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副汐健宇の戯曲易珍道中⑦〜イプセン『人形の家』〜

絶賛滞り中の私のノートを開いて頂き、誠にありがとうございます!

私が身勝手に編み出しました、まさに自己満足(自負)!

”戯曲易”シリーズ、今回も身勝手に始めさせて頂きます。

読みたいのはコレジャナイ!という方は、そっとこちらを閉じて頂けたら幸甚です💦。

今回、曲がりなりにも身勝手にご紹介させて頂く戯曲は、


『人形の家』著:イプセン 訳:矢崎源九郎
    (新潮文庫)


、です。

ノルウェーの代表的な劇作家、ヘンリック・イプセンによる、当時、スキャンダラスと謳われた名作です。

多くの古典的な名作戯曲が、観念的な位置に落ち着いて、心理の模索に意識が向いているような印象を受けますが、この『人形の家』は、借金、契約、署名、など、現実的な視座がたくさん盛り込まれ、そこから登場人物が追い込まれて行く様子が、地に足をつけたセリフと共に埋め込まれています。当戯曲を読んで借金の構造や契約の仕方を学んだ、というような若年層もいたのではないかと思われる程、その内容もさることながら、実用的な側面も兼ね備えている力作のように思います。

当初、『人形の家』は、様々な論議を引き起こした”問題作”として迎えられたという事です。

ストーリーは、

※下記、ネタバレ注意

敏腕弁護士ヘルメルの妻、ノラは、ヘルメルに、小鳥(雲雀)のように愛され、経済的に何不自由ない日々を送っていました。しかし、ヘルメルが病気で入院中、密かに彼の旧知の仲で、彼を苦々しく思っている法律代理人のクログスタットから、ノラの父の名前を偽造した署名で借金をする(ヘルメルの命を救う為のお金)。後にその事を知り、怒りに震えてノラを罵るヘルメルだが、クログスタットとかつて恋仲で、ノラの友人でもある、リンネ夫人の計らいで、クログスタットは今回の件を不問にすると手紙で告げる。自身の地位が脅かされる事を回避出来たと喜び、ノラを許すと明言するヘルメルだったが、ヘルメルの罵倒に触れたノラは、静かにある事を決意し始めていた・・・。

当作品は、女性解放運動に一役買って出てくれた!と、当時絶賛されたという逸話がありますが、その枠に収まらず、自由を奪われた、否、自由を奪われたと思い込んで自らの行動を制限していた、老若男女全ての方にとっての聖書のような、否、劇薬のような役割を果たし、まさに”家を捨て、街へ出た”者が多く在ったに違い無いのです。

しかし、今回は、敢えてそういった背景は”山地剥(さんちはく)”ばりに削ぎ落として、あくまでも、周易的、に、各シーンを身勝手に易の六十四卦を当てはめながら、周易的観点も加味して、当戯曲をもっと深み良く分析出来たらと思います。


はじめに、全体的に当戯曲を一言で言い当てているような卦は何か、と見た時に、この『人形の家』は、

雷火豊(らいかほう)から火山旅(かざんりょ)を巡る物語、と強引に位置付けました。

■第一幕

5ページより引用

居心地よく、趣味ゆたかに、しかし贅沢でなくしつらえられた部屋。後景右手には玄関に通じる扉がある。

―省略―

右手の横壁のやや奥に一つの扉がある。同じ壁の前よりに陶製暖炉があり、その前に一対の肘掛椅子と揺り椅子が一つ置いてある。暖炉と横扉の間に小さいテーブル。あちこちの壁に銅版画がかかっている。陶器の置物やそのほかちょっとした美術品の置いてある飾り棚。美しい装幀の書物を入れた小さな書棚。床には絨毯が敷いてあり、暖炉には火が燃えている。冬の昼。
玄関で呼鈴が鳴る。まもなく扉のあく音がする。ノラ、愉しそうに鼻唄をうたいながら部屋の中にはいってくる。帽子をかぶり、マントを着たまま、たくさんの包みを抱えてきて、それを右手のテーブルの上に置く。入って来た玄関への扉はあけ放しになっており、そこから、メッセンジャーがクリスマス・ツリーと籠を持って外にいるのが見える。メッセンジャーはその二つの品を、扉をあけに来た女中に渡す。


⇧ まさに、”旅の始まり”を位置する、第一幕のファーストシーン。陶製暖炉、そこに火が燃えている。美しい装填の書物を入れた小さな書棚や銅版画の描写、

このト書きを六十四卦に当てはめますと、まさに、

        雷火豊の六ニ

             ☳

             ☲

”豊は、亨る。王これに仮(いた)る。憂うるなかれ、日中に宜し。”

豊、という字は本来、”高坏(たかつき)に物を盛った形”を表した象形文字です。そこから、盛大、という意味合いが引き起こされます。つまり、”盛る”というキーワード。そして、三陰三陽卦である事から、老若男女、分け隔て無く、交流が忙しい、という意味合いもあります。先程も申しましたように、当戯曲が、誰一人として締め出さない、性別年代関係無く、全ての制限された鬱屈さを抱えた人々に開かれた物語である事を告げる卦であります。また、もちろん、数々の装飾も、”盛っている”事を表す上で非常に適した卦です。

何故、その中で、六ニ(二爻)を選んだかという事ですが、二爻の爻辞は、

”六ニは、其の蔀(しとみ)を豊(おお)いにす。日中(にっちゅう)に斗を見る。往けば疑疾(ぎしつ)を得ん。孚(まこと)ありて発若(はつじゃく)たれば、吉なり。”

※蔀=日よけのすだれ

 

”日中に斗を見る”とは、日中なのにも関わらず、北斗七星が見えてしまうくらい暗い状態、つまり、

”見えているようで、実は見えていない”

という暗示が引き起こされます。

この、見えているようで見えていない者、は誰か、という事は、読み進めて行く度に予想が立つのですが、それ以上に、一見、明るく楽しい家族計画を描いているような家庭にも、見えない所に綻びを抱えている。見据えなければいけない影がある・・・真昼の月、というようなキーワードが導かれて来る筈です。まさに、人形の家の入口に非常に相応しい卦では無いでしょうか。



12ページより引用

ノラ (右手のテーブルのほうへ行く)あたし、あなたのおいやなことをしようなんて、思ったこともありませんわ

ヘルメル いや、それはよくわかっている。それにお前はわたしに約束したんだから―――。(ノラのそばに歩み寄り)まあ、お前のそのクリスマスのかわいい秘密は、お前の胸にだけそっとしまっておおき。今夜、クリスマス・ツリーに明りがつけば、いずれすっかりわかってしまうんだから。

⇧  上記のやりとりも、

           雷火豊の九四

              ☳

              ☲

”九四は、其の蔀(しとみ)を豊(おお)いにす。日中に斗を見る。其の夷主(いしゅ)に遇えば、吉なり。”

ヘルメルの視点から導き出した卦と爻です。九四(四爻)は、位が当たっていない(陰爻であるべき四爻なのに陽爻=陰爻陽位)。そして、九四は、中を得ていない。なので、”日中に斗を見る”状態を、打開する事が出来ない。陰から陽を導き出す力が及んでいない。しかも、雷火豊の九四は、外卦の震(☳)の主爻に当り、内卦(☲)の方を見ずに、明後日の方向を見て、雷宜しく、本能に身を任せて突き進んでしまう・・・・・・。

内卦はこの際、何を表しているのか、ノラか、はたまたこの物語自体か、それとも・・・・・・それを決めるのは、あなた次第です。(THE 無責任)

しかもヘルメルは、クリスマス・ツリーに明りがつけば、いずれ明らかになる、とまで述べています。明り、もしくは、ノラの胸の内に対する絶大の信頼が、吉と出るか凶と出るか・・・・・・


28ページより引用

リンネ夫人 それでご主人は、そのお金がお父さまから出たものではないってことを、お父さまの口からお聞きにならなかったの?

ノラ ええ、全然。だって、父はちょうどあの頃亡くなったんですもの。実はあたし、このことを父に打明けて、なんにも言わないでいてくれるように頼むつもりでいたのよ。ところがあの通りのひどい病気で寝ていたでしょう?―――悲しいことに、もうその必要もなくなってしまいました。

リンネ夫人 それからもご主人にはお打明けにならなかったの?

ノラ もちろんよ、とんでもないことだわ! あの人、こういうことにはとっても厳しいのよ! それに―――男らしい自尊心の強い人なんですもの、―――すこしでもあたしのお蔭をこうむっていると知ったら、それこそあの人はつらい恥ずかしい思いをするでしょう。そしてあたしたち二人の仲はすっかりこわれてしまって、今のような美しい幸福な家庭はもう二度と見られなくなってしまうのよ。

リンネ夫人 この話はこれからもご主人にはなさらないおつもり?

ノラ (考えこむように、半ば微笑しながら)そうね―――多分いつかはね、―――

―省略―


⇧ 上記は、ノラがリンネ夫人に、夫(ヘルメル)に隠れて、夫の命を救うために借金をしていた事を打ち明けるシーンですが、まさに、あの、ファーストシーンで灯っていた炎が物語の進展と共に徐々に暗闇にまみれて行く事を示唆するやり取りです。こちらの卦は、まさしく

        地火明夷(ちかめいい)の六ニ

             ☷

             ☲

”六ニは、明夷、左の股(もも)を夷(やぶ)る。用(もつ)て拯(すく)う馬壮んなれば、吉なり。” 

まさに、”明が破られる卦”の地火明夷、一寸先の闇を、夫ヘルメルに内緒で見据えていたノラ・・・。

それにしても、私の迫り来る老眼のせいと断じないで頂きたいのですが、個人的には、どうしても、”クログスタット”というネーミングを、”タロット”と見間違えてしまうのです。

彼は、この物語で、まさにタロットカードのような役割を果たしている、と断じたら過言になるでしょうか?

カードの裏表、正位置と逆位置、物語が陰に転ぶか、陽に上向くか、この男の言動一つ一つにかかっている、という程に思います。まさに、運命を司るタロット、もっと言ってしまえば、大アルカナ16番の、”塔”の役割を果たしていると断じても過言では無い筈です。ここで詳細なタロット解釈は控えますが(何よりも私は専門外です)、平穏の破壊、凋落・・・というキーワードを、この男の一挙手一投足が自然と物語る事になる筈です。

また、六ニ(二爻)は、離(☲)の主爻でもある。二つの陽爻に囲まれている・・・まさに、二人の男、ヘルメルとクログスタットの間の板挟みに遇って暗やんでいるノラの状況が闇からそっと見えるようです。


45ページより引用

クログスタット (言葉の調子を変えて)奥さん、あなたのその勢力をわたくしのために用いてくださるわけにはまいりませんでしょうか?

ノラ なんですって? それはどういうことなんですの?

クログスタット あの銀行でわたくしが持っております低い地位をこのまま保っていけるように、お力添え願えませんでしょうか?


⇧ クログスタットは、ノラに、頭取になるヘルメルが自分が銀行員の地位を奪われるのを阻止してもらうように頼み込みますが、この後スンナリ断られます。こちらのクログスタットの心理を六十四卦で無理に当てはめますと、

         地天泰(ちてんたい)の九三

              ☷

              ☰

”象に曰く、征きて復らずということなし、天地際(まじわる)なり。”

クログスタットが内卦(☰)、ノラが外卦(☷)・・・

クログスタットは、熱に浮かされながらノラに頼んでいるように見受けられます。なので、内卦の中でも、”中を過ぎた”爻の三爻、しかも全身全霊(☰)でノラに向かっている。ノラは、☷。まさか彼はノラに提案を拒絶されるとは思ってもいなかった筈です。まさに、自身はまた、安”泰”になれる、と思っていた筈です。しかし、タロットの塔よろしく、それは砂のお城みたいに儚く崩れ、転倒して、天地”否”(てんちひ)になった。

              ☰

              ☷


51〜52ページより引用

クログスタット 妙な事というのは、奥さん、つまりこうです、あなたのお父さまは九月二十九日に亡くなられました。ところがこれをごらんなさい。お父さまはこの証書に十月二日に署名をなさっているんですよ。これは妙じゃありませんか、奥さん?

ノラ (黙っている)

クログスタット この点を説明していただけましょうか?

ノラ (黙っている)

クログスタット それに特に目につくことがもう一つあるんですな。つまり、この十月二日という文字と年号とがお父さまの手ではなくて、どうもわたしに見覚えのある筆跡で書かれているということですね。

―省略―

問題になるのは署名です。これは本物なんでしょうな、奥さん? ここに名前をお書きになったのは、ほんとうにお父さまなんでしょうな?

ノラ (しばらく黙っていたが、やがて頭をそらし、反抗するように相手を見て)いいえ、そうではありません。父の名前を書いたのはあたしです。


⇧ 上記のクログスタットは、まるで、あらぶる魂が、シャーロックホームズに乗り移っている(by:『世紀末の詩』第五話(1998年日本テレビ

脚本:野島伸司)かのように、名探偵よろしく、ノラを毒牙で追い詰めているようです。この時のクログスタットの視座から卦を当てはめますと・・・・・・

 まさに、”天水違行(てんすいいこう)”、意見が食い違い、深刻な対立にまで発展する卦・・・


        天水訟(てんすいしょう)の九二

              ☰

              ☵

”九二は、訟に克(か)たず、帰りて逋(のが)る。その邑人(ゆうじん)三百戸にして、眚(わざわい)なし。”

九二は、内卦の坎(☵)の主爻、坎は、水行、黒、の他に、毒、も表します。外卦のノラが自身に対して全霊を持って背を向けている(☰)という事で、確実に臨戦態勢に入り、実際に、法律云々、という話に及びました・・・・・・。

54ページより引用

 クログスタット、挨拶して、玄関を通って出て行く。

ノラ (しばらく考えこんでいたが、やがて頭をそらして)まあ、なんてことでしょう! ――あたしをおどかそうっていうんだわ! あたしそんなに間抜けじゃないわ。(子供たちの外套をたたみはじめる。が、すぐに👍を休める)でも――? ――いいえ、そんなはずはないわ! ――愛情からしたことなんだもの。

⇧ 上記のノラの心理を六十四卦を通して検討しますと、やはり、闇の中で悶々としている、地火明夷か、もしくは、靄がかかっていて上手く前に進めない、”無知蒙昧”の卦である、山水蒙(さんすいもう)でも良いとは思うのですが、この時のノラは、愛情からした事だから、と、事の重大さにそれ程まだ浸りきっていなかったように思います。なので、敢えて、地火明夷の綜卦であります、

        火地晋(かちしん)の九四

             ☲

             ☷

”九四は、晋如(しんじょ)たる鼫鼠(せきそ)。貞(ただ)しけれどあやうし。”

※鼫鼠=大きい野ネズミ


九四(四爻)は、天、人、地の人の部分、現実的な悩み(九四は坎☵の主爻)に戸惑っている様子が窺えます。また、九四は、陽爻陰位、実力も無いのに高い地位についている、それ故に、野ネズミのように密かにビクビクしている、という状況を表します。つまり、分不相応な事をして立ち止まっている(☷)が、まだ精神的に明るさ(☲)を残している、というノラ全体の心理を表しているようです。しかも、火地晋の九四を、陰(元々四爻は陰が正しい)に直しますと、

         山地剥(さんちはく)

            ☶

            ☷

・・・・剥奪、剥落、の行く末が浮かぶようです。


■第二幕

62ページより引用

同じ部屋。向うの隅のピアノのそばに、むしり取られ、引きちぎられたクリスマス・ツリーが立っている。燃えさしの蝋燭はまだついている。ノラの帽子とマントがソファーの上に置いてある。
部屋の中にノラひとり、落ち着かない様子で歩き回っている。ついにソファーのそばに立ちどまり、マントを手に取る。

⇧ 上記の細やかな描写を、六十四卦で表しますと、

         火風鼎(かふうてい)の初六

              ☲

              ☴

”初六は、鼎趾(かなえあし)を顛(さか)しまにするは、いまだそむかざるなり。否を出だすに利あり。妾(しょう)を得てその子に以(およ)ぶ。咎なし。”


鼎とは、古代中国の神器と謳われた、食物を煮込む三脚の鍋です。外卦が離(☲)、内卦が巽(☴)で織り成すこの卦は、鼎のように見える。初爻は、その中でも、陰爻陽位。力が及ばない状態で、火を支えている。燃えさしの美しい蝋燭の炎に導かれながら、新しい視座を要請されるノラの今後を、情景だけでいかにも暗示しているようです。


76ページより引用

ノラ (喘ぐように)あなた、――あれはなんのお手紙?

ヘルメル クログスタットの免職通知書さ

ノラ あなた、呼び戻してください! まだ間に合います。ああ、あなた、呼び戻してください! あたしのためにそうしてください、―――あなた自身のために、子供たちのために! ねえあなた、そうしてください! あの手紙のために、あたしたちみんなの上にどんな災難がふりかかってくるか、あなたはご存じないんです。

ヘルメル もう遅い。

ノラ ええ、もう遅いわ。

ヘルメル おいノラ、お前がそんな心配をするのは結局わたしを侮辱することになるんだぞ。だがまあ、それは勘弁しておこう。そうだとも、まったく侮辱だ! あんな堕落した代言人の復讐をわたしが恐れると思うなんて、まさしく侮辱じゃないか? だが勘弁しておこう、それもお前がわたしを深く愛してくれている美しい証拠だからな。(ノラを両手に抱く)あれはああしなくちゃならないんだ、なあノラ。

―省略―

⇧ 上記の卦を、登場人物どちら、でも無く、二人の関係性、シーンそのまま(ややヘルメルの視点を重視)を六十四卦で切り取りますと、

          水山蹇(すいざんけん)の上六

                ☵

                ☶

”象に曰く、往くときは蹇(なや)にあり来るときはおおいなり、志し内に在るなり。大人を見るに利あり、貴(き)に従うを以てなり。”

水山蹇は、六十四卦の中でも、特に非常な困難を示す”四難卦”の一つとされ、内卦が、艮(☶)”止まる”、外卦が、坎(☵)”悩む”、猛吹雪に見舞われ、足を取られ進みにくい、という暗示があります。確かに、そのままこの状況を言い当ててはいますが、一方で、この卦は、坤(☷)の中に、離(☲)を内包している卦でもあります。離は、文書、も表します。まさに、平穏な日々(☷)の中に、免職通知書という紙切れ(☲)が舞い込む。問題の渦中にまだ投げ込まれていないヘルメルは、”埒外の爻”である、当事者を超えた位置を示す、上爻にいる。ノラの苦悩(上爻に対応する三爻は坎☵の主爻になっている)など知る由も無く・・・・・・。

94ページより引用

クログスタット (省略)わたしがご主人と一緒に同じ銀行に勤めるようになれば、まあ見てらっしゃい! 一年とはたたないうちに、頭取の右の腕になってみせますよ。そして貯蓄銀行を切り回しているのは、トルワル・ヘルメルではなくて、ニルス・クログスタットということになるでしょうよ。

ノラ そんなことはさせませんよ!

クログスタット するとあなたは――?

ノラ いま、あたしには勇気が出てきました。

クログスタット フン、おどかしたってだめですよ。あなたのような、甘やかされてきたお嬢さん育ちの女が―――

ノラ 見てらっしゃい、見てらっしゃい!

クログスタット 氷の下でもはいるんですか? あの冷たい真っ黒な水底にもぐるんですか? 春になって浮かび上がってくる時には、二た目と見られない、誰ともわからぬ姿となって、髪の毛も抜け落ちて―――

ノラ おどかしてもだめです。

⇧ まさに、熱にうかされているように、ノラが宣言しますが、クログスタットの意志も含めてこのシーンを六十四卦に無理に当てはめますと、

          離為火(りいか)の九四

              ☲

              ☲

”九四は、突如それ来如。焚如(はんじょ)、死如(しじょ)、棄如(きじょ)。”

九四は、五爻の離(☲)の主爻と接している。陽爻陰位。ありのままの自身より高みを目指して熱を孕みながらウカウカしているノラ。しかし、クログスタットには、そんな彼女が氷の下に入ろうとしているように思えてならない。離為火の内卦と外卦を掛け合わせた互卦は、

            沢風大過(たくふうたいか)

                ☱

                ☴

”大過は、棟(むなぎ)撓(たわ)めり。往くところあるに利あり。亨る。”

中央部に陽爻が集中していて、そのプレッシャーに今にも折れそうな光景。そして、何よりもこちらの卦は、大きな坎(☵)も表しています。クログスタットから見ましたら、熱そのものなノラの言動は、逆に氷の下に潜り込むような、たわけた行為にしか思えなかった筈です。


■第三幕

同じ部屋。ソファー用のテーブルとこれを取り巻く数脚の椅子が、部屋の真ん中に持ってきてある。テーブルの上のランプには火がともっている。玄関へ通じる扉はあけ放されている。二階から舞踏の音楽が聞えてくる。
―省略―

⇧  第三幕のファーストシーン。第一幕と第二幕のそれのように、火が灯っています。このシーンを六十四卦に当てはめますと、今まで通り、雷火豊としても構わないのですが、敢えて、終幕へ向かう第三幕なので、違う卦で検討してみますと・・・・・

          火沢暌(かたくけい)の九四

                ☲

                ☱

”九四は、睽(そむ)いて孤(ひとり)なり。元夫(げんふ)に遇う。交々(こもごも)孚(まこと)あり。あやうけれど咎なし。”

火(☲)と舞踏(楽しむ=☱)の微かな融合。”二階からなので、外卦を☱に、内卦を☲、の、沢火革(☱☲)の方がふさわしいとも考えましたが、このシーンでは、ノラを含めた登場人物の”革命”を暗示するにはまだ及ばないのと、やはり、未だにこの場面では炎の中の苦悩が内包されているように思えるのです。

火沢暌は、乾中包坎卦・・・乾(☰)の中に坎(☵)を包む卦。せわしなく進む日常(☰)の中に、密かな苦悩(☵)を抱えている。また、四爻は、天、人、地の人の位でもあり、”人間存在”に関する苦悩・・・。

しかも、火沢暌は、上昇する外卦と下降する内卦が向き合えない、という、”背き離れる”卦・・・。第三幕の序盤の炎は、微かに聞こえる舞踏が奏でるヌラヌラした苦悩に濡れる炎なのでしょうか・・・。

109ページより引用

リンネ夫人 (省略)クログスタットさん。今日初めて、あたしが銀行にはいるのはあなたの代りだということを聞きましたのよ。

クログスタット そうおっしゃるところをみれば、ほんとうにそうでしょう。しかしそうわかったからには、身を退いてくださろうとでもいうんですか?

リンネ夫人 いいえ。今さらそんな事をしたところで、あなたのお役には立たないでしょうから。

クログスタット フン、役に立つ、役に立つか―――。わたしだったらそれでもそうするところですね。

リンネ夫人 あたしは物事を理性をもって行うべきだということを学びましたわ。人生と、つらい苦しい貧乏とが、あたしにそれを教えてくれたんですの。

クログスタット ところであたしのほうは、人の言葉をむやみに信用するなということを、この人生に教えてもらいましたよ。

―省略―

リンネ夫人 ねえ、クログスタットさん、それであたしたち難波した者同士がお互いに手を取合ったらどんなものでしょう。

クログスタット なんですって?

リンネ夫人 一人々々が別々に自分の板子にすがりついているよりも、二人が一枚の板子につかまっているほうがよくはないでしょうか。

112ページより引用

リンネ夫人 あたしは誰かの母親になってやりたいのです。そしてあなたのお子さんたちはお母さんをほしがっているのでしょう。あたしたち二人はお互いに必要なんです。クログスタットさん、あたしはあなたの本心がご立派なことを信じています。―――あなたとご一緒なら、あたしなんでもいたしますわ。

クログスタット (リンネ夫人の手を取って)ありがとう、ありがとう、クリスチーネさん(※リンネ夫人)。――こうなればもう一度立ち直って、世間の人たちに見直してもらうことできましょう。(省略)

⇧  かつて、クログスタットとリンネ夫人は、かつて深い仲であり、リンネ夫人が銀行の事務員に決まった事で、代わりにクログスタットが銀行から追われてしまった事を、リンネ夫人が知ります。

突然、淡い陽転の展開が訪れましたが、この会話は、

”若い男女が感応し合う”・・・沢山咸(たくざんかん=☱☶)

といった、恋愛成就そのものを暗示する卦よりも、

山沢損(さんたくそん)から風雷益(ふうらいえき)へ向かう過程そのもののように思えます。

              山沢損

               ☶

               ☱

”損は、孚(まこと)あれば、元吉にして、咎なし。”

安泰を表す地天泰(☷☰)を雛形とした時に、山沢損は、

内卦の陽爻を一つ減らして外卦に一つ益す。

という光景から、”自己犠牲”という四字熟語が瞬時に導き出される卦です。

自己犠牲の観念に呑まれた、或いは呑まざるを得なかった、そんなクログスタットの諦念にも似た虚無感(山沢損は、大きな離(☲)の卦。内面が空虚)が窺えます。

しかし、その山沢損を、リンネ夫人も受け取り、彼に

         風雷益

          ☴

          ☳

を返します。

”益は、往くところにあるに利あり。大川(たいせん)を渉るに利あり。”

閉塞を暗示する天地否(☰☷)の、内卦の陽爻を一つ減らして、外卦に一つ益す、という意味合いのある卦です。また、外卦の巽(☴)は、風の象徴の他に、動く木、つまり、”舟の意味合いも含まれています。その意味で、

”大川を渉るに利あり”となっています。

まさに、難波した者がお互いに手を取り合い、新しい舟に乗ろうとしているのです。

リンネは、クログスタットのお子様達の寂しさに共鳴し、自身の陽爻を分け与えてあげようとします。その意味で、リンネも山沢損を内包しながら、クログスタットとお互いのメリットを見出し、したたかに風雷益を二人の間に見事に突き立てました。その代わり、クログスタットに、ノラとヘルメルに対する攻撃をも止めて欲しい。と・・・・・。クログスタットも、風雷益の隙間から素直にそれを受け入れます。

”損が極まれば益す時が来るのは自然の理である。”

         (本田濟 『易』 朝日選書 353ページより引用)

・・・まさに陰極まって陽になり、その逆も然り。大自然、また、その中の、人間を含むあらゆる生物も、その法則を繰り返す・・・。栄枯から盛衰へ。盛衰から栄枯へ・・・・・・。

まさに、リンネ夫人は、”輪廻(りんね)”そのものを表現している、と断じたら過言でしょうか・・・。


116〜118ページより引用

ノラ せめてあと三十分ぐらいでもいさせてくれれなよかったのに。あなた今に後悔なさるわよ。

ヘルメル お聞きになりましたか、奥さん(※リンネ夫人)。ところでタランテッラを踊りましたが、―――あれは大喝采でしたよ。―――たしかにそれだけの値打ちはありましたね。―――ただし演(や)り方が少々自然主義すぎたようでした。つまりですね、―――厳密に言えば、芸術の要求する以上に自然主義だったんですね。まあ、そんなことはともかく、要するに――大成功でした。物凄いほどの大喝采でした。そういう後で、そのままノラを上に残しておけますか?(省略)
だからこそ、わたしはこのかわいらしいカプリ娘を―――じっさい、気ままなカプリの小娘とでも言いたくなるでしょう―――この小娘を引っぱってきたんです。大急ぎで広間を一回りして、四方八方にお辞儀をさせて、それから、―――小説の言葉どおりに―――美しい幻は消え失せたのです。
―省略―
ほう、この部屋はあったかいな。(ドミノを椅子の上にほうり投げて、自分の部屋の扉をあける)なんだ? こっちは真っ暗じゃないか。あ、そうか、そのはずだ。ちょっと失礼―――(中にはいって、二本の蝋燭に火をともす)


―省略―

⇧  ヘルメルが、リンネ夫人に、愛する妻のノラのタランテッラを興奮気味に評論している様子です。上記を、無理に六十四卦に当てはめますと、

         水火既済(すいかきさい)の上六

               ☵

               ☲

”上六は、其の首(こうべ)を濡らす。あやうし。”

水火既済は、陰陽が澱み無く配合され、並んでいるべき場所に理路整然と並んでいる様子から、”完成形”という意味合いを表す卦です。

しかし、やはり今回も、”内包”をキーワードとした観点で探りますと、

水火既済は、兌(☱)の中に坎(☵)を包む卦、とも読めます。

もしも、ノラからの視点だったらなら、上六では無く、その坎の主爻である、九三(三爻)が相応しいでしょう。

しかし、今回はヘルメルからの視点、ヘルメルは、楽しさ(☱)ばかりにうなされて、目の前の出来事を冷静に見据える力を、この時ばかりは失っていたに違いありません。(上爻=埒外の爻)

いずれ、苦悩に”濡らされて”しまう事も知らずに・・・・・・。


―省略―

ノラ ありがとう、クリスチーネさん。あたし、どうしたらいいか、いまわかったわ。しっ―――!

ヘルメル (戻ってきて)いかがです、奥さん、驚きましたか?

リンネ夫人 ええ、すっかり。もうこれでお暇いたしますわ。

ヘルメル おや、もうお帰り? この編み物の道具はあなたのじゃありませんか?

リンネ夫人 はい。ありがとうございました。もう少しで忘れるところでしたわ。

ヘルメル すると編物をなさるんですか?

リンネ夫人 はい、いたします。

ヘルメル 刺繍をなさるほうがよろしいでしょうになあ。

リンネ夫人 そうですか? どうしてですの?

ヘルメル だって刺繍の方が遥かに優美じゃありませんか。そら、ごらんなさい。左の手にこう刺繍を持って、それから右の手で針を運んで行く―――こんなふうにね―――軽く長い曲線を描きながら。そうじゃありませんか?

―省略―

リンネ夫人 おやすみなさい、頭取さん。

ヘルメル (扉口まで送って行って)おやすみ、さようなら。気をつけてお帰りなさいよ。お送りするといいんだが―――。まあ、あまり遠い所じゃありませんからな。ではおやすみ。さようなら。(リンネ夫人出て行く。ヘルメル、あとの扉をしめて戻ってくる)さあ、やっと帰ったぞ。おそろしく退屈な女だなあ。

⇧  最後の最後で、おそましいくらいのヘルメルの心理が窺えますが、上記を無理に六十四卦に当てはめますと、

            火水未済(かすいびさい)の上九

                 ☲

                 ☵

”象に曰く、酒を飲んで首(こうべ)を濡らすは、亦(ま)た節を知らざるなり。”

火水未済は、水火既済のように、陰陽が理路整然と並んでいる、ように、見えますが、実際は、陰爻陽位や陽爻陰位ばかり。。全ての位が”当たっていない”事から”未完成”というキーワードが導き出されます。一方で、この卦が六十四卦の最後の卦でもあり、未完成でまた始めの乾為天(☰☰)から、という展開に、周易という経典の、演劇性、劇画性を想わされ、個人的な親しみがますます”益して”来る。「易は自分の為にある経典だ!」と、易をここからも身近に感じる事が出来る筈です。

閑話休題

何故に、上九かと問われましたら、やはり、ヘルメルが自身の熱に身勝手にうなされて現実をありのまま受け止める態勢が整っていない、まさに陰爻陽位で、物語の本質から”埒外”に位置しているのと、彼が刺繍について論じるシーン。

左手に刺繍を持って右の手で針を運んで行く・・・

その所作に、陰陽をせっせと理路整然に紡いで行く光景が連想されました。

持って縫って持って縫って・・・

しかし、それは決して”完成形”を辿らず、”未完成”(☲☵)のまま終わる・・・・・・・。

そして、ヘルメルがリンネ夫人に見せた愛想と彼女が帰った直後に吐き捨てるセリフの表裏・・・まさに、相反する火(☲)と水(☵)。彼の”未完成”が誰の目にもありありと表出されています。

”輪廻”を嘲った罰がやがて自身に訪れるとも知らずに・・・・・・。

120ページより引用

※ノラとヘルメルの夫婦の他に、二人の友人である、医学士のランクもいて、舞踏会に参加していました。

ノラ そんなふうにごらんになっちゃいやよ、あなた!

ヘルメル わたしの一番大事な宝物を見てはいけないのかい? わたしの、わたし一人の、わたしだけの、美しいものを見てはいけないのかい?

ノラ (テーブルの向う側に行って)今夜はあたしにそんな事をおっしゃらないで。

ヘルメル (ノラの後について行って)お前の血管の中ではまだタランテッラが踊っているんだな。(省略)

125ページより引用

ヘルメル さあどうぞ。(葉巻入れを差し出す)

ランク (一本取って、先を切る)ありがとう。

ノラ (蝋マッチをする)火をおつけしましょう。

ランク すみませんね。(ノラ、マッチを差しだす。ランク、葉巻に火をつける)さてそこでお暇するとしよう!

ヘルメル じゃ、さようなら!

ノラ 先生、ゆっくりおやすみなさいまし。

129〜130ページより引用

⇧  上記。また蝋マッチでの火のシーンがあります。やはり、この物語は火を巡る物語である事がさり気なく示唆されています。

上記のシーンは、

          雷水解(らいすいかい)の六三

               ☳

               ☵

と、分析しました。

”象に曰く、負い且つ乗る、亦(ま)た醜(は)ずべきなり。我より戎(じゅう)を致す、又た誰をか咎めん。”

雷水解は、雷鳴が氷岩を突き破る、もしくは、雪解け、そして、解散、という意味合いのある卦です。

ノラは、確かにランクの葉巻に火を灯しました。三爻(六三)は、内卦と外卦を繋ぐ離(☲)の主爻ともなっています。一方で、坎(☵)の主爻ともなっている四爻に寄り添っている。・・・まさに、いずれ来る”解散”の時を炙り出すような、束の間の火を友人の葉巻を通して灯したノラ。ランクにも、この火を通してお別れを告げているように思えて仕方が無いのです。

⇩ そして、その火は消えて、見事に現実が立ち上りました。

ノラ、玄関を抜けて駆け出ようとする。その瞬間に、ヘルメルが自分の部屋の扉をつきあけて、手に開いたままの手紙を持って現われる。

ヘルメル ノラ!

ノラ (声高く叫ぶ)ああーーー!

ヘルメル これはなんだ? この手紙に何があるか知ってるか?

―省略―

ヘルメル 道化芝居はよせ。(玄関の扉に鍵をかける)ここに来て、すっかり訳を話せ。何をしでかしたかわかっているのか? さあ、返事をしろ! わかっているのか?

ノラ (じいっとヘルメルの顔を見つめて、硬(こわ)ばった表情で言う)はい、いま初めてほんとうのことがわかりかけてきました。

―省略―

ヘルメル (ノラの前に立ちどまって)こういう事があるだろうということは、早くから感じるべきだった。前もって見抜いておくべきだった。お前の親父の軽はずみな性質を (省略)
お前の親父の軽はずみな性質を、お前は残らず受継いでいるんだ。宗教もなければ、道徳もない、義務の観念もない (省略)

132ページより引用

ノラ、身動きせずに立っている。ヘルメル、玄関の扉口に行って、扉をあける。

女中 (着物を脱ぎかけた姿で、玄関から)奥さまにお手紙がまいりました。

ヘルメル こっちへ寄越せ。(手紙をつかんで、扉をしめる)うん、あいつ(※クログスタット)からだ。お前にはやれん。おれが自分で読む。

ノラ どうぞ。

ヘルメル (ランプのそばで)やれやれ、あけてみる勇気もない。お前もおれも、いよいよこれでおしまいだろう。だが、読んでみりゃならん。(手紙を引破いて、急いで二、三行読む。封入されている一枚の紙を見る。と、喜びの叫びを上げる)おい、ノラ!

ノラ (訝るようにヘルメルを見る)

ヘルメル ノラ! いや、待てよ、もう一度読み返してみなくては。―――うん、うん、やっぱりそうだ。おれは助かったぞ! ノラ、おれは助かったんだ!

134〜135ページより引用

ヘルメル お前は妻としてこの上もなくわたしを愛してくれた。ただ判断ンすべき力が無かったために、手段を誤っただけなのだ。だが、お前が自分一人の力で物事を処理できないからといって、お前に対するわたしの愛情がさめるというようなことはない。いやいや、お前はただわたしを頼りにしてさえいればいいのだ。(省略)
最初びっくりしたあまりに、ついひどい言葉を口にしたが、そんなことはそうか気にしないでおくれ。なにしろあの瞬間には、一切の物が頭の上に崩れ落ちてくるような気がしたものだからな。わたしはお前を許したんだよ、ノラ。誓って言うが、お前を許したんだよ。

ノラ 許してくだすってありがとうございます。(右手の扉口から出て行く)

ヘルメル まあ、お待ち―――。(のぞきこんで)お前その寝室の隅で何をするんだい?

ノラ (中から)仮装の衣裳を脱ぐんです。

136ページより引用

ノラ (省略)あなたにはあたしというものがおわかりにならない。そしてあたしにも、あなたという方がわかってはいませんでした―――つい今夜という今夜まで、いけません、いけません、話の腰を折らないで、あたしの言うことをお聞きになってください。―――これがあなたとあたしとの総決算になるんですよ、あなた。

138〜139ページより引用

ノラ (首を振って)あなた方は決してあたしを愛していたのではありません。ただあたしをかわいがるということを、いいお慰みにしていらしたんです。

ヘルメル おい、ノラ、なんて言い方をするんだ?

ノラ いいえ、そうなんです。実家(さと)で父のもとにおりました頃、父はなんでも自分の考えを話してくれました。それであたしも、自然同じ考えを持つようになりました。時に違った考えを持つような事がありましても、そっと隠しておりました。言ってみたところで、父の気には入りませんからね。父はあたしのことを人形ッ子と呼んで、あたしと一緒に遊んでくれました。ちょうどあたしがお人形を相手にして遊ぶように。それからあたしはあなたの家にまいりました―――

―省略―

ヘルメル おい、ノラ、お前はなんて馬鹿な恩知らずのやつなんだ! いったいお前は、この家へ来て幸福じゃなかったのか?

ノラ はい、ちっとも幸福ではありませんでした。幸福だと思っておりましたが、実はすこしもそうではなかったのです。

142ページ

ヘルメル お前は先ず第一に妻であり、母親でもあるんだ。

ノラ もうそんな事も信じません。あたしは何よりも先に、あなたと同じように人間であると信じています、―――いいえ、むしろ人間になろうとしているところだといったほうがいいかもしれません。(省略)

148ページより引用

ヘルメル だがお前はわたしの妻だ、今もこれから後も。

ノラ いいえ、あなた、―――あたしが今するように、妻が夫の家を捨てて出てしまえば、法律上、夫は妻に対する一切の義務を解除されると聞いています。ともかくあたしは、あなたから一切の義務を解除してさしあげます。あなたもこれであたしと同じように、なんにも束縛はないものと思ってください。どちらも完全に自由にならなくてはいけません。さあ、あなたの指輪をお返しいたします。あたしのをくださいまし。

ヘルメル それまでもか?

ノラ はい、それも。

ヘルメル そら、これだ。

ノラ さあ、これで何もかも終りました。鍵はここへ置いてまいります。

―省略―

(完)

・・・長い引用となってしまいましたが、これら一連の展開を、ノラの視点を重視して勝手に六十四卦を当てはめますと、全般的に

         火山旅(かざんりょ)の六五

              ☲

              ☶

”六五は、雉(きじ)を射て一矢亡(うしな)う。終に以て誉命(よめい)あり。”


ヘルメルが、自身を本当の意味で愛してはいない、そう思った過程は六十四卦に当てはめる事はせず、ノラの一連のセリフをそのまま尊重しますが、その中で、一瞬、闇に呑まれたノラは、誰かに炎を灯してもらおうとするのではなく、自分自身が炎になるしかないと察知したのではないでしょうか。

なので、離(☲)の主爻である六五。

ヘルメルは、クログスタットの文書を読み脊髄反射的にノラを拒絶しますが、それがリンネ夫人の計らいにより、不問に付され、自身の立ち位置が脅かされる事は無いと察した途端、再びノラを受け入れる・・・。

本当にヘルメルが愛しているのは、ノラそのものでは決して無く、安定性強き自身の立ち位置である、そしてその事実は、彼は変える意志は無く、また揺らぐ事も無い。

そして、ノラは、そんな頑固な夫(☶=山。動かざるは山の如し)を捨て、”人形”を辞め、外の世界に、外卦(☲)に踏み出す事にした。三人のお子様達も、乳母に任せて、一人、旅に出る決意を・・・・・・。

本来、火山旅の旅は、楽しいウキウキするような旅とは一線を置き、山火事(☲)を恐れて仕方なく住み慣れた家を出て、移動、放浪して行く、という意味合いのある卦です。

このノラは、ヘルメルの視点から見ましたら特に、ノラ自身が山火事の役割を果たしているような勢いです。では、何故に上九では無く六五なのか、と問われましたら、ノラは、ヘルメルと議論するだけの冷静さ、中庸な感覚はまだ兼ね備えている。そして、この時でも、ヘルメルと自身の哲学、いや、世間体と自分自身の間に板挟みになっている、まさに、二つの陽爻に囲まれた、離(☲)の主爻そのものではないでしょうか。

第一幕のファーストシーン、過剰な程に彩られていた雷火豊の炎が、終盤に向けてひっくり返り、火山旅に変わった。

”日中に斗を見る状態”から、見えていないようで、見えている状態にリンネした・・・。

まさに、その過程を、一つの何気ない家庭が示してくれたように思えてなりません。『人形の家』は、まさしく、火を巡る物語だったのです。

敢えて、この物語に付与されている婦人解放運動に関する事や内容に対する賛否の歴史を削ぎ落とし、丹念に周易、六十四卦、爻の視点のみでこの人形の家の設計図を分析しました。

何のこっちゃ!という方が殆どかと思いますが💦・・・・・・

この駄文(引用部分を除く!!!)を読み、少しでも、『人形の家』に、戯曲に、そして、周易や東洋占術に対するご興味の”火”を灯して下さる方、その為の思考の旅に出て下さる方が一人でも現れてくれましたら、これ程の幸甚はありません。

個人的には、今回、分析する上で、”内包”というキーワードも私の中で大きく、卦の中に他の卦を包む卦、という六十四卦の解読に、何故か色濃い充実を覚えました。今後の物語の分析にも大いにプラスになり得るでしょう。日々、日常面も含めて精進して、周易に寄り添って参ります!

一方で、どうしてもいつも長々となってしまう悪癖がありますが💦

次こそ、簡潔に、グイッと迫れるような分析を心がけて参ります。

引き続き、宜しくお願い致します!!!

               令和四年  六月三日

     曲がりなりにも東洋占術家  副汐健宇   

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