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なぜ日本人は弱いのか

八月十五日は終戦、ではなく〈敗戦の日〉。つまり、日本人が戦争をはじめて、負けた日なのである。日本人は弱い。そして、今も。

一言で言えば、一億総菅義偉のツラである。


結局のところ、今回のコロナも含めて、かつての戦争も、もっというならば経済・政治・外交などあらゆる面で、日本人が負け続ける根本的な理由は、思想がない、ということではないか。

自己の絶対化以外の対象の分析を拒否する姿勢にもあらわれる。これは日本人が怒りっぽいとか、すぐ感情的になりやすいとか、空気に支配されやすいといったことと同じであろう。


それらについては後述するとして、もちろん、日本人にも強みなるものはある。

日本民族は優秀説を主張する具体的事例は、その事例があくまでも事実なだけに、非常に説得力があって反論しようがない。では、それははたして事実だろうか。もし事実とするなら、その「日本人の強さ」なるものの謎は一体なんだろうか。


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日本人の強みを一言で言えば、「職人芸に優れている」(完璧主義、繊細さや生真面目さ)という点だ。

その意味では、日本民族が優秀なのは事実なのかもしれない。

山奥に籠り、自分の武器を〈日本刀〉のみに限定して、武芸を徹底的に追求して、洗練させ、圧倒的な強みを発揮する。

世界に稀みる多様な食(和洋中)、ファッション、メイク、コスメ、お笑い、番組、韓流、サブカル、歌舞伎、落語、伝統工芸などの文化としての魅力。'かつての'モノづくり大国の名誉の源泉はここにある。

一つ一つ、細かく、丁寧に、こだわりを持つ。

そのような文化に限らず、街並みの清潔さ、サービスなんて感動そのもの。

それらを目にするたび、日本人の繊細さ、良さ、魅力がひしひし伝わってくる。


この「芸の追求」(完璧主義的な傾向)の伝統はいまの受験戦争にもそのままあらわれていて、「その道のプロ」とはいいながらも、これが極限にまで進むと「一芸に秀でたものは万能」といった考え方をうむのである。ただ単に、「日本刀の武芸に優れている」という意味しか持たないにもかかわらず、だ。

前述のように〈一種の受験戦争訓練〉であり、従って、ある前提がなくなれば、〈無価値な芸〉になってしまうわけである。

それは状況が変化すれば、たとえ、宮本武蔵の武芸も、一切役立たずに終わるということ。すなわち、〈学力評価の手段である試験〉が逆に目的となり、学問は〈その試験突破の手段〉となる、といった形である。手段であるはずの学問も、就職も、結婚も目的。その芸の極意に達した人は、名人とか神様とか言われる。

前提が違えば、芸の威力は皆無になるという考え方がまるでない。こういう場合、日本刀の武芸は特攻隊、受験戦争、自粛要請と同じである。

例えば、関西のボケとツッコミも前提が成立しなければただの〈独りよがりな状態〉なのと同じで〈芸〉にならず、受験で言えば、試験のやり方という前提(例えば、マークシートから記述式)が変わった瞬間に、百点満点が八〇点になるという形にならず、〇点になってしまうのである。


さらに極端にまで進めば、竹やり(自粛、行動制限)で戦闘機、銃、原爆(コロナ)に対抗できる発想にもなる。


日本人はなんとまあ一方的な思い込み、主観が強く、非科学的で冷静さに欠けると考えやすいが、いまも少しも変わってはいない。これがどれくらい変わっていないかは、コロナ禍の混乱をみれば一目瞭然である。


これは徳川の鎖国時代(山奥)、いやもっと前から一貫して流れている伝統であった。そして、これを「伝統」「日本の文化」だと考えて客体化して再把握するに至れないことも、〈武芸の絶対化〉となってしまう。

日本は強いと主張する人の基本的な考え方は、この伝統的な発想に基づいており、しかもそれが、伝統的な発想のパターンの一思想に過ぎないと思わずに絶対化している。

戦後も同じではなかろうか。「日本軍は天皇の兵隊であり、無敵である」とドヤ顔していたにもかかわらず、呆気なく粉砕されたのと同様に、「日本経済は無敵である」、焼け野原からわずか数十年で経済復興を遂げて、「アジアの奇跡」と呼ばれ、自分達は最強であると本気で信じているのではないか。

あるゆる前提は一切考慮せずに。



なぜこのような〈芸の絶対化〉、すなわち、〈自己の絶対化〉が起きるか。

日本文化に普遍性がない、日本文化が確立していないなためである。

文化とは元来個別的なものではあるが、もし日本文化が、あるいは日本人が普遍性なるものを持っているとすれば、それは日本人一人ひとりが意識的に、自らの状態を自分の言葉で再把握、再定義できなければならない。日本人、日本の文化とはこういうものだと、違った文化圏に住む人々に示せる状態であらねばならない。それができてはじめて、日本文化は普遍性を持っていると言えよう。

そしてそれができてはじめて、相手の文化、そしてその文化に基づく相手の生き方・考え方が理解でき、そうなってはじめて、相互に理解できるはずである。しかし、それができない限り、自分の理解できないものは、ただちに「非国民」「KY」となってしまう。

そこで自分と同じ生き方・考え方をしないというだけで、彼らは、ただ怒り、軽蔑し、裏切られたといった被害感情だけを持つ。

米軍のチョコレート一つで「アメリカ大好き」に豹変したが、戦争中には「鬼畜米英」という言葉があった。

事実、人と人が殺し合うのだから、戦争には多くの「鬼畜行為」が常に存在する。もちろんこれは米英側にもあるが、「鬼畜米英」と同様に、戦前の日本を批判する者(左系)も「鬼畜日本軍」「日本は侵略国家」だと、絶対化した対象以外はすべて「人間」でなくなる。

最近のメンタリスト・DaiGoの生活保護バッシングもそうだろう。

そしてこういう見方をする人たちの共通点は常に「自分は別だ」「自分はそういった鬼畜と同じ人間ではない」といった〈前提〉、すなわち〈絶対化〉した上で、「相手を自分と同じ人間だと認めない」という立場で発言しており、その立場で相手を指摘することで自己を絶対化して、正当化している。

だが、実を言うと、戦争中、そして、今も基本的な態度は変わっておらず、その〈対象〉と〈絶対化した内容〉が変わっているだけに過ぎない。

日本人にあるのは〈自己の絶対化〉だけであり、「ほかに文化的基準でいきるもの」を認めようとしない、奇妙な精神状態であった。つまり、日本文化には普遍性がない、確立していない、ここに日本文化の弱点がある。

日本人の精神状態、〈自己の絶対化した世界〉は、その意味で〈他者〉がおらず、対等に話し合うこともできず、〈相対化〉されていない〈主観性に埋没した〉世界である。



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このことについて、半藤一利氏(ジャーナリスト・歴史研究家)は面白い指摘をしている。

最大の危機において日本人は抽象的な観念を非常に好み具体的な理性的な方法論を全く検討しようとしない。自分にとって望ましい目標をまず設定し実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意なんですね。物事は自分の希望するように動くと考えるのです。
軍隊のみならず、日本の組織は何かやろうとするとき、一体何を目的とするのか、それを明確にしないでやってしまうことが多いのです。命令する方は、本当の意図はこれなんだということをあいまいにして、かっこいいことを書く。

さて、かつてのアジア・太平洋戦争は「侵略」とか「自衛戦争」「白人からアジア解放の正義」というふうに言われる。本当に日本は「侵略」(あるいは自衛)を意図して戦争したのか、今回のコロナ禍でも、ゼロコロナなのか、コロナとの共存なのか、どちらの方向を目指しているのかイマイチよく分からない。

本当のところよくわからないのである。

コロナ禍でも、政府と専門家はこの1年半、「自粛」による「欲しがりません勝つまでは」ばかりいい続けてきた。

というのは、実際は、本来どのような目的を持っていたのか、何を意図して今を何をしているのか、皆、理解していないのではないか。


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ユダヤ人を虐殺したドイツ人は〈明確な目的〉を持ち、それを達するための〈方法〉を考え抜き、その方法を〈実行〉する組織を作り上げた。たとえ、その〈目的、方法、組織〉がいかに〈狂気に満ちて、鬼畜だったとしても〉、戦略があったことは否めない。


日本人が戦った相手、アメリカ軍は、〈戦争に勝つため〉常に方法を変えてきた。あれがダメならこれ、これがだめならあれ、と。同じ型の突撃をバカの一つ覚えのように機械的に何回も繰り返して自滅したりしない。


コロナでも、だからこそ、欧米の多くは、新しい日常に戻ろうとなっている。



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一方、日本はどうだろうか。かつてのアジア・太平洋戦争、そしてコロナとの戦争も含めて、本当は何を目的としているのか、意図なんておそらく誰もわかるはずもない。日本人には、明確な目的がないからこそ、いつまでもグダグダ、だらだら、終わりの見えないトンネルのだけで〈その日暮らし〉のようなことをしているのではないか。


というのは、当初から、明確な目的などは、どこにも存在しなかった。目的、意図がないからこそ、それを達成するための方法も、組織もはじめからあるはずない。

ある現象があらわれれば、常にそれにヒステリックに、慌てて、反応するだけである。

まさに機械的なパターンな繰り返しであり、この際、翻って自らの意図や目的を再確認、再定義して、新しい方法を考えぬき、それに基づく組織を作り直そうとはしない。

むしろ「逆」であり、そういう流れ(絶対化)は、「弱気」「臆病者」「非国民」という形となり、「人間」ではなくなる。



それはつまり、自分の頭と言葉で、自らの思想的土台を徹底的に考え抜き、ある答えを出して、批判にも堂々と向き合うということが不十分ということである。

自らの本当の強み、弱みが一体何なのかが徹底されていなければ勝ちようがない。



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一人ひとりの日本人が、脱日本人、キョロメ姿の菅総理、鏡の自分のツラをみて、自分の内部にある〈日本人の弱み〉〈日本人の劣等生〉〈劣等民族〉なるものと戦い続けて、克服しない限り、今後も、悲劇は繰り返されるではあろう。

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