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副汐健宇の戯曲易珍道中④〜野島伸司『ラブシャッフル』〜

新年明けましておめでとうございます!

と、時は令和四年一月十九日。今更感満載ですが、

旧暦では、令和四年二月四日午前五時五十分までは、未だ令和三年の扱いなので、正式には未だ新年は迎えておらず、半分はセーフという事で。(苦しい弁明・・・)

とにもかくにも、いつもこちらに指を運んで頂き、誠にありがとうございます!


何の前触れも無く身勝手に始めてしまった、あまたある戯曲の紡ぐ場面から、またしても身勝手に、それに一番適しているであろう周易の六十四卦を当てはめて、戯曲を、周易を改めて考察する。二度手間のシリーズ

”戯曲易”珍道中・・・

年をまたいでも、執拗に取り組ませて頂きます!

(太陽星座、蠍座寄りの天秤座なので、やる時はやります(?))

今回取り上げさせて頂く戯曲は・・・


野島伸司『ラブシャッフル』1・2

       (小学館文庫)

かつてTBSの金曜22時枠で、2009年1月16日から2009年3月20日まで放送されていたテレビドラマの戯曲です。

主人公の宇佐美啓を演じたのは、玉木宏、その他にも、香里奈、貫地谷しほり、松田翔太、谷原章介、吉高由里子、そして、(メンタリストでは無い)DAIGO(ダイ語学者)、と、令和四年の現在でも第一線を張ってご活躍されている俳優達が紡ぐ、オリジナルラブコメディーです。

脚本の野島氏と、プロデューサーの伊藤一尋氏は、当時、「現代版男女七人夏物語」(主演:杉本高文、別名、明石家さんま)のようなテイストをイメージしたドラマ作りを目指していたようで、その名の通り、一組の恋の行方を執拗に、丹念に描いたドラマとはなっておらず、数人の男女がそれぞれの価値観に見合う愛に奮闘する、群像劇のような仕上がりになっています。

大まかなドラマの内容は、実際にハマってご覧になっていた方もいらっしゃるかも知れませんが・・・

とある事情から出会った啓を含む男女四人が、啓が婚約者の香川芽衣(演:貫地谷しほり)に婚約解消を切り出された話をキッカケに、互いのパートナーを交換する”ラブシャッフル”を行う事になり、啓は当初、乗り気では無かったが、芽衣が意気揚々と参加を表明し、それに参加するしか芽衣の愛情を取り戻すしか無い事を察知し、渋々参加して・・・

と、実に大まかな筋書きとしては、こうです。

細かに戯曲を見て行く前に、はじめに、このお話自体を、周易の六十四卦に無謀にも当てはめさせて頂きました。

『ラブシャッフル』というドラマは、六十四卦に例えますと・・・


風水渙の六四

   (ふうすいかん)

           ☴

           ☵

「象に曰く、其の羣(むれ)を渙(かん)す元吉(げんきつ)なるは、光大なればなり。」


風(☴)が水(☵)の上を吹き渡り、表面の水が小波となって一斉に散る様子を表した卦です。渙とは、氷が解け割れる意味を表します。

また、

「大川を渉るに利あり。」

ともあります。巽(☴)は、風という意味の他に、五行で表しますと、木行でもあるので、水(☱)の上を舟(☴)で渡る・・・

これを、ノアの箱舟、と身勝手に例えたら、笑われるでしょうか?

常識やモラル等、「こうでなければならない」という頑なさを叩き壊して、溶かして、どんどん外部の価値観を取り入れて、自らを拡大させて行くようなイメージが一気に浮かび上がります。そして、”恋人交換”という事自体、まさに冒険であります。(現在よりも比較的緩いコンプライアンスだったとはいえ、取り扱うテレビ局にとっても冒険だったに違いありません。一歩間違えると、浮気や不倫を肯定する事にも繋がるのですから。)


実は、散る、という意味を持つ六十四卦は、風水渙の他にもう一つあります。

雷水解(らいすいかい) です。

            ☳

            ☵

しかし、私が今回採用したのは、雷水解では無く、風水渙、です。

あくまでも、私の個人的な見解としましては、雷水解は、元々の凍っていた一つの氷の塊が、雷鳴によって打ち砕かれてバラバラに解ける、というイメージですが、一方の風水渙は、元々の曖昧な粒子が風によって舞い上って四方八方に息吹を求めるような・・・より詩情に溢れたイメージがあります。また、様々な情報(風=☴)を内部に取り入れる、というイメージもあります。新しい愛情の形、本当に絆を結び続ける事において、”愛情より相性”なのか、そういった事に関する情報を、それぞれが馴染ませる、という(無茶ぶりなこじつけですが)イメージも、このドラマ全体は、風水渙が望ましいと思った事の一つです。


今作品は、全10話の連続ドラマで、印象的な場面を拾い続けていたらとてもキリが無いので、特に印象に乗ったシーンを厳選して、無理やり六十四卦に当てはめる暴挙に出たいと思います。まさに、周易を通してもう1度この隠れた名作ドラマを”シャッフル”したく思います!


■1 第3話より。

※香里奈氏演じる、翻訳家・逢澤愛瑠と谷原章介氏演じる精神科医・菊田正人がラブシャッフルによりカップルになっている。正人が、かつての恋人と死別したという傷を知った愛瑠が、正人に訴えかける。

179ページより引用。

愛瑠「その人に私、負けてるかもしれないけど、頑張るから。菊リン(※正人)が幸せになれるように」

正人「アイアイ(※愛瑠)」

愛瑠「頑張る。ね、だから、私と」

正人「いけないよ、愛瑠」

愛瑠「・・・・・・」

正人「君はそうやっていつも、誰かに同情して恋愛を始めていたんだろう」

愛瑠「・・・・・・」

正人「愛情と同情は温かさは似ているが、赤と青のように色が違う」

愛瑠「・・・・・・」


ここで、正人は、愛情と同情が、同じようでいて、いかに方向性のベクトルが違うのか、という事を、優しく説いているのです。

上記を無理に六十四卦に当てはめますと・・・・


    雷沢帰妹の九二

      (らいたくきまい)

            ☳

            ☱

基本的に、上記の卦は、帰=嫁ぐ、妹=年若い女性。

若い女性が、年老いた男性(☳)の元に嫁ぐ、という意味合いのある卦です。あくまでも、易経が生まれた当時の世相を反映させた価値観でありますので、怒らないで頂きたいのですが(炎上回避!)、若い女性が、年老いた男性を追いかけようとしている・・・”違和感”というキーワードが色濃く出ている卦です。

そして、雷沢帰妹の九ニは、


「九二は、眇(すがめ)にして視る。幽人(ゆうじん)の貞に利あり。」


見えないものをしっかり見据えようとして、見えないものを見えたと見栄を張っても、その想いは遠くに及ばない、というニュアンスが含まれています。孤高の賢者として、一人突き進むのがよろしい、という答えも孕んでいます。

また、単純に内卦と外卦、という分け方で見ますと、内卦を”同情”、外卦を”愛情”と見ますと、”同情”が楽天的にその場にいたがる(☱)のに、”愛情”はそんな”同情”お構い無しに遠くへ行ってしまう(☳)

という見方も無茶ぶりではあるものの、出来るように思います。

また、一直線に恋愛模様は、愛の形を問うような場面ばかり、と思いきや、随所に、世間に潜む、既に置き去りに、野放しにされているような虚無感にも、メスを入れられているように思います。

例えば・・・

DAIGO氏演じる諭吉が、貫地谷しほり氏演じる芽衣の愛を失いそうになってしょげている啓をヒーローに仕立てようと、敢えて自身が雇った少年達に芽衣と愛瑠を監禁させる・・・までは良かったのですが、予想に反してその事を聞きつけた暴走族の少年達が、「自分達のシマで勝手な悪さは許さない」と、芽衣達を助け、雇われの少年達をボコボコにしようとする・・・

(ちなみに暴走族の総長を演じていたのは、大東駿介氏です。)

戸惑っている芽衣達と、暴走族の少年達を交互に見て、彼等に芽衣達を襲われたと勘違いした啓は、条件反射的に、啓発的な(啓だけに)セリフを一気にまくし立てるのです。


■1 第4話より。

234ページより引用

啓「つるまなきゃなんにも出来ねぇクソッタレが。威勢張ったってお前らなんかちっとも怖くはねぇんだよ」

若者達「・・・・・・」

啓「コンビニ、スーパーで煙草吹かして携帯いじる。他人の迷惑おかまいなしにパラパラパラパラうるせぇったらありゃしねぇ。正月にゃ高速で毎度おなじみおまわりさんとのおっかっけっこ。下らねぇんだよ、何もかも」

若者達「・・・・・・」

啓「ただし全く分からない訳でもない。勉強も出来ない、とりえもなきゃ、いじけてツッパルのも分からないでもない。だけど、弱い者、女子供に何かしたらホントにお前ら骨の髄までクズって事さ。なんかに熱くなって、世の中あっと言わせてぇなら、アフガン行ってテロリスト捕まえて来いってんだよ!」

若者達「・・・・・・」

自身でリライトしていて胸が痛みます💦。私は、占いに、東洋占術に、周易に、熱くなっているでしょうか。未だ虚無感を抱えてスカスカなままでは無いか、と、40過ぎた加齢によって薄くなりかけている頭髪を想いながら、思うのでした。徹底的な青臭さに、鼻をつまむ間も無く、そこに横たわる正論にうろたえてしまうオジサンがここに、います。

と、この場面を無理やりに六十四卦に当てはめますと・・・


   雷天大壮の九四

     (らいてんたいそう)

            ☳

            ☰

空(☰)の高みに雷鳴(☳)が響く卦。また、陽爻が初爻からグングン競り上っている様子から、”大いに壮(さか)ん”というキーワードが色濃く出ています。また、内卦の乾(☰)も外卦の震(☳)も、それぞれ空と雷を象徴していて、休む、もしくは、冷静に振り返る事を知らない。そういう観点から、”思慮不足の為に動き出してしまう”という要素がふんだんに盛り込まれています。しかも、九四(下から四番目=四爻)は、雷天大壮の主爻で、本来であるなら陰爻でなければならず、そこに陽爻が来ているので、冷静に止まるべき時に動き出してしまう啓の単純さが現れているようです。また、雷天大壮は、”大兌”、つまり、兌(☱)を大きくしたような形の卦です。

兌は、口舌、伝える、コミュニケーションを表します。状況をひとまず冷静に分析する事無く、思慮浅く啓発をまくしたてた啓の心理を明快に表していると断じても過言では無いでしょう。


そんな啓の単純でもあり、正義の塊でもある人間性が、愛情と向き合う事で、どういう形で報われるのか、という事も、密かに隠れたテーマのように思えてならないのです。

そんな啓の正義から来た純粋さが結実したシーンがもう一つあるように思います。

小島聖氏演じる玲子がラブシャッフルに参加している事を聞きつけた、玲子の夫・上条(演・尾美としのり氏)は、啓や諭吉達をホテルに呼び寄せる。責められると感じて身を引き締める啓達を笑い飛ばし、むしろ上条はもっとやれと啓達に促す。そこには同じく笑っている玲子もいた。

■2 第5話より。


※啓達を笑い飛ばす上条、そして玲子

51ページより引用

玲子「これが、私達夫婦の有り方なの」

上条「嫉妬や束縛など超越してるのさ。真実の愛情とはその領域にある。(と玲子の肩を抱き寄せる)」

玲子「ええ」

53〜54ページより引用

上条「私は糖尿を患ってね、残念だがそっちの方は機能しない。ただ妻はまだ若い。ホルモンのバランスというかね、美しさを保つにはそういう事も必要だろう」

省略

諭吉「(床に正座している)本当にやきもちとかないんですか?」

上条「愛する人は所有物ではない。相手がそれで幸せなら、むしろ喜ばしいと思うのが大人の愛情さ」

啓「(床に正座している)・・・・・・」

上条「程度が低い人間達は、愛とセックスを結び付けたがるが、ハッキリ言ってそれは無関係なんだ。動物だよ、獣だよ、そんなもので引き合うのなら」

玲子「そしてそこには必ず飽きが来るものでしょう」

上条「そう。どんなそそられる相手もね。時間が経てば飽きてしまう。そうして、そのレベルで惹き合った二人は、価値観が違うなどと、グズグズした事を言って別れるだけさ」

玲子「そしてまた別の相手に恋する」

上条「恋というと聞こえはいいが、要はセックスで惹かれたに過ぎない。飽きてしまえば、途方にくれ、苛立ち、終わる。失恋で泣くのは勝ち負けのようなものだ。先に飽きられて、まだ飽きてない方が未練で涙を流す。ハッキリ言って滑稽だね」

旺次郎(※演・松田翔太氏)「なるほどね」

啓「・・・・・・」

上条「分かるかい? 本当の愛とはね、そんなものを超越しているものなんだ。人間はね、いいかげん精神的に進化しないといけない。セックスはプレイに過ぎない。食事や買い物、欲求の一つに過ぎないのだよ」

・・・文学的なセンテンスに身勝手に酔いしれてしまい、つい雷天大壮的に長めに引用してしまいましたが💦 本当の愛の形とは、愛とは何か、テレビドラマという媒体を通して、お仕事という感覚を超えて執拗に向き合って来た、いかにも鬼才の野島氏らしい深みある文章です。

また、”本当の愛とは所有では無い”という意味合い、また、恋人を交換する”ラブシャッフル”という行為、所有より共有・・・ん?

まさに、令和四年の現在、いわゆる”風の時代”を先取っているではないですか!!!

本ドラマが放送されたのが2009年。風の時代うんぬんかんぬんと、西洋占星術界発信で騒がれ始めたのが2020年・・・・・・10年以上前も、次なる時代を読んでいた、野島氏の占星術的思考がまさに鮮やかに蠢いていて、身勝手に身震いする感覚を覚える次第です。

(ちなみに、かつて野島氏は、とある雑誌にて、同じく鬼才の脚本家・坂元裕二氏との対談の中で、自分は魚座だから他力本願で人に引き上げられて育つタイプだというような事をおっしゃっています。)

・・・しかし、そんな”風”を運んで来た上条に、またしても、真っすぐに、主人公の啓は異を唱えます。

55~57ページより引用

啓「本当にそうなんですか」

上条「うん?」

啓「失恋て、そんなに笑える話ですか」

旺次郎「ウサ・・・・・・(※ウサタン、宇佐美啓のニックネーム)」

啓「俺が、誰かに惹かれるのは、抱きたいからだけじゃない!」

省略

啓「人間は進化しなくちゃいけない? ロボットになれって事ですか。そんなのつまんない。この人しかいないって、トチ狂って盛り上がる。泣いて、笑って、ハシャイデ、やきもち焼いて、めっちゃ束縛したくて、重たいかって、我慢して、眠れなくて、朝になっちゃって、鏡見たらパンダみたいにクマ出来ちゃって」

上条「・・・・・・」

旺次郎「イェイパンダ・・・・・・」

諭吉「・・・・・・」

正人「・・・・・・」

○シャワールーム

玲子「・・・・・・」

啓の声「元を辿れば動物なんだ、バカな獣でいいじゃないか。おろおろしちゃって、バイアグラ発明する。滑稽だから人間なんだ!」

相田みつを氏に通じるような、欠落した部分を持つ人間に対する暖かな眼差し。NOBODY IS PERFECT!

こちらの場面を、またしても無理やりに六十四卦に当てはめますと、

雷沢帰妹の六三

が、ふさわしいかと思います。

             ☳

             ☱

先程も当てはめた卦ですが、先程得た爻は二爻で、今回は三爻と致します。

全体的に、先程も申しました通り、”違和感”がキーワードの卦であります。まさに、啓が、上条の謳う愛情観に違和感を思い、対抗する訳ですが、無理やりに、内卦を主人公の啓、外卦を上条、としますと、自己の愛情観に酔いしれて宇宙観まで巻き込もうとするような上条(☳)に、地に足をつけた、自身なりに誠実なコミュニケーション(☱)を図る啓。また、雷沢帰妹の三爻は、離(☲)の主爻ともなっています。同時に三爻は、天・人・地の人の部分、内卦と外卦の架け橋となり得る爻でもあります。なので、内卦の啓、外卦の上条、お互いの価値観が、まさに明らか(☲)になり混じり合う、もしくは、ふつかる、とも言えます。

また、三爻は、本来は陽でなければなりませんが、雷沢帰妹の三爻は陰となっています。啓が、沸点高く上条の愛情観に食ってかかる事で、三爻は陰から陽になり、そうなれば之卦は・・・・

          雷天大壮

             ☳

             ☰

やはり、啓の純粋に突っ走る力強い誠実性が、こちらでも存分に窺えます。

その後も、男女七人よろしく様々なエピソードが盛り込まれて、全てを紹介し、全てに六十四卦を当てはめる暴挙に出たい所ですが、やはり余りにも膨大になってしまい、また、それを雷天大壮的に行ってしまいますと、読者のあなたを置き去りにしてしまう、マスターベーションに成り下がってしまう(もう充分になっているというご意見には目を半分つむり💦)ので、それは致しませんし、また、ネタバレ回避という訳では特に無いのですが、ラストシーンを取り上げる事も敢えて避けたいと思います。もしも、曲がりなりにもこのしょーもないノートを通して作品にご興味を頂けたら、それぞれにご自身なりの六十四卦を当てはめて、より奥行きを持って楽しんで頂けたら嬉しく思います。

それを踏まえて、次に取り上げるシーンは、精神科医の正人の患者である、吉高由里子氏演じる、心を閉ざした画家の卵・海里。彼女は正人に参加させられたラブシャッフルをきっかけに、旺次郎を想い始める。海里は二十歳の誕生日に死ぬつもりだという。「なんで死にたいの?」という周囲の声に虚無的に「なんで生きたいの?」と返すだけの海里に、カメラマンとして生きるか死ぬかの過酷な戦場にいた旺次郎は勝手に死ねばいいと当初は呆れて突き放すが、本当に川に飛び込む等の危うさや、彼女の内に眠る芸術性を悟り、旺次郎も海里が心に住み着くようになる。しかし、正人はある日、海里を旺次郎から無理に引き離す・・・。心が壊れてしまう旺次郎。実は、かつて死別したという正人の恋人は、旺次郎に顔が瓜二つの男性だった。(正人はバイセクシャルという設定)それを知っていた啓と愛瑠は、もしかしたら、正人は海里を本当に自殺させて、旺次郎を自分のものにしようとしているのではないかと半信半疑で正人に詰め寄る。

■2 第9話より。

204~205ページより引用。

○リビング

正人「(微笑して)・・・・・・」

愛瑠「戻してよ。Oちゃん(※旺次郎のニックネーム)を戻してよ! カッコつけて強がって、でも明るくて、傷つきやすいけど、ホントは凄く優しい。あのOちゃんを返して!(と正人に掴みかかっていく)」

啓「(制して)よせよアイアイ(※愛瑠のニックネーム)、菊リンには考えがあるんだよ。きっと何か考えがさ」

正人「(不意に笑い出す)」

啓「菊リン・・・・・・」

正人「君たちのような偽者に、僕の気持ちなど分からない。薄っぺらに恋して、失恋すればまたすぐに車を乗り換えるように新しい恋を始める。精神性のカケラもない。そんな君たちに、唯一の、愛しい人を、理由もなく永遠に失った。そんな僕の絶望と孤独など理解できるハズもないんだ!」

愛瑠「菊・・・・・・」

啓「どうしたんだよ、菊リン。俺たち友達じゃない。そりゃ知りあって間もないけど、毎晩のように、パジャマで飲んだくれて」

正人「苦痛だったね、インテリジェンスのない君たちとの会話は」

愛瑠「なっ・・・・・・」

啓「本気じゃないよね、ね、菊リン、そんな」

正人「・・・・・・」

・・・と、正人の名誉の為に断っておきますが、主人公・啓のおっしゃる通り、正人には、”何か考え”があったのです。実際その時、海里はネットカフェに寝泊まりしていて、正人が食糧を毎日届けていました。

 かつての正人の恋人の死因は自殺でした。その事で、正人は一時期精神のバランスを失い、心が壊れてしまっていたのです。後から残された者が、どうなってしまうのか、正人は、自分を失って心が壊れてしまう旺次郎の姿を遠巻きに海里に見せる事で、彼女に自殺を思いとどまらせようと意図したのです。いささか、旺次郎の心に犠牲を負わせる荒療治ではありますが・・・

226ページより引用

正人「もちろん治療の一環さ。というより、僕にはもうその方法しか思いつかなかったんだ。海里の自殺を食い止める為にはね」

・・・この一連の正人の言動を、無理やりに六十四卦に当てはめてみますと・・・

        沢天夬の上六

          (たくてんかい)

           ☱

           ☰

上記の卦は、”意を決する”、余りにも陽爻が競り上り過ぎて、大きな兌(☱)に似た形を形成してしまい、止水(☱)が余りにも高い場所に上り過ぎて手に負えない、決壊寸前、という様子を表した卦です。ダムの決壊、といいますと、同じく野島氏脚本のフジテレビ月9『ひとつ屋根の下2』(1997年4月期)の、江口洋介氏演じる主人公・柏木達也”あんちゃん”の「心にダムはあるのかい!」という名ゼリフが思わず浮かんでしまいますが、こちらの正人も、心に他人の為に流せる涙を保つダムがあるが故に、決壊、という流れになってしまっている光景が、激情を宿した言葉一つ一つから窺えます。

沢天夬の爻辞では、

「上六は、号(さけ)ぶことなし。終に凶あり。」

という、実に不吉なものではありますが、もちろん、爻辞が凶と言っているからそのまま凶、という事は言えず、その場その場でフレキシブルに見ていかなければ、本当の易の言葉には辿り着けないように思います、

しかも、この激情に駆られている正人に、吉か凶かの二元論を当てはめるのは、それこそ枯れたダムのような無駄な行為に過ぎないように思います。君子(陽爻=読めない海里の高らかな芸術性)に追い詰められた小人(陰爻=海里、そして自身の過去に追い詰められた正人)が、大声で叫んでも、応える仲間は誰もいない。孤独・・・。しかし、ありったけの激情を込めた言葉(☱)を放った事で、少なからず、第三者である啓の心のダムには響いたようで・・・

242~243ページより引用

○焼鳥屋

啓と芽衣が飲んでいる。

省略

啓「もしかしたら、それって海里だけじゃなくて、みんなに当てはまるかもしれないって」

芽衣「どういう事?」

啓「人はさ、一度、どこかで消えてしまうべきなのかもって」

芽衣「え」

啓「それで、今の海里のように、その後の世界を見つめるべきかもしれないって」

芽衣「啓・・・・・・」

啓「肉親はともかく、自分が消える事で、誰かが泣いたり、いや、泣くだけじゃなく、Oちゃんのように、ぽっかり穴が空くほど壊れてしまう人がいるのかって。もし誰も、そういう人がいなかったとしたら、それは自分の今までの生き方が間違ってるって事なんじゃないかってさ。恋人とか、友人とかも、すぐに忘れ去られるような自分だとしたら、何かが間違っていたのかもしれない」

芽衣「想い出に残らなければ意味がない?」

啓「それも強烈にさ。その人の代わりなど、決していないって」

芽衣「うん」

啓「人生ってさ、大袈裟かもしれないけど、自分が死んで終わりってわけじゃないのかもしれない。その後に残された人への、影響もひっくるめて、その人の人生なのかもしれない」

書いていて、死んでもすぐに忘れ去られるオジサン選手権入賞決定なる私の小さな小さなダムが震えました💦 この言葉に触れる事で、ダムを改装する時期に来ているのかも知れません。 

確かに、四柱推命における命式でも、死後に注目される人物を、亡くなった後の大運と絡めて辿ってみると、”名声を得る”という暗示が見えるというお話は何度か聞いた事があります。

と、こんな壮大なセリフを、宇宙観に拡げずに、”占い”にこせこせ当てはめる私の底の浅さがさらけ出されてしまいますが、ちっぽけな私をも投げ出したくなる程の粒立ったセリフの数々に徹底して酔いしれる事の出来る野島脚本のドラマは、コンプライアンス云々問われる神経質な現在でも、やはり地上波で見たい、と慕わせてくれます。

最後の啓と芽衣の会話は、敢えて六十四卦に当てはめる事はしません。怠惰故、では決してありません。

実際に当作品に触れて、ご自身でご自身の思いや価値観を自由にシャッフルしながら、それぞれの六十四卦を当てはめてみて頂けたら幸甚ですし、その方が、戯曲の読み方にも、立卦の読み方にも、その方なりの深みが宿るに違いないと思うからです。

総合的に『ラブシャッフル』は、”風水渙”を象徴する物語でありながら、”雷沢帰妹”をいかに崩すかに執拗に向き合った物語でもある、と身勝手に身勝手を重ねて唱えさせて頂きます!

「恋愛に必要なのは愛情よりも相性?」という全編に染みわたる当作品のテーマを、是非、周易と絡めながら(絡めずとも)一度考えてみて頂けたらと思います。

では、これからも執拗にこのシリーズ続けて行きます。このシリーズを楽しみにしている方で(そんな奇特な人はいないか💦)こんな戯曲を取り上げて欲しいという方、もしくは、この場面はこの卦よりもこの卦のこの爻の方がふさわしいのではというご指摘等は、ご遠慮なく、コメントでも、TwitterやInstagramのDMでも、ご連絡頂けたらと思います。喜んで受けて立たせて頂く所存です!

本格的な冬に加えて、オミクロン云々が跋扈した鬱陶しい日々ですが、その中でも、どうかご無理せず、くれぐれもご自愛下さいませ。

またこちらでも会えますように。

最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!

今年、壬寅の年も、何卒宜しくお願い申し上げます。

                  令和四年 一月十九日

    曲がりなりにも東洋占術家   副汐 健宇

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