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【古典】人生の 先生慕う 古都の民

 今から四半世紀以上も前、私が高校生の時分に配られた地図には、1200年以上も前のこの街の道路や施設等が示されているが、驚くのは、少なくとも道路に関しては現在と殆ど変わらない点である。そこで、大人になった今、このたった1枚の白黒印刷のプリントに、日頃出かけるスーパーやクリーニング店、内科や処方箋薬局なんかの場所を上から赤ペンで書き込んでみる。毎日通う会社の場所にも星印を付ける。まさに碁盤の目に「赤い石」を打つような作業である。すると、私の生活圏が――むろん自宅も含めて――かつて皇族や公家の生活圏だったことを、目から鱗が落ちるかの如く実感できる。
 大昔は、東洞院が「大路」であって、烏丸は「小路」だった。この頃の都人はそんな烏丸通の地下に鉄道が敷設されることになろうとは想像もしていなかっただろう。しかもこの地下鉄は一条大路より北まで向かい、九条大路よりも南まで向かう。南は平城京まで1本の線路で繋がっている。独り言を繰り返しながら、烏丸線と東西線の走る場所に赤いラインを引く。思い出したように毎月通う床屋や回転寿司の場所もマークする。暇つぶし半分で始めた作業が、途中から面白くなってきて、なかなか止められない。部分的に国道1号のルートにもなっている堀川まで「小路」だったことが信じられないが、西洞院「大路」は市バスも往来するほどの道である。比較的ウチの近所に「夕顔の宿」だったとされる場所があるが、源氏も二条院から50系統に乗れば、嘸かし便利だったに違いない。
 そう、この地図は「日本史」や「地理」の授業で配付されたものではない。「平安京平面図」と記されたタイトルの活字の右下には、国語教師に有るまじき読みにくい殴り書きで「源氏物語参考資料No.16」という文字が残っている。物語を読むにあたって、「大内裏の案内図面」と共に、いの一番で用意されてもおかしくない基礎知識的なこの地図ですら、すでに「No.16」に至っているわけだ。つまらない内容に膨大な資料が配られていた当時の光景がいちいち思い出され、私は途端にどんよりとした気持ちになり、赤ペンの手も止まる結末となった。
 
 源氏物語を崇拝し礼賛する信者は多い。紛れもなく文学的な価値が最上級の域に達していることは世評の通りであるが、高校生の私にはその良さが理解できなかったどころか、あまりにも授業が退屈だった為、源氏物語も、平安の都も、当面の間、極度に忌み嫌う契機となったのが「古典」という科目だった。まさか卒業して10年も経たないうちに京都へ引越し、その後、生涯をこの街で過ごすことになろうとは、神様は私という落ちこぼれの生徒を決して見捨ててはいなかったということだろうか。
 授業は、先生の現代語訳や長い解説を只管ノートに書き溜めるだけの酷な修行だった。たかが50分の授業が終わる頃には、右手が小刻みに震えていた程のメモ量だ。二学期を迎える季節にもなれば、勉強の意味や目的がさっぱり分からなくなってくる。「果たしてこんなにマニアックな探究の沼へ深入りしてまで読み解かなければならない物語なのだろうか」という疑問に阻まれて、挫折してしまうのだ。貴族社会の文化や人間模様に何とかフォーカスしようと努めても、総じて端的に言い切ってしまえば、私はこの物語というものを、物凄く上品に創作された「色男のセックス体験記」としか受け止められなくなってくる。女の子とキスをしたこともない童貞が、何を好き好んで、モテモテの男の欲情自慢を聞かされなければならないのか。そうやって、私は源氏物語も平安の都もキライになっていったのである。
 「野分の風が吹いて――ハイ、野分というのは『野を分けて激しく吹く秋風』の意である。『吹きとばす石は浅間の野分かな』という芭蕉の句などもある。急に肌寒い夕暮れの時分に、帝はいつもよりも亡き更衣のことを思い出されることが多くて、靫負命婦(ゆげひのみょうぶ)という方を更衣の里へお遣わしになった――ハイ、『靫負』というのは衛門府の官人である。すなわち『靫負命婦』とは、衛門府の長官の妻か女と云われる。近衛府・衛門府・兵衛府それぞれに左右があり、合わせてこれを六衛府という。『命婦』というのは内侍所の女官である。内勤担当の内命婦と外勤担当の外命婦がいる。夕月の美しい時分に命婦を宮中より出立させなされて、帝はそのまま月を眺めながら物思いに沈んでおられる――ハイ、夕月というのは十日前後の月のことで、宵のみ空にあって、やがて消えてしまう。」・・・古典の授業は終始こんな調子だった。原文は「野分立ちて、にはかに肌寒き夕暮のほど、常よりも思し出づること多くて、靫負命婦といふを遣はす。夕月夜のをかしきほどに出だし立てさせたまひて、やがて眺めおはします。」――この句読点を含んでたった80文字の二文を解説するだけでも、頻繁に話が立ち止まっては左右に動き、時には逆走したりもする。しかしながら、よくよく冷静に聴いてみれば、「風の強い夕方に亡き妻が偲ばれて、使者を出し、月を見たら感傷的になった」というだけの話だ。私の人生には何の影響もない事柄について、相当な時間と労力を費やしつつ分析する理由が分からない。
 これが、月曜の2限目、火曜の5限目、木曜の6限目と週に3回も1年中続くのだ。源氏物語は、第1帖の「桐壺」から第54帖の「夢浮橋」までを大きく三部に分けた構成だが、いつまでも更衣だの命婦だの同じ登場人物が舞台から捌けない故、「先生、今、桐壺から先の『何壺』くらいですか?」と問いたくなるが、1年かけて桐壺を読み込むというのが、この授業の目指すゴールだった。私は「現代文」も「漢文」も、そして中学までの「古文」も、国語系の科目はさほど苦手としていなかったのだが、この源氏物語のせいで「古典」だけは作品そのものまで避けて通るような大人になってしまった。何も源氏物語が悪いわけではない。授業が空虚だったものだから、作品の魅力に触れることの出来ないまま、“食わず嫌い”となった印象だ。でも、正直に言えば「徒然草」とか、1段ごとに読み切りで、退屈せず、毎回人生訓のような読後感を持ち帰ることのできる作品を選んでほしかった。とどのつまり、もともと私は源氏物語的な筋書きに興味を抱けないタイプの人間なのだ――それを理解できたという点においては、あの授業にも大いなる意義があったものと振り返る。上層階級に生まれドロドロの不倫劇や権力闘争を演じる毎日が幸せなのか、それとも下層階級に生まれ荘園でヘトヘトになるまで働いては搾取される毎日が幸せなのか、どちらの人生も「雅」ではなさそうだ。やはり「つれづれなるままに日暮ら」す現代日本の中層階級が私には最もフィットする。
 
 但し、1つだけ、この「古典」の授業に感謝していることがある。それは宮廷のあれこれを知る好機を与えてくれたことだ。1200年以上も前から、この国では年中行事の進行がイコール「政事」なのである。例えば元日の午前4時、天皇は清涼殿の東庭に出て、天地四方と山陵を拝し、年災を祓う。これが現在の世にも受け継がれている「四方拝」だ。例えば11月、中卯の日に天皇が新穀を神に捧げ、自ら食する儀式をする。これが「新嘗祭」であり、「勤労感謝の日」の由来である。古典をきっかけに、このような宮中の仕来りを学ぶにつれて、私は「国民のために祈るのが天皇の仕事」だと会得したのだった。
 源氏物語は平安時代の皇室をやや汚らしく描いているが、それもフィクションで、日本最古の長編小説の是非をあれこれ批評しても仕方ない。私は昭和年度最後の小学生で、平成年度最初の中学生。私にとって平成の30年間というものは、そのまま青春時代と称せる30年間だった。昭和天皇の「大喪の礼」のテレビ中継を視ながら、この国を守り続けた人の威厳というものを初めて知ったが、時代が平成に変わり、雲仙普賢岳の噴火の折、避難場所の1つだった体育館の床に膝をつき、目線を合わせて被災者を慰問される両陛下のご様子に、本当に現人神と呼ぶべき人の姿を見た。それ以来、生まれながらにして神様という宿命を背負った人間が一体どのような生活を送られているのか、興味を持ったのだ。
 週末に駅前のラーメン屋さんへ行きたいと望んでも叶わないどころか、その日の夕飯のメニューすら自由に決められない。那須や葉山の御用邸で静養なさるのは、ほんの僅かなひと時のみ。1年中多忙を極め、全国を飛び回り、お年寄りの健康を祈り、若者の活躍を祈り、子供の成長を祈られている。どの国のどんな賓客であっても、外交関係とは無関係に公明正大に接遇される。是みな国民の為である。貧乏から抜け出すという課題を抱えている以外は自由気ままだった平民中高生の私とは比べ物にならぬ重圧の中、国民に寄り添う「象徴」とは斯くあるべしという答えを陛下は見事に出された。畏れ多くも天皇皇后両陛下とは、私にとって「あなたもこんなふうに私利私欲を捨てて生きなさい」というお手本を示してくださる――それも説教や理論でなく行動と実践で示してくださる――「人生の先生」だったのだ。その大切な先生がご譲位のお気持ちを国民へお伝えになった。そして、平成最後に迎えられた85歳の誕生日の記者会見に、私は母を亡くした時と同じくらい大量の涙を流した。「象徴としての私の立場を受け入れ、支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝」――私は、嗚咽に曇るテレビ画面の向こう側へ「恐れながら、感謝すべきは私のほうであります。陛下の全身全霊の御公務に支えられて、何とか今日まで生きてこられました。」と申し上げ、肩を震わせていた。勿体なきお言葉を賜り、30年間の青春が平安の絵巻物を広げるが如く回想されるのだった。
 時代が令和となり、新しい“先生”がご即位されたが、この先生の立ち振る舞いにも深々と頭の下がる思いであり、無恥で、無智で、下劣この上なき私を常に𠮟咤激励なさる存在だ。国民である私が少しは真人間で居なければ、陛下に恥をかかせることになってしまう。なぜなら、陛下はこんな私をも含めた「日本国の象徴」なのだから。目に見える神様、限りなく人間に近い神様――両陛下とは私の人生の原動力であり、憲法第1条に謳う「日本国民統合の象徴」とは、実に適切にこの国の在り方を表現していると感じる。否、その逆である。両陛下自らが憲法の目指す世界観を体現されたのだ。こんなに立派な方々のご先祖が住んでいた街である。私が京都を再び愛するようになるのは必然だった。
 
 さて、私は辛口の鮭の切り身が食べたくなって、三条通商店街の魚屋さんまで自転車のペダルを漕ぐことにした。最近の店は何処もかしこも「甘口」や「中辛」ばかり。塩粒が表面に吹いているような鮭の奥妙たる味わいを忘れてしまうくらいなら、塩分の過剰摂取で寿命を縮めてしまったほうがまだマシだ。西洞院通を北上すれば、愛する切り身が待っている。私は源氏とおそらく同じルートを浮かれ気分で走っていた。愛する切り身は、1200年以上も前は神泉苑の南端だった場所で、塩を吹きながら、この私を待っている。面積こそ狭くしたものの、桓武天皇以来の由緒ある名苑は、今も法成就池が水鏡となり、移り行く季節の彩を映し続けている。
 そうだ、鮭と一緒に果物も購おう。ちょうど風が心地よく、葡萄の美味しい秋になっていた・・・つづく

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