見出し画像

「ディープな維新史」シリーズⅣ 討幕の招魂社史❼ 歴史ノンフィクション作家 堀雅昭

小倉戦争と葉山平右衛門


長州藩は徳川幕府と対峙するための招魂社を整えることで、戦意高揚と団結力を高めて四境戦争に突入した。四境の戦いとは大島口、芸州口、石州口、小倉口の長州藩の四つの境で幕府軍と戦ったことに由来する。
 
まずは慶応2(1866)年6月7日に幕府の軍艦一隻が上関の海上に現われ、沿岸を砲撃したことで大島口の戦いの幕が上がる。
 
つづいて6月13日から芸州口の戦い。
 
6月16日には石州口の戦いにもつれ込む。
 
さらに6月17日からは小倉口の戦いがはじまった。
山口市歴史民俗史料館には小倉口の戦いを描いた『九州小倉合戦図』が保管されている。

『九州小倉合戦図』(小倉口の戦い 山口市歴史民俗史料館蔵)


すでに長州と薩摩の軍事同盟が慶応2年1月に締結されており、グラバーを通じて性能の良い西洋ライフル銃(ミニエー銃)などが長州藩に供給されていた。
 
このため8月ぐらいまでには幕府勢の追撃に、ほぼケリがつく。
 
実は北九州を散策していたとき、旧小倉藩(旧小笠原藩)の重鎮に葉山平右衛門がいたことを知った。プロレタリア作家として名を馳せた葉山嘉樹の祖父である。
 
葉山平右衛門がいた場所は、福岡県行橋市から内陸に入った現在のみやこ町だった。北と西を福知山、南を英彦山に囲まれた盆地である。
 
役場で貰った「文化財マップ」には「平成二一年末現在」の人口が2万2000人強と書いてあった。平成18(2006)年3月に京都郡(みやこぐん)の勝山町、犀川町、豊津町の3町が合併して出来た新しい町だった。葉山の出身地はこのうちの旧・豊津町(当時は豊津村)であったのだ。
 
八景山自然公園中腹の甲塚(みやこ町国作)には、葉山嘉樹の文学碑が建てられていた。

福岡県京都郡みやこ町甲塚の「葉山嘉樹文学碑」


明治27(1894)年にこの地で生まれた葉山嘉樹は、大正2(1913)年に豊津中学を卒業し、早稲田大学高等予科文科に入学したが、学費未納で除籍となり、新聞記者など職を転々としながらプロレタリア作家の道を進む。面白いのは、昭和2(1927)年4月刊『新青年』第8巻5号に発表した小説『死屍を食ふ男』で、「殿様が追ひ詰められた時に、逃げ込んで無理に拵へた山中の一村」と、父祖伝来の豊津風景を描いていたことだ。
 
グローバリズムの弊害による格差社会が到来した現在、再び葉山文学の見直しが始まっていることも、私が興味を持った理由の一つである。
 
豊津は社会主義者の堺利彦の生誕地でもあり、堺が葉山の文壇デビューを後押ししていた。「堺利彦記念碑」も豊津の町中に建っていた。
 

福岡県京都郡みやこ町豊津の「堺利彦記念碑」


面白いのは、いずれ旧小倉藩士(旧小笠原藩士)という武家の血筋で、四境戦争「小倉口の戦い」で、長州藩に敗れた側の子孫たちだったことであろう。
 
みやこ町の図書館に立ち寄り、葉山家について『豊前叢書第五巻』で調べると、「天保十二御家中知行高控写」に葉山平右衛門が300石と書いてあった。その後の「豊津藩士知行切米名簿」には息子(すなわち葉山の父)の葉山荒太郎の石高が400石に増えていた。『豊津町誌』にも「葉山嘉樹」の項が設けられ、葉山家について小笠原藩が信州松本から明石、小倉を経て豊津に至るまで「譜代の家臣で、文字どおり槍一筋の家柄である」と説明が見える。プロレタリア作家を生み出した葉山家は、藩政期はブルジョアだったのだ。
 
実に葉山嘉樹の祖父・葉山平右衛門は、こうした延長線上に長州藩兵が小倉に攻め込んだときに赤心隊を組織し、息子の荒太郎も参加したのである(浦西和彦『葉山嘉樹 ―近代文学資料6』)。
 
改めて、小倉口の戦いを眺めておこう。
 
まずは長州藩兵が門司の田野浦を襲撃し、つづいて大里を攻撃(7月3日)していた。
このタイミングで、大坂にいた14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)が21歳の若さで急死(7月20日)したことで長州藩は勢いづく。
 
そこで、さらに小倉城下の東側赤坂に攻め込んだ(7月27日)。
 
これに恐れをなした小倉藩側は自ら城に火を放ち(8月1日)、戦線を後退させて藩庁を田川郡香春に移したのである。

現在の小倉城(福岡県北九州市)


しかし挽回に至らず、徳川幕府から休戦命令が小倉藩に告げられ(9月11日)、12月から止戦交渉が始まる。
 
興味深いのは、破れた小倉藩兵の一部が長州藩側に恭順し、官軍として戊辰戦争で徳川幕府軍と戦っていたことだ。実にその一人が葉山平右衛門だった。葉山は単なる小倉口の戦いの敗戦者ではなかったのである。
 
なるほど『防長回天史 十一』で確認すると、「小倉隊長葉山平右衛門抜刀(ばっとう)シテ先登(せんとう)シ賊数人(ぞくすういにん)ヲ傷(きづつ)ケ身(み)モ亦数創(またすうそう)ヲ被(こうむ)リ叱咤憤闘躓(しったふんとうつまずい)テ仆(たお)ル」と出てくる。
 
『小倉市誌 下編』には、「九月二十三日秋田城下にて死去」(「葉山平右衛門」)と記されている。
 
さらに葉山平右衛門は『靖国神社忠魂史 第一巻』にも出てくる。
 
死亡時期こそ「明元、九、八」と多少のズレがあるが、「横沢村 隊長 葉山平右エ門氏芳 四九歳」と記され、横沢村において49歳で戦死した平右衛門が、後に靖国神社に祀られていたこともわかる。
 
八景山近くの甲塚墓地で見つけた招魂碑を太くしたような姿の神道墓「葉山家諸霊位」の側面には、「明治四十二年建之 葉山荒太郎」と刻まれていた。

 明治42年に葉山嘉樹の父荒太郎が建立した葉山家の墓「葉山家諸霊位」


息子の荒太郎が京都郡の郡長を辞めた翌年に、秋田市八橋(やばし)の全良寺の官軍墓地から父・平右衛門の御霊を分霊して、甲塚墓地に墓を建てたのだ。
 
すなわちその息子が、プロレタリア作家で名をはせた葉山嘉樹だったわけである。
 
私は小倉口の戦争に敗れ、長州藩に恭順して戊辰戦争で徳川幕府と戦って散華した葉山平右衛門に崇敬の念を抱き、墓前で手をあわせて深々と頭をさげたのであった。合掌。
 







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?