで来ますと、小さく過ぎる、を過ぎて、大いに過ぎる

          沢風大過(たくふうたいか)

              ☱

              ☴

そのものまで化しているようです。沢風大過は、大坎、大きな坎(☵)の卦。坎は水行を表し、水行は、冷静、しかし、それも過ぎますと、毒舌、となります。また、こちらの卦は、中央に陽爻が集まり過ぎている事から、中央に比重がかかり過ぎて、今にも折れそう、という意味合いも強くあります。アルセストには、軋むその音が聞こえていなかったのでしょうか?いや、その音を掻き消す程、自身の価値観を唱える事に酔いつぶれていたのかも知れません。     

■第一幕 第二場

43ページより引用

アルセスト「(省略)でも奥さんは、訪ねてくる人があると、すぐだれにも狎々(なれなれ)しい素振りをなさるんだが、あなたのそのやり口がよろしくないんです。だからあなたのまわりには、憎からず思われようという連中が、うるさいほど押し寄せてくるんです。僕はそれを、とても平気では見てはいられないんです。」

セリメーヌ「するとあなたは、どなたにも愛想よくするのが不都合だとおっしゃるのね。だって皆さまがわたしを好きで訪ねていらっしゃるんだもの、それをいけないと言うわけには行かないわ。(省略)」

                ⇩

ここでようやく(あくまでもこのnoteでは、ですが💦)ヒロインのセリメーヌが登場します。こうした口論、いや議論を読み込みますと、セリメーヌも、先のフィラントと同じように、得々とアルセストに天沢履を説いているように思えますが、彼女の場合は、

             兌為沢の三爻

                (だいたく)

               ☱

               ☱

が妥当かと思います。兌(☱)は、少女、無邪気な悦び、言葉を紡ぐ、コミュニケーションを表します。彼女は、礼儀礼節の大切さを訴える天沢履よりも、少し悦びに偏った説得、純粋に楽しいから皆と仲良くしよう、という精神が強いように思えます。また、兌為沢の三爻は、兌の主爻であるばかりで無く、離(☲)の主爻ともなっています。しかもこの離は、内卦と外卦の間、つまり、自身と相手の間に横たわっています。離は火行、華やか、明るさ、ハッキリ楽しむ・・・まさに、セリメーヌそのもののようです。 

47ページより引用

アルセスト「ああ! 僕はどうしてもあなたを愛しないじゃいられない。(省略)隠さずに言ってしまうんですが、僕はこの心の恐ろしい愛着のきおずなを断ち切るために、できるだけの努力はしているんです。しかし、いくら努力しても、努力の結果は水の泡。こうしてあなたを愛するのも、僕の前世の罪が仕向けるんです。」

               ⇩

やはり、ここでのアルセストのセリフも、雷山小過の三爻そのものを爆発させています。自身の価値観に凝り固まって、そこにがんじがらめ(☶)になっている。しかし、相手は、自身にはソッポを向いて、どこかへ行ってしまう(☳)・・・中二病をこれ程までにこじらせたセリフを私は知りません。

まるで、90年代野島伸司脚本ドラマの住人のようです。(敬意を込めて申してます)   


■第二幕 第三場

50ページより引用

アルセスト「僕はそんな風にみんなを大切になさるのが気に入らないんです。」

              ⇩

セリメーヌよ、私だけを見つめんかい!という訳です。まさに、相手と同じ方向に寄り添ってない。こちらのセリフでは、

             震為雷の四爻

               (しんいらい)

               ☳

               ☳

アルセストは、自身の価値観に固執しているのは相変わらずですが、本能に忠実に進む(☱)為の決意が芽生え始めているように思えます。しかし、相手は相変わらず自身に振り向いてはくれない(☳)

また、震為雷の四爻の爻辞は、

「象に曰く、震いて遂に泥(なず)む、いまだ光(おお)いならざるなり。」

・・・しかも、四爻は、悩みを表す坎(☵)の主爻にもなっています。

まだまだ壁は険しいのです。

それは、次のやり取りでも顕著です。  

■第二幕 第五場

52〜53ページより引用

アルセスト「(省略)御入来のお客様方の味方をなさるのか、それとも、僕の味方をなさるのか、はっきりあなたのお心持が知りたいんです。」

セリメーヌ「およしなさいよ、そんなこと。」

アルセスト「きょうはお心持を言ってもらいます。」

セリメーヌ「あなたは気が狂っておいでですわ。」


60ページより引用

クリタンドル「奥さんは、人物の描写がじつにうまくていらっしゃいますよ。」

アルセスト「じつに結構な友人諸君だ。ぐいぐいその調子でおやりになるがよろしい。実際すごいお手並ですよ。今に先客様おかわりで、だれにも順繰りに白羽の矢が立つんでしょう。しかし、そうしてあなた方にやっつけられている人が、一人でもここへ顔を見せようものなら、あなた方はあたふたと出迎えて、手を差しのべ、お世辞の接吻をして、御用はなんでも承わるなんかと、さも神妙な振舞をするにきまっているのだ。」

クリタンドル「我々に、そんな刺(とげ)のあることを言われるのは、見当がはずれてはいませんかね。(省略)」

                ⇩

セリメーヌを訪ねて来た侯爵・クリタンドルと、またしても趣味(?)の口論を繰り広げるアルセストですが、ここでも惜しみなく中二病を発揮しまくっていて、私もだんだん彼を直視出来なくなって来ました(悲)

やはり、ここでも雷山小過の三爻を擬人化したような展開が見られます。

63ページより引用

アルセスト「そりゃ、人間というやつが不条理きわまるからだよ。そういう不条理な人間には、いつだって喧嘩腰になるのが適当だからだよ。世間の人間は、何事につけてもばかばかしいほどお世辞をならべているんだ。でなけりゃ、向う見ずにくさしてばかりいるんだ。」

                ⇩

アルセストは、ついに、東洋哲学の叡智である『易経』にケチをつけているようです。まさに、天沢履の説く礼儀礼節に唾を吐きかけているではありませんか。天沢履に喧嘩を売っていると断じても過言ではありません。

こちらのセリフは、天沢履を逆さまにした、綜卦の

         風天小畜の上爻

           (ふうてんしょうちく)

            ☴

            ☰

が妥当かと思います。

小さいもの(☴)が見栄を張って、大きいもの(☰)をとどめている姿を表した卦です。

風天小畜の上爻の爻辞は、

「象に曰く、既に雨ふり既に処(お)る、徳積み載(み)つるなり。君子往けば凶、疑うところあるなり。」

・・・かっこつけているアルセストの密かな足掻きが見えるようです。

64ページより引用

アカスト「奥さんが愛嬌にあるお方だ、美しいお方だということは認めるが、欠点などは、一向どこにも見つかりませんな。」

アルセスト「ところが僕には、その欠点が一々目だってしょうがないんです。(省略)人間というものは、何人(なんびと)かを愛すれば愛するほど、追従などは言わなくなるものです。ほんとうの愛は、人の欠点をいささかも仮借しない場合に表れるものです。(省略)」

                  ⇩

 相変わらず口論に似せた議論が展開されている訳ですが、こちらの議論から導き出された卦は、

           沢天夬の上爻

             (さわてんかい)

             ☱

             ☰

沢天夬は、大兌、大きな兌(☱)に似た卦。上爻は、まさにその大きな兌の主爻となっています。まさに、アルセストは、沢天夬の上爻が一々目立ってしょうがない!と言っているようです。(恐らく勘違いです)

沢天夬は、五つの陽爻に対して、一番上だけが陰爻・・・”易は少数なり”の原理から、この陰爻だけがやけに目立つという事です。また、兌(☱)は、湖、止まった水を表します。まさに、ダム(☱)が決壊しそうな様子を表してもいます。今にも感情が溢れて決壊しそうな自身を密かに抑えているようなセリフにも思えます・・・。       

■第四幕 第一場

101〜102ページより引用

フィラント「僕はあの男の様子を見ていれば見ているほど、なんだってあんな恋をしているんだろうと、特にそれが不思議でならないんです。生まれつきあんな性質を持っていながら、なんだって恋なんかする気になったのでしょうね。(省略)」

              ⇩

アルセストの、唯一の親友と断じても良いフィラントも、アルセストの雷山小過の三爻っぷりを憂いているようです。このセリフから、私は、

            雷沢帰妹の三爻

              (らいたくきまい)

              ☳

              ☱

・・・”違和感”というキーワードの色濃い卦です。若い女性(☱)が年老いた男性(☳)のお尻を追いかけて行くという状態は、古来では違和感の象徴とされて来ました。価値観が多様化した今では一笑に付されるような描写ですが・・・フィラントは、もっと肩の力を抜いて(☱)事に当たれば良いのに、アルセストを、ただただこじらせてそこに真っすぐ向かってしまっている(☳)、という風に見ているようです。

ちなみに、雷沢帰妹の三爻の爻辞は、

「象に曰く、帰妹以て須(ま)つは、いまだ当らざればなり。」

■第四幕 第二場

105ページより引用

アルセスト「ああ! もう辛抱ができない。復讐して下さい。」

エリアント「どうなさいましたの。なんだってそう激昂していらっしゃいますの。」

アルセスト「考えてもまったく死ぬほどの苦しみです。天地が荒れ狂っても、この突発事件ほど僕に痛手を負わせはしません。もうだめだ・・・僕の恋人は・・・話にもなんにもならない。」

                ⇩

雷山小過の三爻を雛形として頑なだったアルセストですが、ここに来て、運動中枢、感情中枢、思考中枢をフル回転する術を覚えたようです。(☰)

          雷天大壮の四爻

             ☳

             ☰

・・・陽爻が上に競り上って行く、男性(陽爻)そのもののパワーがまさに激情を伴って物語を覆い尽くして行くようです。しかし、相手のセリメーヌは相変わらずソッポを向いている(☳)。四爻は、まさに震(☳)の主爻。

相手との想いが全く噛み合わず、もう激情と手を組むしかないという描写が展開されています。

それは、下記のアルセストのセリフにもそこはかと無く漂っています。

セリメーヌが自分以外の男達にも心のこもった手紙を送っていた事を知ったアルセストの、”中二病”そのもののセリフです。


■第四幕 第三場

110〜112ページより引用

セリメーヌ「またきっとあれね、いつもの優しいことを言って下さるおつもりですわね。」

アルセスト「冗談言っちゃいけない。笑っている時じゃないんだ。(省略)

あなたがいくら甘ったるい言葉を並べたって、いくら素知らぬ顔をしていたって、占いにあらわれた僕の星は、「恐るべき事あり」というものだった。あなたにこれほどの侮辱を加えられて、僕はその復讐もせずにじっと我慢しているような人間じゃないんです。人間は恋を抑える力はもっていない。恋心というものは、どんな場合にも、人手を借りずに芽ぐむものです。(省略)僕の恋をただのお世辞でごまかすなんて、ひどいじゃありませんか。まったく不実な仕打ちです。いくら罰しても罰しきれない仕打ちです。この恨みはどんなことをしても晴らさずにはおきません。ええ、そうですとも、僕にこんな侮辱を加えた以上は、もう覚悟なさい。僕はもう、僕のものじゃない。憤怒が僕の全身をつかんでいるんです。(省略)」

                ⇩

・・・やはり、アルセストは、「占い撲滅アベンジャーズ」の一員では無かった。むしろ、占いを信じている。しかし、彼は中二病・・・複雑さを絡めながら物語を読み進める事になりました💦

■第四幕 第三場

116〜117ページより引用

アルセスト「ああ! こんな残酷な仕打ちがまたとあろうか。こんなひどい仕打ちを受けた人間がまたとあろうか。(省略)この女は、おれの苦しみ、おれの疑惑をさんざあおり立てて、おれに嘘までもまことと思い込ませながら、鼻高々になっているのだ。(省略)」

118〜119ページより引用

セリメーヌ「(省略)そんなに邪推をなさるなんて、あんまり人をばかにした話じゃありませんか。女というものは、自分の切ない胸をいざ打ち明けるとなれば、大した骨折りをするものです。(省略)女がよくよくの思いで口に出す誓いを、男のかたが勘ぐるなんて罰があたります。女が血の出る思いをしてやっと口に出すことを、男のかたが信用しないなんて不都合じゃありませんか。冗談じゃありませんよ、そんな疑いをかけられていると思うと、わたしは腹が立ちます。(省略)」

                ⇩

セリメーヌもついに黙ってはいられません。

まさに、倍返しでアルセストをやり込めようとする意志がひしひしと胸を指します。

こちらのセリフは、

           山地剥の五爻

              (さんちはく)

             ☶

             ☷

まさに、陰爻が上へ競り上って行く卦です。女性(陰爻)のエネルギーがピークに達し、アルセストに対している様子が見えます。また、陰爻が集まる事により、上爻の唯一の陽が剥落されて行く様子も表します。

山地剥の五爻の爻辞は、

「象に曰く、宮人を以(ひき)いて寵(ちょう)せらる、終にとがめなきなり。」

五爻は、まさに、陰爻を代表して、上爻の陽に向かって行く。女性を代表して、中二病をこじらせた哀れな青年を彼女なりの激情を伴って諭している姿が窺えます。      


■第五幕 第一場

131ページより引用

フィラント「いや、君の言うことにはみんな賛成だよ。世間の事は何もかも陰謀ばかりだ。欲得ずくめだ。今じゃ狡く立ちまわる者ばかりが、勝ちを占める世の中で、じっさい人間はなんとかならなければいけないのだ。しかし、人間のやり口が公平でないから、君が社会から離れたいというのは、どうも我が意を得ないな。人間にそういう欠点があればこそ、我々はこの世の中に生きていて、我々の哲学を練る道が見出せるのだ。そしてまたそこに、人間道徳のいちばん立派な運用があるのだ。もし何事も正直ずくめで、だれも彼も率直で公明正大で柔順だったら、美徳というものは、大部分無用なものになってしまうよ。(省略)」

                ⇩

ついに、絶望に絶望を極め、題名通りの”人間ぎらい”になってしまった主人公に対し、親友がそれでも肩を引き寄せて(そんなト書きはありませんが、私の身勝手な願望として💦)、優しく人生とは何かを説いている。敢えて、こちらのセリフを六十四卦に当てはめるのは控えたいと思います。しかし、大まかに八卦の観点から捉えますと、全てをフル活動した、乾(☰)になろうとする必要は無い。少し欠けた所(兌=☱)があった方が、その余白に自由に哲学を取り込めるのだ。まさに

NOBODY IS PERFECT

の精神を説いているようです。

乾は男、兌は少女・・・

男性は逆立ちしても女性には敵わないとは良く言ったものですが・・・

『易経』にダメ押しされた気分です。


■第五幕 第四場

152ページより引用

アルセスト「どうぞあなた方は、いつまでもその感情を捨てずに、ほんとうの満足を味わって下さい。到るところで裏切った仕向けをされ、さんざ不正な事をしかけられた僕は、悪事が時を得顔に跋扈(ばっこ)している渦中をはなれ、人里はなれた場所をこの地上に探しもとめて、なんの束縛もなく、名誉をおもんずる人間として生きるんです。」

              ⇩

すっかり人間嫌いになり、中二病を大事に守ったまま生きた男の末路を描いた物語の主人公が、ありったけの力を込めて放った最後のセリフです。旅に出る事をそれと無く示唆しているので、六十四卦に例えますと、火山旅(かざんりょ)が妥当だとは思うのですが、私は、アルセストは、やはり、雷山小過の、自身の雛形を守る宣言をした、と捉えました。

           雷山小過の四爻

              ☳

              ☶

アルセストは、雷山小過の三爻から、最後は四爻に移動した、その過程を丹念に述べた物語だった、と思えてなりません。こんなに主人公が全く成長しなかった物語も珍しいと思います。そんな斬新な物語が、古来の戯曲の中に息づいていたとは・・・。

頑固でただ凝り固まっていた、艮(☶)の主爻である三爻から、自身が背を向けて旅をする四爻、震(☳)の主爻に変わった。。。

この先の道標は、相変わらず彼自身の価値観、哲学でしょうか? それとも・・・

タロットでは、アルセストは、「隠者」という事になるのでしょうか。そいれとも「愚者」でしょうか? それとも「吊るされた男」? それとも・・・

いつか、誰かと語り合ってみたいものです。


・・・長々と私のマスターべーションにお付き合い頂き、深い感謝の気持ちでいっぱいです。

やはり、今回も、場面場面、セリフごと、で、ぶつ切りのようになってしまい、ただただ駆け足になってしまい、ストーリー展開を丹念になぞりながら六十四卦を当てはめるという事がまだまだ出来ていない、巨大な課題だと感じています。もっともっと、自分自身が、肩の力を抜いて、兌(☱)になって楽しむ姿勢が欠けているように思えます。まだまだ精進して参ります。


戯曲、演劇、ドラマ、映画が好きな方、そして、周易や易経が好きで、特に習い始めの方にとって、少しでも足しになれたとしたら幸甚です。

引き続き、宜しくお願い致します! 本当にありがとうございました。


                 令和三年  十一月二十三日

       曲がりなりにも東洋占術家・副汐 健宇                

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?