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改訂版:太陽を直視し続けて80日を過ぎて思ったこと

3ヶ月の太陽直視の

80日目で気がついた

「太陽直視の意味」

がわかったのですが


「そういうことか」
とわかって、

その気づきを、

報告用にいちど文章化したのですが、

その文章の前に、改定記事を挟む事にしました。

では、


どうして「改定記事を挟む事ことにしたのか」

を中心に書いておきたいと思います。

僕はヨーロッパに約15年・エジプトに約10年住んで
プロのオーケストラで
仕事させていただいていました。

その間、何度も聞いた言葉があります。


「日本人は技術は高いけど、音楽が面白くない」


そして、

ある時は「数少ない天才音楽家」
と認めざるを得ない音楽家の方が

おっしゃっていました。


若いころに、日本のプロの吹奏楽団で
指揮をしたことがあるけど

演奏者が皆、本当にベルリンフィルの奏者より上手い技術の奏者ばかりだったけど、

つまらない時間だった


ほかにも

N響は世界でもっとも技術が高く、
世界で一番退屈なオーケストラだった


そして、その「評価」は、

「うそ」でも「うわさ」ではなく


それなりの現実の「結果」を生み出しています


世界中のオーケストラファンが
楽しみにしていて
日本のオーケストラが引っ張りだこの

人気オーケストラですか?


ではありませんね。残念ながら。

これは、今世界で「日本製の機械」

が店頭から消えている現実と同じです。


「日本の技術はすばらしい」


だけど、売れないからおかない。


それが、なんだかんだいって「現実」です。


最初それは

「高い技術への「嫉妬かな?」


と思ったりもしていた時期がありましたが、


それは「違いました」

店頭から「日本製商品」が消えている問題は、
お客さんが求めている方向と違う方向・求めていない方向に進化し続けていってしまっている為

というのがありますが、

音楽に関してですが、

日本の「よい所」でもあるのに、結果

「評価されない・求められない」

のは、「事前に勉強しすぎる」、
そして、それが「分厚い常識」となって


「聞く人」を「退屈にさせている」のだ


と気がついたのです。(これもある意味求められていない方向ですね)


その理由の一端の「負の常識」が

日本における

「スコアを買って音源を聴いて勉強する」

などは、典型的でしょう。


ヨーロッパでは、オーケストラの一楽員は、
普通は「スコア」は誰も買いません。前もって音源も聴きません。


日本の「勉強して学んで知識(常識)」


という行為が、


「体験した結果、感じ取る感覚」

という思考のプロセスを凌駕してしまい


結果「日本のオケは、最高の技術なのに、
最高につまらない」


と感じ取られてしまうのです。


ですから、僕は

「楽譜」を演奏する前に

「絶対に音源を聞かない事」

を、強くお勧めいたします。


一度でも聞くと、
それが一流の団体や奏者の演奏であるなら

なおさら

その演奏が、そのように演奏すべき

「常識・固定観念・到達点」


となってしまい、

「クリエイティブ・感じ取る力」を奪ってしまうからです。


そして、これも同じ部類ですが

僕はたまに日本に帰ったときに、

いたるところで


「丁寧な言葉遣いで、丁寧な対応」
の多くに


「つまらなさ(人間味のなさ)」

いや、むしろ「気持ち悪さ」


を感じずにはいられませんでした。

最後に、

要するに「太陽の直視」も

「体験した結果、感じ取った感覚・思考」

が大切な要因になります、


おそらく、僕の感じ取ったものを

「前情報」として入れてしまうと、


「それを、答え(正解)として待つ」

だけの、つまらない行為

になってしまうだけでなく


ぼくと「違う気づき・感じとるもの」

を消し去ってしまう恐れ

もあります。


これは、

「学校の授業がつまらない」


のも似た要因かもしれません、


「どういう結果になるのかがわかっている実験」

ほど、つまらない実験・時間はありません。


「答えを知っている問題を解く」

「落ち」がわかっている笑い話を聞く」


という行為になりかねないので、
太陽直視からの

「80日目の気づき」

読まない事をお勧めしたいと思います。

太陽直視3ヶ月のその後のカリキュラムの「散歩」は、

80日目に思ったのは

この「80日目で気がついた気づき」が

3ヶ月太陽直視を続けても
気がつけなかった人のために

別の方法として

「散歩」

が、その次に設定されているのかな?

と思ったのですが、


次の日に

いや、

「さらに別の気づき」がある可能性がある


と思ったので、

自分のできる条件の範囲で
自分が続けられるようにアレンジして

試してみたいと思っています。

また、何かあったら
結果などを報告させていただきたいと思います。

長文失礼しました。

追記:

今日も830秒(約14分)太陽直視しましたが
今まで「目」に異常は一度も起こってません

そして、助言といたしましては
太陽直視するなら

日が暮れてしまって
「秒数が不足」するという事がないので、
見るなら「昇る朝日」をお勧めいたします。

改訂版記事終了。

この先は、それでも知りたい方だけでいいと思われます。


「太陽直視の80日目で気がついたこと」

僕は今日(2021年8月29日)まで「人間の赤ちゃん」は

「何も知らない」で「白紙のキャンパス」を持って生まれてきて、

色々な事を勉強・経験しながらそのキャンパスを埋めていく

というのが

「人生(人間)だ」

と思っていました。

「ですが、それは違うのではないか?」と、今朝思ったのです。

それは、複数の点が、自分の中で「つながった」という感じです。

「太陽の直視」を始めてみたきっかけ

それは「第3の目」を開眼させる」為の最初の工程だからです。

それを知ったのは「ウマヅラ」さんという有名なYouTuberさん達の「とある動画」を見たのがきっかけでした。その経緯やなんかは「太陽直視45日目」にいったんBlog記事にしてありますので、気になる方はそちらをご覧くださいませ。

一つ目の点:「子供の小ワニ(とかげ)」で思った点

僕は毎日早朝の2~3時頃に起きて活動を始めているのですが、今朝もおきて作業中に、最近よく視覚に入る家の中に多い4センチくらいの子供の「小ワニ(とかげ)」を見ていて、ふと思ったのですが、

彼らは、生まれて間もないのに、親の後ろを歩くではなく、何が「自分にとっての食べ物」で「どうやって取る」など、誰にも教えられないまま独りで狩をして生きていっているという「点=本能」が気になっていました。

※とり方は「親わに」さんから短期集中で教わってるかもしれませんけどね

2つ目の点:「鳩小屋の世話」をしていて思った点

もう1つの点として、前に書いた「鳩」の記事にも書いたのですが、鳩も、感心するくらいかなり「頭がいい」のです。あんなに小さな「頭」で。

※「鳩記事」の内容が気になる方はこちらです。

「子ワニ」も「鳩」も、DNAなどに潜在的に組み込まれてある本能で、「本能」は、勿論人間にもあるのは既に「常識」かもしれませんが、

今朝気がついたのは、その「常識」の範疇以上に

人間は、既にもっと「様々な知識」を頭の中に持って生まれてきているはずだ。

という確信(気付き)です。

最後の一点:「太陽を直視」していて思った事

そして、その「小ワニ」をみて思った後、毎朝昇る太陽を直視の時間が来たのですが、太陽直視をし始めて80日目になる今日は、毎日10秒づつ増えて増えてと「800秒(13分強)」の直視の日でした、

この太陽直視の工程の予定は「連続で3ヶ月」という事なので、あと10日ほどで終了し、その後に「散歩」という工程が待っているのですが、

その「散歩」の「工程」を前に「気がつきました」

「第3の目」を開眼させる為に、必要とされる

「3ヶ月毎日太陽の直視」や「2ヶ月裸足で2時間の散歩」などは、

ただの、きっかけのための「一例」に過ぎず、

「別にやることも、どれくらいの期間」などは別に何でもどうでもいい

ということに気がついたのです。

「何でもいい」というのは、それら「3ヶ月の太陽の直視」や「2ヶ月裸足で2時間の散歩」という工程は、結局

強制的に自分(自分の脳)と向き合う(自分の脳の中の既に備わって生まれてきている本能を直視する・本能と対話する)行為に

気づかせる為の「つり」

だったのです。

情報過多時代の今の人間というのは、

「五感(特に目・耳)」の使い方が、常に外部からの情報を受け取る行為に時間と頭をとられるうえに、

「情報」とは「外部」から教えてもらう・入手する

という固定観念に囚われ・縛られていて、

「自分の中に既にある」という事に気がついていない・気がつけないのが現代社会の人間です。

ですから、「自分と向き合いなさい」といっても、

向き合い方がわからないのですし、

向き合っている人が「学校の先生」などにいないから

(見て聞いて)教わること・習得することもできないのです。

だからは百聞は一見にしかずで

「強制的に向き合わせる・気がつかせる」為の例として

「3ヶ月太陽の直視」や「2ヶ月裸足で2時間の散歩」が、

それを続けれたなら、

自ずとそのうち気がつけるだろう

という為の、その行為自体に意味はない「例え事」だと気がついたのです。

簡単に言えば、「瞑想しろ」といわれても「瞑想の仕方」がわからない「無になれ」「何も考えるな」といわれても、よくわからないであろうから、

「必然的にそんな状態になる行為を執拗に続けさせ自ら気がつかせる行為」

です。

ですから、今日まで思っていた

赤ちゃんは白紙のキャンパスを持って生まれてきて、体験・勉強しながら、そのキャンパスを埋めていく」のが

「人」であり「人生」である

のではなく、

「そもそも人間は持って生まれてきてる脳の中に大量に既に情報がある」という事に気がつかせ、更に、どうアクセス(ドアを開ける、そっちを見る、そっちから情報を引き出す)する事が出来るか?」を考える

一種の「謎解き」

で、あったのだと気がついたのです。

そう、だから恐らく

巷で言う全世界の過去未来の全てが記録されているという「アカシックレコード」というのは、どこかにあるのではなく、その存在に気がついておらず、更にその扉を開ける方法(覗く方法)を知らないだけで

「自分の中に既にあるのではないか?」

と思い始めました。

太陽を直視し始めて80日目の今日、おそらく、これが

「第3の目の開眼とは?」という意味

の、ある種の「答え」を意味しているのだろうと思っています。

で、この「第3の目の開眼」の「意味」に気がつけただけの段階なので、

恐らく「次なる段階」は、

どんな方法(きっかけ)でもいいから、自分の「第3の目の扉が強制的に開いてしまう(本来持って生まれた情報にアクセスできてしまう)」

という「コントロールはできないけれど」という

「次の段階」に向けて、残りの太陽を直視(自分と強制的に向き合う)を続けながら「その状態というのは?」というのを考え(自分の脳から引き出し・自分の脳と対話する)

そして、その段階を得られたら、次に待っているのは、恐らく

「強制的な行為」なしで

「自らの意思で自由自在にその自分の中のアカシックレコード」にアクセスできるようになる

という段階だと思うので、そこに向かって頭を使って行きたいと思ってます。

これが、太陽直視の80日目の「気づき」と「思い」です。


また、何か「はっきりとした気付き」が見えましたら、

またお伝えしたいと思います。


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