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【日本史】いまは京 むかし鎌倉 しのぶ春

 「あなたはどんな場面でストレスを感じますか?さっ、あまり深く考えずに、思い付いた場面をお手元の用紙にお書きください。」と促されるまま、私は「ワガママを言われる場面」と書く。引き続き「それは、例えばどんな場面ですか?」との問いに対し、「私にとってどうでもいい無関係な話を長々と聞かされる場面」と書き、「もう少し具体的に書くと?」と言われ、「気付くや否や自分で解決したほうが早く済むくらいの瑣事にも拘らず、相手から『こういう問題に私は気付いた』という事だけを宣告され、こちら側に何らかの返答や対応を求められる場面」と用紙に綴った。「あなたが3回目に書いた詳しい場面は、それなりにご自身でも頷ける内容ではないでしょうか。それが現在のあなたの『ストレッサー』です。ストレスと上手に付き合うということは『自分』という人間をよく知ることです。」と先生が説明する。
 まさに図星だ。「ねえねえ、テーブルが汚れているんだけど」と私に向かって指摘するだけで、私よりも近くに雑巾が置いてある事実に気付いているのかいないのか、自らの手を動かして何とかしようとはせぬタイプの人間が、確かに私は苦手である。汚れを拭く程度の場面なら、まだマシだ。「なあなあ、近所で不自然な煙が立っているんだけど」と騒ぐだけ騒いでおきながら、状況を訊けば「えっ?消防車?誰が呼ぶの?」といった調子の人を相手にしていると、次第にペースが乱され、私の平安が崩されていくことを感じ、イライラとモヤモヤの中で血圧が上昇する。この心身の変化が「ストレス反応」というやつだ。
 これは私が一人っ子だからだろうか。自分で玩具を出し、自分で遊び、自分で片付ける。それが当たり前の環境で育った子供は、日常が個人競技である故、逆にチームプレーが不得意だとも評せる。テーブルの異変に気付く選手、雑巾を運ぶ選手、汚れを拭く選手、各々の役割分担と連携を徹底することによって組織の平安が保たれるといった見方も可能なわけで、何でも一人で完結したら良いとも限らない。おまけに両親も他界した独身中年の私は一人暮らしだ。倒れたら自分で救急車を呼ばねばならない一匹狼は、誰かに助けを求める生き方の術を殆ど忘れてしまった。
 一方「お互いに出来る事をやって協力する」って他人は簡単に謂うけれど、現実に夫婦の話を聴いていると大変そうだ。雨が降りそうだから洗濯物を取り込んだのに、妻からは「どうせ取り込んだのなら、ついでに畳むくらいはしておいてよ」と文句を言われた。早速、次の機会には畳んだが、今度は「畳み方が違う」と詰られた。結局、二人で大喧嘩の末、洗濯は妻、掃除が夫ということに決した。会社でどんなに偉い肩書があろうとも、男のこんな話は枚挙に遑が無い。「せめて『ありがとう』くらい言ってほしかった」と愚痴るけれど、その当人が会社では部下に感謝の意を伝えられないのだから皮肉なものである。主従関係のみならず、家庭であっても何処であっても、世の中は“御恩”あればこその“奉公”ではないか。
 
 「だいたい『幕府』って、どうして『幕府』って謂うのか、気になったこと無~い?私、調べてみたのよ、高校生のときにね。そしたらね、アレ、陣幕のことだったの。」「ジンマクって、陣幕親方の?千代の富士の?」「そうそう、戦場で立派な甲冑姿の大将が床几か何かに腰掛けて陣を構えているでしょ。あの周りを囲んでいる定紋の入った幕のことなの。」「ああ、大河ドラマで、最前線から息を切らして戻ってきた下っ端が『申し上げます!』って跪くシーンなんかで、張り巡らされた、あの幕?」「そうそう、あの『幕』に、役所みたいな意味の『府』を付けて、武家政権って意味を指すようになったってことらしいの。でも、幕府って用語を使うようになったのは後付けで、鎌倉時代当時に『源と北条の政権』を『鎌倉幕府』って呼ぶ人は居なかったみたい。」「ええっ!マジ?凄いなあ。いつも驚かされるけど、ホントに知識が豊富だなあ。」「いや、これくらいまでは、幕府って意味を辞書で引いて、大きな図書館のレファレンスに相談したら、結構ちゃんと調べられるのよ。」「でもさあ、それじゃあ、当時の京都の人達は鎌倉幕府のことを何って呼んでたんだろう?」「それがよく分からないのよ。けど、普通に『関東』って呼んでいたんじゃないかって話よ。」「関東って、随分ざっくりしているなあ。それとさあ、鎌倉と江戸は解るけど、室町幕府の『室町』って何よ?あっ、待って、これくらいはたぶん広辞苑で解るレベルなんでしょ。家に帰ったら自分で調べてみるよ。」――二人は暫く歩き続ける。
 でも、数分も経たぬうちに、再び「室町」が気になって仕方ない私。「自分で調べるけど、答えを知っているのかどうか、それだけは教えて。」と尋ね、黒縁の丸メガネの奥にある彼女の瞳を覗き込むと、春代は来迎寺の如意輪観音の如き穏やかな微笑みで頷いた。忽ちにして、私の心の陣地は彼女の幕の下に全てを占領され、私は抗うまでも無く彼女に全面降伏し、完全に自由を奪われてしまっている。この敗北感がたまらない。鶴岡八幡宮の東側、頼朝の墓を少し北上し、鎌倉で最も美しいと称される仏像を拝す。牡丹に射す陽の眩しき中、隣で一緒に古都を散策する春代もまた眩しい。この眩し過ぎる女神の操り人形で居られる時間は、私にとってこの上なく心地良いものだった。
 やがて、数か月後に私は彼女にフラれると、数年後に京都へ転勤となる。足利将軍家の邸宅「花の御所」があったという上京区「室町」通今出川上ルから、室町通を下ルこと下京区まで達した辺りに住み続け、いつの間にかご近所さんと親しくなる程に達した。なお、21世紀となった今でも、京都生まれの彼らは、鎌倉も江戸も引っ括めて「関東」と呼んでいる。
 
 二人は若宮大路の人混みを避け、北側の山歩きに興じ、見晴らしが良くなった所で休憩した。「夏の青空の下、河原で飲むビールが最高!」だなんて、元来コマーシャルというのはいい加減なものである。外で飲むビールは確かにうまいことにはうまいのだが、夏は暑すぎる。やはり今日のような初夏の薫りを仄かに感じる春暖に、やや涼しさの残る野山に入り、軽く汗ばむくらいに歩いてから飲むビールの一口目、こういう雰囲気が贅沢で気持ちいい。酔いか日焼けか、至福を共有する女神が横で頬を赤らめていれば、この贅沢、尚更のことである。海の方まで街を見渡せるが、視界に広がる観光地の賑やかさとは相反し、耳元を刺激するのは小鳥の囀りや子供の遊び声であった。
 アルコールというのは、恋と混ざれば、ごく少量でも人を開放的にする。甘い香りを放つ春代にふと私は「愛している」と囁いていたが、すぐさま気恥ずかしさに話題を変えた。「それにしても、どうして鎌倉だったんだろうね。京都じゃなくってさあ。」「そりゃ、京都へ行こうって目標感はあったと思うよ。」「なんか新幹線のコマーシャルみたいだな。」「でも、引き止められてしまったんだから、仕方ないわよね。」「えっ!?引き止められたの?誰に?」「日本史の授業で習わなかった?富士川の戦いの後よ。平家の軍を追撃しながら上洛しようとしたら、東国武士に説得されちゃったのよ。彼らにしてみりゃ、東国の所領とか地位とかを守りたいじゃない。東国の政権なら、京都の貴族社会とか古い慣例に縛られる心配も無さそうだし。尤もその為に頼朝って神輿を担いでいるようなもんだもん。頼朝にしてみても、そんな彼らの兵力に裏切られちゃ困るでしょ。あれこれ思惑が交錯した結果、まあお父さんも住んでいたし、親戚の縁も深い鎌倉を本拠地にするかっていう自然な流れに展開したんだって。そんな風に私は高校の先生から聴いたわ。」「でも、三方を山に囲まれて、南に海が開けていることが、敵から攻められ難い天然の要害として好都合だったから、頼朝は鎌倉を選んだみたいな話じゃないの?」「私も中学の歴史の授業ではそう教えてもらったわ。でも、三方が山なら京都も同じ地形じゃない。天皇の権威も近いし、だいいち都会だし、どうして京都を自分の政治の舞台にするって考え方を捨てたのかしら?って、あなたと同じ疑問を抱いたわけ。ねえ、頼朝もいいけどさあ、さっきの台詞、もう一度言ってヨ、ねえ。誰を愛しているの?しっかり私の眼を見て言いなさい。」――私はこの女神に全てを見透かされている。何もかも丸裸だ。春代の奴隷であることに生き甲斐を感じていることも全部お見通し。その眼が女王様のように官能的で寛大な愛に満ちあふれている。
 
 京都へ引っ越す荷造りの最中――即ち春代と別れた後になって――もはや収納した経緯すら記憶に無いカラーケースから、高校時分のノートやら教科書がどっさり出てきた。その中に日本史のテスト用紙が紛れているではないか。春代への未練を断ち切れなかった訳でもないけれど、こうなると「答え合わせ」をしたくなるのが人情というものである。
 黄ばんだ紙を広げてみると、びっしりと細かい鉛筆の文字が刻まれていたが、出題がまだ平安時代のようである。これが中間。おそらく一学期ではないか。さすれば、期末が鎌倉時代か。きっと二学期の中間で室町から戦国、期末で江戸、三学期で文明開化といったペースに違いないと勝手に逆算し、疑いの余地なく「一学期の期末テスト」のプリントを必死で探す。思わぬ邪魔で部屋の片付けは一向に捗らなかったが、お目当ての答案には辿り着いた。答案の中身は忘却の彼方だが、試験形式は鮮明に覚えている。あの厳しい日本史の先生らしく、全てが記述。選択式の設問など1つとして無い。
 
 「<問題1>平氏政権の特質と弱点、また経済活動について述べよ。」
 「<答案1>平氏政権の特質については、①清盛の娘・徳子を高倉天皇と結婚させ安徳を生ませた外戚政策や高位高官の独占といった貴族的側面、②軍事的独裁であり、西国を中心に中小の武士団の長を家人化し地頭に任命する武士的側面の両方が見られる。しかし、武士統制の機関も無く、強力な軍事力を持つ関東の武士団を組織できないのは致命的であった。また、独立政権ではなく朝廷の政治機構に依存していた不安定なところが弱点だった。
 平氏政権の経済活動については、知行国三十余国・荘園500ヶ所に基盤を持ち、また、音戸の瀬戸開削・大輸田泊(神戸港)修築を行い、宋の商船を直接畿内へ入れると、宋銭を輸入し、現在の日銀のような役割を果たした。」――この<答案1>は1点減点。急いで筆を走らせる中、手元を脳が追い抜いてしまったのだろう。「宋銭を『輸』入」と書く三十字前で「大『輪』田泊」を「大『輸』田泊」と書き間違えている。すっかり関西人となった今となっては信じ難い凡ミスだ。
 「<問題2>頼朝のもとに東国武士が集結した背景、頼朝が関東の支配者となった経緯について述べよ。」
 「<答案2>京に支配されている立場の東国武士は、独立した東国政権樹立を欲していたが、互いの抗争により団結が困難な状況であった。そこに武士の棟梁であり源氏の嫡男である頼朝が伊豆に遠流となって登場したため、彼を象徴に東国武士の結集が実現した。
 頼朝は東国武士の軍事力を得たことで平氏対抗の構えを見せ、富士川の戦では平維盛軍を戦わずして破る。ここで頼朝は上京(京都へ上ること)を欲するが、頼朝が朝廷政治に参与し、武士の利害を代表する立場から離脱することを恐れた東国武士に止められて断念する。結果、関東の安定を優先する東国武士の主張が尊重され、三浦一族の和田義盛を別当とする侍所(武士統制機関)が設置されると、関東一帯の武士は鎌倉へ参集し、本領安堵や新恩給与を受ける。これで事実上、頼朝は関東の支配者として独立権力を有していることを世に示す形となった。」――この<答案2>は満点を獲得できているので、私の書いた答案に誤りはないということになる。よって、春代が高校で習った内容は、私が高校で習った内容と合致していたということだ。鎌倉デートの前にこの黄ばんだ紙と再会し、これらの知識が甦っていたならば、あの博学篤志の才女ともう少し味のある会話が楽しめたのかもしれない。
 鎌倉幕府はチームワークを重んじるも、否、重んじるが故、管理監督の在り方が常に問われた政権だったと改めて知る。少なくとも、テーブルの異変に気付く選手、雑巾を運ぶ選手、汚れを拭く選手、各々の役割分担と連携を徹底することによって組織の平安が保たれるといった価値観は通用しない個性派集団だったから、頼朝にしても北条にしても、時として恐怖と脅威をちらつかせる統制が不可欠だったのかもしれない。
 
 私は会社の研修の一環で、臨床心理士による講義を受けていたのだった。企業社会にも「メンタルヘルス」というコトバが浸透しはじめた頃だった。「はい、次の質問です。ストレスを感じたとき、あなたは何をしていますか?例えば、仕事場で緊張する場面の前にしている工夫はありますか?人間関係で嫌なことがあったときにしている工夫はありますか?お手元の用紙に思い当たるものを3つくらい書いてみましょう。」と促されるまま、私は「神社にお祈りをする」「テレビを視る」「酒を呑む」と書く。比較的すらすらと書いてみたものの、私自身が「自らの心の汚れに気付きながら、雑巾を使って拭くような解決策を何ら講じていない」という事実に向き合い、己を嘲る結果となった。だが、先生に謂わせると、リラックスすれば何でも良いそうだ。但し、テレビや酒は興奮の材料とも成り兼ねないため、やはり「丹田呼吸法」や「漸進性弛緩法」や「自律訓練法」といった“定番”は身に付けておきたいとのことである。
 「そして、人は人との関係で傷付きますが、人との関係で癒されもします。そこで最後の質問です。あなたにとって、心がほっとする、元気になれる一言は?」と問われた私は「こういう事はあなたにしか出来ない。こういう事が出来るのはさすがあなただ。」と書いた。鯔の詰まり「自分の役割」たる何かを欲しているのだろう。チームプレーが不得意だろうと、人は一人では生きられない。個人競技で勝負しようとも、一人では試合が成立しない。
 「人を活き活きとさせることの出来る人間であるためにも、まず自分が活き活きと暮らしましょう。例えば、基本的生活習慣を整えるために『御飯が美味しいと感じられるかどうか』は重要です。『人』に『良』いものと書いて『食』という字になりますね。毎日の食が楽しければ、よく眠れますし、喜びに満ちた生活にも通じていきます。人間の細胞は何十兆個もあると推定され、1つひとつに遺伝子が書き込まれていますが、凡人はこの5%程度しか使えていないという研究があります。あのアインシュタインでも15%程度だったとか。しかし、如何なる人でも遺伝子が活性化される場面の1つが『楽しいとき』だと云うのです。自分の居場所と役割を大切にし、肯定的な目標を持ちましょう。『○○しない』という否定的なものは目標になりません。『禁煙ほど簡単な目標は無い。私は過去に何百回も禁煙している』とマーク・トウェインは言っています。」と先生は結んだ。
 この講義から15年、鎌倉からは早や四半世紀が過ぎようとしているが、私の目標って一体何なのだろう。特段のストレスも無く、リラックスしていようが、それは遺伝子活性の条件が備わっているだけに過ぎず、実際に活性化させるためには「目標」が必要なのだ。予想通りではあるが、目標も無く働いていることが、私の人生に今ひとつ潤いの欠けている根源的要因なのだ。思えば、四半世紀前は春代と手を繋ぎながら「早起きしたのが良かったけど、鎌倉までは近いな。この勢いで来月には伊豆長岡まで行っちゃうか!」「北条の故郷ね!特急に乗らなくても三時間も掛からないわ。ねえ、温泉入ろっ!」といった具合で、互いに肯定的かつ短期的に実現可能な楽しい目標ばかりを立てていた・・・つづく

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