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【遠足】持ち物は 彼女にメガネ 鮎に塩

 これほどまでに清々しい風を感じたことがあるだろうか。別に体を動かしたというわけでもないのに疲れ切った私の前をさっぱりと通り抜けていく。疲れの理由は明らかだ。これほどまでに空漠たる講座を受けたことがあるだろうか。私は社命で関西企業の法務担当者の月例会に出席していたのだが、この日の金融商品取引法に関するセミナーが、とても金を払ってまで耳を傾けるに値するものではなかったのだ。こればかりは「学生」側の責ではない。分かりにくいとかいう次元を超越し、まるで「口不調法」という法律を解説しているかのようである。講師は証券会社の敏腕経営者とあって、いつも以上に大勢の「学生」が集まっていたのだが、説得力が売りの証券マンがわざとこれを演じているとすれば、逆に天才だ。
 そう、私の感じていた清々しい風というのは、大学時代に感じていた風を鮮明に思い出させるものだったのだ。あまりにもつまらない講義に1時間半も耐えてしまうと、別に体を動かしたというわけでもないのに、次に控えている面白い講義を受ける気持ちすら失せるほど疲れ切ってしまうものであり、そんな私の前をさっぱりと通り抜けていくあの風と同じ匂いがしたのである。「ああ、大学の講義って半分以上は『人に何かを伝えよう』という意思が微塵もない研究者の独り言なんだ」と知った時のあの初夏の風が、卒業して何年も経った私に再び吹いている。私はあの10分ばかりの休憩時間に「ああ、きっとサラリーマンになっても、半分以上は『人に何かを伝えよう』という意思が微塵もない経営者の独り言を聞かされることになるんだ」と覚悟したものだが、その予想が見事に的中したのであった。
 この講師、「学生」達の大欠伸にお気づきになったのだろうか、終盤になってインサイダー取引の話題から急に特異な持論を展開し始める。「証券マンの仕事の半分は予想です。為替の予想、政策の予想、そして潰れる会社の予想。伸びる会社の予想は極めて困難ですが、潰れる会社は的中する確率がまだ比較的高いです。私が用いているのは『裸の王様の法則』です。ここに現場第一主義を掲げる経営者がいたとします。しかし、実際には現場からの意見に1つひとつ反論をします。本人は侃侃諤諤の中から良案が生まれるといったつもりなのでしょうが、偉い人のダメ出しが続くと、結局のところ現場は閉口してしまいます。周囲を黙らせてしまった責は自らにあるというのに、『どうした?さっきから私ばかりがアイディアを出しているじゃないですか。私はもっと皆さんの生の声を大切にしたいのです。何か前向きな提案は無いのですか?』と問う矛盾、決裁権を手元に握ったまま、現場に見解を委ねることもなく『あなた達は自分の考えを述べずに、何でも私の判断ということで私に責任を持たせるのですね』と迫ってくる矛盾、そういった矛盾が組織を徐々に疲弊させます。現場が当初つくりたかった商品やサービスが、いつの間にかお客様ではなく経営者の趣味に合う商品やサービスに変身して発売される。現場第一主義の皮肉です。こういう会社では、本当に前向きな提案が出来る人材ほど逃げていきます。」・・・では、どうすればいいのか?その解答については一切語られることのないまま、講座は終幕した。このような胃もたれの残るエンディングもまた大学時代を鮮明に思い出させるものだったのだ。
 
 あれは商法の特講だった。私が大学生の頃には「会社法」が無かったので、明治以来の難解な商法を現代風に訳するような講義が法学部の常識だったが、この先生も終盤になってM&Aの話題から急に特異な持論を展開し始める。「他社から目を付けられるような会社というのは、それ自体は危機のようで、実は他社が買収したくなるような魅力のある会社だということです。ただ『この会社なら買収できる』とナメられているのも事実です。何がナメられているのかというと、組織の脆弱性です。その会社の有している技術力や開発力、即ち社員の潜在能力はそれなりに高いのに、その力を市場に活かす現場の自由度が低いといったような脆弱性ですね。そのような閉塞感が社内にありますと、いざ超有名な外資系企業や国内の巨大企業が自分たちの会社を買おうとしている情報が流れた途端、社員の間に『ああ、あの会社の傘下に入るなら安心だ。これでクビがつながった。』という誤解が蔓延し、こうなるともう社長や労働組合の委員長が何を言っても聞く耳を持てません。内戦状態の国ほど他国から介入されやすい環境はありません。そして、実際に社員の希望通りに新しい社名が決まり、新しい親会社の社長が訓示を述べると、社員の想像とは打って変わって『食われたほう』となった自分たちがリストラの対象となるわけですね。しかし、リストラの対象となるのは、買収に賛成だったにもかかわらず、フタを開けた後になって『こんなはずじゃなかった』と騒ぎ立てるような人達です。どんな会社にも必ずタフな社員というのが居ます。『買収されようが、されまいが、私の人生には関係ない。転職だろうと、クビだろうと、それまではこの会社の仕事で給料を貰うだけ。』といった、動じないというか、腹の括り方の違う人ほど、新しい会社でも不思議とクビにはなりません。どんな環境だろうと、どんな仕事だろうと、淡々としている社員ほど、何だかんだと生き残り続けます。仕事が決まらない人というのは、決まらないのではなく、選んでいるだけなんですね。そういう人は転職先が決まったところで、新しい会社でも定位置が決まらずにクビになる。それを繰り返す危険性を秘めています。」・・・では、就職活動で組織の脆弱な閉塞感を帯びた会社を見極めるにはどうすればいいのか?その解答については一切語られることのないまま、講義は終幕した。
 どんな講義でも大真面目に聴く勉強大好きの春代が、隣で珍しく大欠伸しながら「たまには外に出ない?」と誘ってきた。行き先は、歌舞伎町の同伴喫茶ではなく、もう1つの二人のお気に入りの場所だ。田舎育ちの春代が「私の実家よりも田舎だわ」と微笑んだ、埼玉県の北部から群馬県の南部に差し掛かっての、だだっ広い草叢である。「よく田舎の人って、自分たちの故郷を『何もないところ』って言うけど、あれは謙遜でもあるし、自尊でもあるのよ。でもね、ホントに何もない田舎って、探してみたって、そうそう無いものよ。いくら田舎だって言ってもね、田んぼもあるし、畑もあるし、農家は建ってるし、どこか近くには山が見えているし、川が流れてるものよ。景色に変化があるの。こんなに広い範囲で草がボーボー生えてるだけで、360度、何も見えない場所って珍しいのよ。だから貴重なの。私、こういう場所、大好き。関東平野の広さを感じるう!」・・・河川も堤防も無い“果てしない河川敷”のような場所で二人寝そべり、ひたすらペッティングに興じる。
 私の首筋を愛撫しながら、春代が耳元で囁き続ける。「仕事が決まらない人というのは、決まらないのではなく、選んでいるだけなんですね。って、教授の話、私、ドキッとしたな。『あの会社に就職しておけば幸せだったはずだ』とか、『あの部署に配属になったときに頑張っていれば昇格できたはずだ』とか、そういう思考回路って『学生のときにもっと勉強しておけば良かった』っていう、土台成立しない話と同じことでしょ。そういう後悔をする人が大学時代に戻ったとしても、同じことを繰り返すだけよ。たぶん勉強なんてしないわ。それにね、そりゃ勉強が出来るに越したことないけど、物事の本質を知るっていうか、本質を知ったという心境だけでもいいから、そのほうが勉強自体よりももっと大事だと思うの。だからね、『勉強しておけば良かった』って後悔が無意味だと分かっている人って、たとえ勉強が出来ないとしても、人生の本質が分かっているだけマシだと思わない?きっと、そういう人なんでしょうね、リストラされない人って。」・・・この幸せな草叢の時間の半年後、私は彼女から「クビ」を宣告された。おそらく二人が愛し合うことの本質が私には分かっていなかったのだろう。
 
 サラリーマンになり、春代と別れて何年も経った私は、証券会社の敏腕経営者によるセミナーのあまりのつまらなさに退屈し、少しでも楽しい計画で脳ミソを満たそうと、今夜の夕食を何にしようか考えていた。別件で出張中の課長と合流する予定だったが、駅前の居酒屋で「鮎の塩焼き」に「冷酒」といくか、商店街の町中華で「豚天の空心菜炒め」に「紹興酒」といくか、暫しの優柔不断を楽しむ。鮎も、空心菜も、初夏が旬だ。
 そういえば、長野に住んでいた頃は土日でも先輩と駅前へ飲みに出かけていた。あの「なめろう」の旨い店は何という名前だったかなあ。禿げ頭のおやっさんが、根っからの信州人なのに、やたらと江戸っ子口調で――。尤も偏に信州人といっても、まさに県歌の通り「信濃の国は十州に 境連ぬる国にして・・・松本 伊那 佐久 善光寺 四つの平」で文化も言葉も異なるのだから、食の追憶はなめろうだけでない。しかも、なめろうの発祥は房総らしい。それでも、季節の魚を絶妙な信州味噌のチョイスで全て美味なる酒の肴に仕上げてしまうあのインパクトが「長野=なめろう」というイメージを私の脳裏に焼き付けた。だが、店の名前だけが思い出せない。あれほど頻繁に通っていた赤提灯の屋号まで忘れてしまうような人間が、煩雑な法律の手続きや用語を覚えられるわけがない。その悟りに達しただけでも御経のように単調なセミナーを受けた価値はあったのかもしれない。
 この日は結局、課長とのジャンケンで「鮎の塩焼き」のほうに決した。まるで泳いでいるかのように見せるため、尾にたっぷりと振られた化粧塩を「化粧」と言いながら少し解して口に運ぶ。これが伏見の女酒と溶け合うとき、金融商品取引法なんてどうでもよくなる。安い大衆酒場なのに、ちょっとした中庭なんかが設えてあって、杉玉に擬えた吊り忍が冷酒の味を一層引き立てる。課長の受けた政治家の講演会も相当につまらないものだったそうで、それも酒のつまみに加わった。
 「口下手な政治家もおるんやな。もう何十年も色んな国がアフリカを巨額で援助しとんのに、ず~っと、レイプやら児童婚やら少女の出産と病気やら、子供が多過ぎて食糧不足やら貧困やら、一向に止まらへんやろ。おっさん、もともと外務省出身でな、その原因をな、一生懸命に解説してくれてんねんけど、これが一向に分っからへんねや。カネを使うて助けても、間に巣くっとる政府機関やらを救っとるだけで、次世代の貧困を助長しとるだけやねんて、せめてそないな話くらいは期待しとったんやけどな。その解答については一切語られることのないまま、講演会は終幕しました、チャンチャン。会社の付き合いでしゃあなく後援会の年会費支払うてやで、しょうもない講演会に出てやで、あんたとこうして晩酌するくらいのご褒美でもないと、やってられんわ。」
 
 そんな課長の愚痴に頷きながら、私は春代とのセックスに必ずコンドームを使用していたという当たり前のことと、アフリカではコンドームの使用が当たり前でないことと、双方の事実に思いを巡らせていた。私は生涯に一度たりともペニスを在りのままの姿で挿入する経験を持たないまま、おそらく死んでいく。つまり厳密な性交体験の定義から言えば、私は童貞のまま、その生涯を終える。一方で、避妊具を買う余裕もないまま沢山の飢餓児を残す人が世界には絶えない。どちらが人間らしい生き方なのだろう。
 苦しいとか楽しいとかは別の話として、人間らしいか否かで問えば、答えを出すのはとても容易ではない。性教育の普及や性犯罪の抑制といった課題があるにせよ、子孫繁栄を重んじる文化それ自体は、アフリカのほうが先進国よりもずっと人間らしい。逆に、あえて子孫繫栄にブレーキをかける先進国の文明こそ「動物とは異なる人間らしさ」の証と呼べるのかもしれない。どちらが人間らしいのか答えを出せない以上、このまま根本的な解決に繋がらない援助、謂わばゴム栓のない浴槽に湯を注ぎ続けるような援助を半永久的に続けることが、敢えて人間らしさを維持するためには最適解なのかもしれない。そこら辺の難解なテーマに明快な政策で立ち向かうのが政治家のお仕事だというのに、いちいち「政府、国際世論を踏まえ、ODA増額を検討」などという記事に胸を張っている場合ではないのだ。
 
 私にゴムを丁寧に装着すると、いつも通り黒縁の丸メガネをゆっくりと外す春代。激しく密接な営みを終えると、再びメガネを装着し、私からゴムを外し、そのあとのペニスを優しく口に含む。私はこの女神のような行為に膝から崩れ落ち、彼女の全てに屈伏する。薄暗い同伴喫茶を出ると、歌舞伎町のネオンが眩しい。その光の変化の如く神から人へ戻った才女は、その人間らしさを露わにする。「あなたくらい分かりやすく愛の答えを示してくれるのがいいわ。子供の頃から政治の世界って、分かりにくくってどうも馴染めなかった。」・・・つづく

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