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“永遠の昼寝”から〜伝説のドラマ『高校教師』(1993)のその後を周易で読み解く〜

皆様、2021年、新年明けましておめでとうございます!!!

・・・と、今年初の更新、大幅に遅れてしまいました・・・

私の「note」を楽しみにして下さっている方々に、深くお詫び申し上げます。

#そんな奇特な人はいない


大変ご無沙汰しておりました。

今年は、こちらでは、書いているうちに妙に高まるテンションを巧妙に抑え、もっとスマートに本題に入れるように精進して参ります!

今年(・・・)も、何卒宜しくお願い致します。


本日は、

一介の生物教師と、一人の憂いを帯びた女子高生の純愛を描き、恋愛ドラマの

金字塔を打ち立てた、伝説のドラマ

『高校教師』

(1993年1月8日〜1993年3月19日  全11回

平均視聴率:21.9%)


脚本:野島伸司

主演:真田広之 桜井幸子


に関して取り上げさせて頂きます。

”禁断の愛”と謳われた、教師と女生徒の純愛のエピソードを軸に、性的暴行や近親相姦等の要素にも真正面から取り組み、賛否両論を巻き起こしました。

その表面の上辺だけの部分に目を奪われて、放送当時、小学6年生だった私は、英語教師・藤村知樹を演じられていた、京本政樹氏の一挙手一投足にばかり意識を注いでいた苦い記憶があります💦

しかし、改めて1話〜最終話までを丁寧になぞって見ますと、”禁断”な要素の数々を通して、「愛情とは、所詮は遺伝子に組み込まれた利己的な感性に過ぎないのではないか。それをも超えた、本当の愛は存在するのか」というテーマが、全編に渡って、文学的なモノローグと共にしっかりと染み込まれています。クラシックな世界観が、そこにあります。

(ちなみに、真田広之氏演じる生物教師・羽村隆夫の愛読書、『利己的な遺伝子』の著者:リチャード・ドーキンスは、徹底的な占星術批判論者としても知られています・・・)

こちらで1話ごとに、詳しくエピソードを語って行く事は控えますが、終盤、黒田アーサー氏演じる研究者時代の仲間の裏切りや、桜井幸子氏演じる女生徒・二宮繭の隠された秘密を乗り越えて、羽村は繭を連れて、故郷の新潟で、教師を辞めて新しい仕事を探しながら、二人で暮らす事を決意し、繭にそう告げます。

しかし、羽村は、繭と”深く関係”していた、彼女の父親・耕介(演・峰岸徹)を、繭から守る目的から、空港にてナイフで刺してしまいます。耕介は、繭の、羽村への深い愛情を読み取り、敢えて家に火を放ち、放火による自殺と見せかけて、息絶えるのですが、羽村は自分が耕介を殺したも同然と、自らを責め、繭を故郷には連れて行けないと、繭の眠る隙をついて、指に繋がれた赤い糸を引き裂き、一人で列車に乗ります・・・

しかし、その列車内には、制服姿の繭が・・・

二人は寄りそうように座り、お菓子を分け合い、手を繋ぎ、仄かな笑顔を分け合いながら、羽村の故郷に向かいます・・・

しかし、その裏で、羽村が耕介をナイフで刺した事実を突き止めた警察が、故郷の駅で待ち構えている、という描写があり・・・

その頃、列車内の羽村と繭は、赤い糸で再び互いを繋ぎ、肩を寄せ合い、穏やかに”昼寝”をしている。傍らの窓に、吐息をキャンバスに指で描かれた、肩を寄せ合うふたりの猫の姿・・・

と、そこで、唐突に物語は終わりを告げます。

そのラストシーンに向かう際の、羽村のモノローグ

『僕は今、本当の自分がなんなのかわかったような気がする。いや、僕だけじゃなく人は皆・・・・・・恐怖も、怒りも悲しみもない、まして名誉や地位やすべての有形無形への執着もない。ただそこにたった一人からの、永遠に愛し、愛されることの息吹きを感じていたい、そうただそれだけの・・・・・・無邪気な子どもにすぎなかったんだと・・・』

※上記、『高校教師』野島伸司著(幻冬舎文庫) 263ページより引用


上記のモノローグに、本ドラマの全てが集約しているように思えます。詳細はここでは控えますが、藤村のやって来た事も、非常に歪んでいる形で社会的に決して許されない事ではあれ、このモノローグの答えを探す上での行動である、という事が、そこはかと無く読み取れます。

・・・放送当時、そして、現在も、本ドラマのラストシーンに対する憶測は絶える事は無く、ドラマフリークの方々から様々な私見が吐露されて来ました。「二人は心中した」「繭だけ死に、羽村のみ生き残った」「二人とも待ち構えていた警察に無理やり起こされて逮捕され、関係はそのまま引き裂かれた」

当時、脚本を書いた野島氏は、ラストシーンに関し、「見る者の判断に委ねたい。一つ確かに言える事は、二人にとってハッピーエンドだった。」というような言葉を残していらっしゃいます。

ラストシーンの脚本のト書きには、「永遠の昼寝をする二人」という言葉が添えられていたようです・・・。

・・・ここで、一介の東洋占術家に過ぎない私が、このラストシーン後、羽村と繭はどうなったか、

周易によって占う、という暴挙に、曲がりなりにも出させて頂いた次第です・・・しかし、”私にとって真剣に”見させて頂いた事、だけは強く訴えさせて頂きます。


結果:山火賁の初九

    (さんかひ)

        ☶

        ☲

「賁」とは、「飾る」という意味です。「土の下に混ざっている貝」、つまり、金属を意味します。貨幣の貨、資材の資、等、当時から、貝はとても貴重な物として見られていた事が窺えます。(貴重の貴、にも貝が隠れていますね。)

また、単純に卦の形を見ると、「山の下に日がある」、つまり、夕陽が光で山を彩る姿を表している・・・。とも、言えます。

そういった観点から、鑑定等の際にこちらの卦を見ると「華やかさに目を奪われる」という意味合いを多分に含む事になります。(それだけでは無く、占的によって当然変わっては来ますが。)


ただし、今回の場合、初九(初爻)、一番下の位置を得ているので、まだ、その意味合いの渦中にはいない、とも読めます。


山火賁の初九は

「その趾(あし)を賁(かざ)る。車を舎(す)てて徒(かち)よりす。」

趾は、足首より下の部分、徒は、徒歩。

初九は剛毅の徳があり(陽爻)、最下位に甘んじて、自分の行いを美しくしている。という意味合いが含まれています。


まさに、金や地位や名誉を排した、あらゆる虚飾を取り除いた、ただただ純粋な愛情に目覚めた二人の今後を示唆する卦として、ふさわしいのではないかと思えます。

卦の意味は、現状だけでなく、”戒め”として出て来る事も多いです。なので、今後も、時折、頭をもたげて来る、有形のものに対する執着に抗いながら二人は結びついて行く、今後が見えて来るように思います。

その事象の裏側、潜在意識を表す卦は、

沢水困(たくすいこん)

沢の中に水が無き、困窮する、いわゆる”四難卦”の一つ・・・

       ☱

       ☵

そう、やはり、迫り来るであろう困難に怯えながら、あの列車の中、二人は仄かに”永遠の昼寝”を装っていたのかも知れません。

肝心の、あの後、どうなって行ったか、という事ですが、

”三旬法”で大まかに見て行きます。


【一旬目】 水火既済

       (すいかきさい)

      ☵

      ☲

やはり、”永遠の昼寝”は二人を一体化に確実に導いて、あそこに繋がれていた赤い糸は、本当に二人を純粋な愛情に互いに向かわせる為の確実なツールになり得ていた事でしょう。

水火既済は、まさに、「陰陽が満遍なく配置されている」「完成」「想いがそのまま通じる」「目的は全て達する」という意味合いが多分に含まれています。

しかし、

【二旬目】 雷水解

        ☳

        ☵

・・・雷鳴(☳)が氷(☵)を突き破る、「雪解け」という光景を表現した卦ですが、雪解けというのは、今までの悪い状況が解ける、という意味で、もしも今までの関係が至福に包まれたものであったなら・・・

上の外卦は、雷(☳)で、動、下の内卦は、水(☵)は、静、つまり、動いた事で、”引き裂かれてしまった”・・・昼寝の時間を終わらせた事で、現実に引き戻された。お互いに分け入った内面の世界から・・・

という事で、やはり、待ち構えていた警察は、結局、二人の眠りを奪った事に成功したと言えるでしょう。二人は実際、捕まったと言えます。

そして・・・

【三旬目】 山雷頤

        (さんらいい)

         ☶

         ☳

雷(☳)の上に山(☶)がある卦、と単純に読めますが、山雷頤に関しましては、卦全体を、人体の”口”に見立てて、口を大きく開けて物を食べようとしている、という光景を表します。頤は、口、の意味です。

上は艮(☶)で、山、止まる、下は震(☳)で雷、動く、で、下顎を動かして物を食べる、光景と読めます。そこから、”養い育てる”という意味合いがあります。

また、何度も何度も反復して行う、インスタントでは物にならない、という戒めも含まれている卦です。

”永遠の昼寝”から無理に起こされ、二人は引き裂かれたかも知れませんが、二人は、離れた中でも、お互いの想いや愛情を堅実に仄かに吸収している、それを栄養として、今も日々生きている・・・。

卦は、下の二爻を、地(現実)、中央の二爻を、人(混沌としたもの、人間関係)、上の二爻を、天(精神)とも読めます。

山雷頤は、”人”の部分が全て陰爻、つまり、OFF、受け身、となっています。

混沌さに自ら身を委ねる事をせず、日々に受け身に、離れていても、お互いの愛情に耳を澄ませている、二人の情景が、身勝手ながら私には浮かんで来ます。山雷頤は、中央の四つの陰爻にやはり目を奪われ、やはり、陰に通じるような、”穏やかさ”の中にいて、今も二人は、ある意味”永遠の昼寝”を続けているのではないでしょうか。
やはり、ラストシーン後も、一筋縄では行かない、起伏ある、起承転結のドラマツルギーの中に、二人は否応無しに投げ込まれていた、と、読めます。
しかし、やはり、結末は、ハッピーエンドであった、と、非常におこがましながら、私の卦読みからでも窺えます。

あらゆる虚飾、虚飾への執着から身を離して・・・・。


最後まで読んで頂き、ありがとうございました!

ご指摘やご質問等、お受けさせて頂きますので、何かございましたら、ご遠慮無くご連絡頂けたらと思います。

こちらをお読み頂いた方々が、少しでも、日本のテレビドラマに、『高校教師』に、そして、周易に、東洋占術に、ご興味を沸かせて下さいましたら、これ以上の喜びはありません。

もっとコンスタントに更新して行けるよう、励んで参りたく思いますので、今後も、何卒宜しくお願い致します!!!

追伸:『高校教師』(1993)に関しましては、ラストシーンは勿論ですが、列車に向かう際の、羽村と、赤井英和氏演じる、元体育教師の新庄徹との会話にも、時を重ねた私には仄かに胸に迫るものがあります。新庄が、羽村を、「30歳過ぎてようやく出来た友達」だと思う。しかし、何故にこうして離れなくてはならないのかと、ため息をつく。そんな彼に対し、羽村がかける
  「紙一重じゃないですか。紙一重で皆…」
このセリフに刻まれた重みを、私は、一介の東洋占術家として、密かに受け止めて行きたく思っています。

                  令和三年 三月二十日

                        (春分の日)

                       副汐健宇

※参考文献
『高校教師』野島伸司(幻冬舎文庫)
『すぐに役立つ銭流易経』銭天牛(棋苑図書)
『易』本田済(朝日新聞出版)

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