なぜ今の時代に『ブルーロック』が生まれたのか

流行する漫画や小説、音楽などの作品は、その時代の深層心理を理解し、そのニーズを満たしている。

 『ブルーロック』は、2018年から「週刊少年マガジン」に連載されているマンガである。単行本の売り上げは2023年11月時点で3000万部を超え、アニメや映画、舞台にも展開されている(Wikipediaによる)。高校生のプレーヤーたちを中心としたサッカーマンガであるが、スポーツものにありがちなチームワークの大切さが主題になることは少ない。ブルーロックは一つのプロジェクトで、日本がワールドカップで優勝できるようになるために、得点を挙げるフォワードを作り上げることが最大の目的である。300人の高校生を中心とした選手たちがそのシステムに巻き込まれる。勝ち残るか、さもなければ敗れて立ち去るのかという厳しい状況の中で戦いが続けられていく。

 そこで示される価値観は明確できわめて挑発的だ。自分が得点を挙げることで、ライバルに対して心理的な優越感と満足感を確保し、実生活でも評価と報酬を高めることが最優先される。賞賛されるのは、そのために相手のみならず味方の選手をも利用し、出し抜く「エゴイスト」だ。他の選手を思いやり、相手に譲ったり自分を抑えたりする登場人物が、高く評価されることはない。報われるのは、他の選手を「喰い」、自分がゴールを決めようとする極端な発想と行動だ。

 読者の皆さんは、ブルーロックが描くエゴイズムの価値に共感するだろうか。それでもやはり、チームワークと協調性こそが大事だと考えるだろうか。

 ブルーロックが示す世界観を生理的に嫌悪する人もいるだろう。そもそも、「勝つ」「ゴールを決める」「注目と評価を受ける」「報酬を高める」といった目立つことばかりを重んじる価値観は、あまりにも単純過ぎるのではないか。目立たないところで主人公たちを支えている人々の功績にも注目するべきだ。それぞれの人の特質に応じた多様な価値観が重んじられるべきなのに、単一の基準で人間に順番を振り、強烈な競争を煽ってその優劣を競わせるブルーロックのやり方は、あまりにも殺伐としている。若者にそのような価値観を植え付けることは教育上望ましくないという意見も聞こえてきそうだ。

 私は「日本的ナルシシズムを克服し自我(エゴ)を確立する」ことが現代の日本社会の倫理的な課題であると主張してきた。その過程で、「ナルシシズム」と「エゴ」の区別を理解してもらうことに常に困難を感じてきた。どちらも他人よりも自分を優先することで、そこに大きな違いはないという誤解を受けることが少なくなかった。しかし両者は明確に異なっている。「ナルシシズム」には認めたくない現実から目を背け、自分にとって都合の良い空想を本当のことのように扱い、周囲にもそれを期待するという性質がある。それに対して、「エゴ」は現実の世界を認識し、その上で自分にとっての安全や利益を確保し、自らの欲望や考えに基づく計画を実現しようとする。「現実」と「空想」についての態度が、「ナルシシズム」と「エゴ」で大きく異なっている。そして、自らの責任で現実を切り開いていこうとする意味で、「エゴ」には倫理的な価値が存在する。資本主義・民主主義を採用する自己決定が重視される社会においては特に、エゴの持つ意味と価値が理解されるべきである。そして、ブルーロックはそのようなエゴの肯定的な面を明確に示している。


 作中の具体的なエピソードを二つ紹介する。いわゆる「ネタバレ」が含まれるので、ブルーロックが未読で、これから読む予定の方は注意してほしい。

 最初は、単行本の8巻を中心とした、主人公の潔世一(いさぎよいち)とライバルの一人である馬狼照英(ばろうしょうえい)との関わりだ。二人とも強烈なエゴを体現する人物である。潔の方は、さまざまな経験を通じて強烈なエゴを確立していくのであるが、物語の最初ではか弱い印象もあり、さまざまな場面で葛藤を感じて悩むことが多かった。それと比べて馬狼ははじめから周囲への敵意や攻撃性を隠すことはなく尊大で、サッカーにおけるストライカーとしての実力で潔を圧倒していた。そのような二人がブルーロック内の、選抜を兼ねた試合形式の練習の中で競い合い、明確に潔が馬狼に優越し、その動きをコントロールした場面が出現した。馬狼は潔から「ヘタクソ」と呼ばれる。

 そこで馬狼は、自分がかつて見下していた潔から、自分が見下されたことを知った。もし馬狼がナルシシストであったのならば、その現実を否認するような思考や行動のカムフラージュを行うだろう。馬狼の成長は止まり、強烈なライバルたちがひしめく集団から脱落して、物語内での存在感は小さくなる。しかし馬狼はナルシシストではなくエゴイストだった。その後に覚醒し、試合を決定づけるゴールを決めた。その馬狼は、試合終了後の潔との会話の中で次のように発言した。「あ?『ヘタクソ』発言は撤回させたが、それ以外はお前が正しいだろ」「俺が未熟だった。それだけだ。痛みを知って変われねぇほど臆病者じゃねぇよ。一回死んで、這い上がった俺は強ぇぞ」

 このシーンについて作者は、ブルーロックの仕掛け人である絵心甚八(えごじんぱち)にも解説させている。「大事なのは、“敗北に何を学ぶか”だ。敗北したものは、その戦場から否定される。戦う者にとってそれ以上の絶望はない。なのに多くの凡人共は、この“絶望”を正しく刻まない。自分に才能が無く、非力だったと否定され、間違いを認めるのが怖いから、無意識に言い逃れをするんだ。それは見事に無意識に」深層心理に興味がある筆者にとって、ブルーロックの作者がここで示している洞察は見事な内容だ。これこそが、ナルシシズムの病理である。

 ちなみに私が「日本的ナルシシズム」という言葉を使う時に、次のようなことを考えている。たとえば2011年の原発事故のようなことが起きても、日本社会は本当の意味で絶望を経験していない。かつては経済大国で科学立国であり、政治的にも影響の大きかった日本は、GDPでドイツに抜かれる状況になるなど、かつて持っていた優位性を失い続けている。サッカーは例外的に、その期間に日本が世界の中での存在感を高めた分野だろう。そのようなサッカー関係者の中から、ブルーロックのようなナルシシズムの病理を乗り越える表現が現れたのは、偶然ではない。


 「過度なエゴの強調は、社会的な繋がりや共同体意識を希薄化し、結果として個人の社会的孤立をもたらすのではないか」「若者に過度な競争に巻き込まれることを強制し、強いストレスを与えることになるのではないか」「相手に勝利し、周囲から賞賛されることのみを成功とみなすような、価値観の多様性を認めない、単純さを強調することになるのではないか」。ブルーロックの価値観に対する反論をまとめると、そういった内容だろう。

それについて論じる前に、もう一つブルーロックの中の、氷織羊(ひおりよう)という人物の描かれ方について紹介する。単行本では27巻を中心に描かれている。氷織は主要登場人物ではなく、脇役に近い存在である。しかし主人公の潔と同様に、フィールド全体を俯瞰して把握する能力に優れている。その一方で、サッカーとの出会い方が「両親からの夢や期待を押し付けられて強制された」という形だったために、サッカーを愛する心を半ば失っていた。彼がサッカーを続けたのは、両親の不仲が強まって家庭内のまとまりが失われないようにするためだった。その中で氷織はサッカー以外の時間はゲームに没頭し、そのような状況から逃げたいと願っている高校生だった。

 潔はライバルとの戦いに勝つために、自分とイメージを共有できる氷織をフィールドに立たせることを監督に直訴する。フィールド内での熱闘を間近で見ていた氷織は、「親に夢を強制されて、“期待”されるコトに疲れ果てて、あれだけ嫌いでどうしようもなかったサッカーを、やりたいと思ってしまってる初めての僕がいる」「生まれて初めて、僕は僕に期待する」と考え、自らも起用されることを監督に直訴した。親のナルシシズムを支える道具として生きてきた氷織に、「エゴ」が明確に自覚された瞬間である。

 フィールドに出てからも氷織は、過去の両親から自分への関わりについて「愛されてたのは自分じゃなくて「才能」だけだと悟った」「「期待」って感情は、僕にとっては呪い」と振り返る場面もあった。同時に、フィールド内でくり広げられる戦いに圧倒されつつも、そこで生き抜く道を模索し、強力なライバルたちについて「自分勝手でめちゃくちゃやけど、(周囲から)愛される意志と才能を持った人間」であると認識するようになる。そこで自分自身については「世界一になりたいとか、そんな大それた意志なんてまだないけど」と観察しつつ、潔を覚醒させるカギを自分が持っていると自覚する。そして、それが「僕が戦う理由になる!」と決意した。氷織がこの時点で行った自己規定は、「「演出家」というエゴイスト」だった。

 しかし試合の終盤で「両親からの期待」の記憶が呪縛となり、氷織の動きが鈍った瞬間、ブルーロックの総責任者である絵心のイメージが、氷織に自らシュートを打つことを命じた。氷織は強烈なシュートを放った。それがギリギリで決まらず、サッカーを辞めることを決意しかけた氷織に、潔がもう一度トライすることを命じる。プレーを続ける中で氷織は「僕を中心に世界が変わる瞬間を体感してみたい!!!なんやねん…僕ってこんなに…強欲な願望持ってたんや」と感じる。その先に、氷織が潔のゴールをアシストするシーンが出現した。試合後に氷織が考えたのは、「僕の人生は今、僕を中心に回り始める」という内容だった。

 ここで一つ読者に問うてみたい。あなたがもし、ブルーロックの世界に参加したのならば、どのような役割を演じる選手になりたいと思うだろうか。


 ブルーロックでは最初、すべての参加者が、ストライカーとして自らゴールすることを求めるように誘導された。しかし十分に話が進行する中で、やはり適正なポジションであったり、もっとも強力なプレイヤーたちとの力の差を自覚した上での役割分担が生じてきたりする。そこで彼らは歯噛みをして悔しがりながらも、それらを受け入れ、団結して勝利を目指すようになる。

 ブルーロックの世界のように、それぞれの「エゴ」の主張を認めた上でのルールの設定や役割分担は、なかなかその内容を決まらず効率が悪い。しかし一旦それが現実の試練の中で決定し受け入れられれば、強烈な個性を持つキャラクターたちを真の意味でまとめる力となる。ブルーロックで怒りや攻撃性の直接的な表現が認められていると言っても、それはあくまでというサッカーというスポーツのルールの範囲内でという前提があることに、改めて注意を促しておきたい。

 一方で、エゴを主張することを認めず、親や教師からの「期待」に沿ってルールや役割分担を受け入れることを続けて来た人々はどうなるだろうか。異論が少ないので効率よく短期間でまとめることができる。確かに、平穏な想定内の出来事しか起きない世界ならばそれでも良いかもしれない。しかし、そういうメンバーたちで作られた集団は、厳しい現実に直面した時に容易にまとまりを失い、その場から撤退することを選ぶかもしれない。集団をきちんと成り立たせることを真剣に考えた場合にも、「個人」のエゴが強くしっかりとしていることが重要になってくるのだ。

 個人と集団の関係は単純ではない。個人の利益や成功を追求しようと真剣に目指すならば、そこに必ず他者の理解と協力が必要になる。その意味で、エゴを否定して他者からの期待に応えることを理想化するナルシシズムを克服し、エゴを十分に育てて発揮する姿を描くブルーロックが、現在の日本社会で支持されていることには、倫理的な意味と価値がある。


ブルーロックはただのサッカーマンガを超えた存在として現代社会に強烈なメッセージを投げかけている。本作を通じて示されているのは「エゴの確立」と「ナルシシズムの超克」であり、これは現代日本における深刻な倫理的課題への一つの回答である。個人が自己の欲望や目標を明確に持ち、それを実現するために現実と直面する過程は、社会の中で自我を確立し、より強固な自己を構築する上で不可欠なものだ。『ブルーロック』は、この過程を通じて、個人が社会とどのように関わり、互いに影響を与え合うべきか、そしてどのようにして共通の目標に向かって協力していけるかということを私たちに問うている。

ブルーロックは、表面的には他者への思いやりを否定しているように見えるだろう。しかしブルーロックは逆に告発する。他者の自我を押さえつけて、周囲の期待に従うだけの人間を称賛し、そこにナルシシズムの満足を与えるような集団運営のあり方の方が非倫理的で、非現実的なことを。都合のよい期待を押し付けてそれに従わせることは、一つの支配だと強く批判される。ブルーロックでは逆に、エゴイズムを追求した結果として、チームとしての団結や役割分担の価値が明瞭になる。ここに立ち現れるのは表面的ではない形での、他者への配慮や共感の大切さである。逆説的だが、ここには現代社会における一面的な個人主義を乗り越える可能性がある。

さらにブルーロックは、失敗や敗北から学ぶことの大切さを強調し、それを通じてより強く、柔軟で、適応能力の高い個人が形成される過程を描いている。この過程で、個人と集団の葛藤は、次第に高い水準で統合される。この作品は現実に挑戦する若者たちに、敗北を恐れずに前進し続ける勇気とインスピレーションを与えている。

自己実現の追求と社会的責任の果たし方の間で、どのようにして最適なバランスを見つけ、それを生活の中で実践するかという問いは、現代社会に生きる多くの人にとって重要なものだ。ブルーロックを読むこと、考えることは、その答えを見つける手がかりを与える。私たちが自分自身と社会との関係を見直し、改善するために自分のエゴを発揮することを、ブルーロックの登場人物ならば、今この瞬間に行うことを求めてくるだろう。


 最後に余談であるが、『ブルーロック』はその主題にもかかわらず、ディテールに日本人の優しさや生真面目さ・繊細さが表れていると感じさせる描写が、ちょくちょくと現れる。まず主人公の名前が「潔世一」で、何かあったら切腹でもしそうな名前である。個性的な登場人物の中でも特に凶暴な印象が強い馬狼は、日常生活で非常に整理整頓の意識が高い。このシステムの仕掛け人である「絵心 甚八(えご じんぱち)」は、その名前に「エゴ」の音を含んでいるが、その当て字には「絵心」という詩的で可愛らしい文字が選ばれている。このような「愛らしさ」もあるのが、日本文化に対する隠れたレスペクトで、この作品の魅力の一部を構成している。

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