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映画・ドラマ 感想「37セカンズ」

「どこに行けばいいですかね?」「そんなのあなた次第よ」

心の自由を表出すること

脳性麻痺の夢馬(ユマ)は、友人の漫画のゴーストライターをしながら母と暮らしている。穏やかで愛らしい表情を持つユマ。特にクシャッと笑った時の表情と声の可愛いさといったら!でも、観ている内にこの愛らしさや穏やかで丁寧な口調は、ユマが誰かの力を頻繁に借りる必要があるからこそ無意識に身についたものかもしれないと感じた。「可愛くて好ましいものを良きものとして捉えてしまう私達の価値観こそ問題?」と何気ない部分で突きつけられてしまった。

友人から正当な賃金は支払われず、表に出ることも許されない。対等な立場であるべきなのに、友人がユマを軽んじている様子が透けて見える。夜の世界に勇気を出して飛び込み、相手のヒデ君(奥野瑛太さん、マッチョなチャラ感最高!)に二千円という微妙な金額を値引きされることも同じ。この二人に対してもユマはとても丁寧に対応している。それでも「自分の方が上」という言葉には出さずとも健常者が優位に立とうとする姿が見え隠れする。

物語の中である人が「障害があると知って怖かった」と話した。人は自分と違う存在(肌の色が異なったり、障がいがあったりなかったり)は怖いのだろうか。多分「どう接してよいかわからない」という戸惑いが裏にあるのだろう。いざとなったら私も同じかもしれない。何も感じていないように振る舞うか、過剰に親切にしてしまうか。

でもそんなことユマは望んでいないし、不安に感じていることは皆と同じだ。「いつか私も好きな人と結ばれたいけど、そんなの本当にかなうのかな」と悩んだり「宇宙人から見たら私の人生なんて夏休みの課題みたいなもの」と自分の人生の他愛なさを嘆きつつユーモアにしたり。

ユマは色々な人に出会い、新たな世界に飛び込み、抑え込んでいた意思を表出し行動していく。この作品は、脳性麻痺のユマが主人公だから響くのではなく、非常に普遍的な成長と自立の物語でありつつ、観賞する私達もユマを通じて新たな視点が広がることがとても大きいのだと思う。

ユマのイマジネーションは漫画やイラストから具現化して自由に動き回る。それらの描写とエンディングを含め、作品全体に湿った落とし込みが全くなく、23歳の女性の心の自由をポップに描いていたのがとても良かった。

子育てと子離れ

最初に母がユマと風呂に入るシーンがある。服の脱がせ方、身体を洗う様子、湯船に一緒につかる姿で「この親子は今までこうやって過ごしてきたんだな」ということがよくわかる。

髪を切りたくないとユマが訴えても次のシーンでは切られていたり、ワンピースを着たいと言っても否定される。「何かあった時に心配」という気持ちは痛いほどわかるし、健常者の母親に引け目を感じている様子なども胸が痛い。障がいのあるユマを守り育てることがどれだけ大変なことだったか。けれど、ユマが小学生のように管理される様子は痛々しくもあり、障がいの有無に関わらず親が子供を信じて見守るということを考えさせられた。

「子離れ」というけれど、ある日突然、親が子から離れられるわけがない。連続的な日々の中で子どもの変化や成長を目の当たりにしながら、少しずつ手を離し、目を離し、見守ることが理想なのだろう。でも、それがいかに難しいか!家庭に夫の影はなく、母は家庭内で出来る仕事をやり繰りしながら心血注いでユマを支えてきた。そのユマが成長していく姿を葛藤しながら受け止める母の成長物語としても秀逸だった。

ドラマ版と映画版の違い

① ヘルパー俊の背景

映画版で気になっていたのがヘルパー俊の存在。映画版ではほぼ俊の背景は描かれないまま、俊がユマのサポートを都合がよすぎるほどに行っているのがとても気になった。

私は映画版の後にドラマ版を鑑賞。ドラマ版では俊の背景が少しだけ描かれていた。道路脇の片隅にクマのぬいぐるみと花を置く俊。想像でしかないけれど、俊は妹などの大切な人を交通事故で亡くしたのかもしれない。だから俊はその存在に近いユマを放っておけないのかもしれない。

ユマと俊がある場所へ長期間一緒に行く時も「俊の仕事は大丈夫なの、そこまでやる?」と感じた。脳性麻痺であるユマが勇気を出して一歩踏み出す時には、身体的なサポートも必須。けれど、その役割を担わせるには都合がよすぎると映画版では思えたのだ。しかし、ドラマ版ではその直前に舞が俊に「休み取りなよ」と勧める場面があり不自然さが補完されていた!この俊の二つの場面は映画版でも入っていたら更によかったなぁ。

② 舞の背景

障がい者向けの性的サービス者としてユマと出会い、フラットな佇まいでユマをサポートしながら「障がいがあろうがなかろうが、あなた次第よ」と伝える舞。素敵としか言いようがない。舞の達観と平等性はハンパない。渡辺真起子さんという存在の安定感といったらない。

ドラマ版では「障害と性についての考察」というミーティングのような場面があり「私は元看護師で」という舞の背景が語られる。ユマの「舞さんみたいな人が女性のためにもいるといいですね」という言葉も、ユマが経験した夜のことを思うとより胸に迫る。

③ ドラマ版のラスト

映画版でユマがある人に会いに行くため車で向かうシーン。ここでドラマ版は終わる。この場面は目的地に向かう車を上空から撮影している。

映画版もドラマ版も、東京の雑踏や夜景を上空から映し出す映像が多く挿入されている。世界とか宇宙とか大きな枠の中で見ると人間って本当に小さな存在だ。その中で悩みながら進もうとしている人間の愛おしさと平等性を表しているように見えた。

俳優陣の素晴らしさ

ユマを演じる佳山明さん自身が持つ、圧倒的な魂の美しさというのでしょうか。彼女がもう、全編に渡って物凄い輝きを放っている。映画ポスターの横顔の神々しさもすごい。

母親役の神野三鈴さんも本当に素晴らしかった。演技はもちろんのこと、ドラマ版のインタビューで答えていた言葉。この言葉にこの作品の全てが詰まっていると思う。

「他人を知ること、自分を知ること、世界を知ること、違いを知ること、変わらないことを知ること、そこに命と気持ちがあること。それを生きている限り愛したい。私は残りの時間をかけて…したい」

37セカンズ

たった37秒が原因でユマは障がいを待つこととなった。ユマ役のオーディションに参加した女性達を特集した「もう一つの37セカンズ~車椅子女子の挑戦~」では、病や突然の事故などで車椅子になった女性の今を追っていた。彼女達が人生の長い時間を車椅子で過ごすことになった原因はある一瞬の出来事(ユマにとっての37セカンズ)が多い。彼女達も様々な思いを抱えつつ、それぞれの日々を過ごしている。

タイトルの「37セカンズ」とは障がいの有無に関わらず、それぞれが抱える課題なのかなと思う。この作品ではそれが足かせではなく、生きていく上で共にあるものとして描き「あなた次第よ」と投げかけている。ユマと母の成長物語と見せかけて、この物語に触れることで成長し、新たな視点と想像力を得られるのは私達なのだから。

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