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タンボdeタイワ第ゼロ回を終えて

福井県大野市、純ちゃん農園敷地内にて、私たちは集まった。

※野外である

夕暮れ時に、ビンの空きケースをひっくり返して、板を並べた即席の椅子に座るのは、医師、看護師、農家……そして、私であった。

何この状況?

時は二ヶ月前に遡る。7月末に私は福井に来ていた。
そもそものきっかけは、この男、純ちゃんとのつながりであった。

純ちゃん

大学の同級生である彼と、私は同級生であり、たまたま2023年入ったか入っていないかくらいに連絡が入ったのであった。

純「ひさしぶりー!元気してる?」
私「まぁまぁぼちぼちかな」
純「突然なんやけどさ、ちょっと仕事の協力してくれんか?」
私「!?」

本当に一年ぶりくらいの連絡がこれでした

これが口火となって、福井に住む純ちゃんと何度かzoomでどんな協力をしたら良いのかを聞いてみた。

すると聞くに、実は純ちゃん、専業農家として2022年から着々と準備をしていたそうな。
趣味の家庭菜園をしているのは知っていたけれど、連絡をしないうちに田んぼを何十枚も借りてコンバインをブイブイ言わすガチ農家になっていたのだ。
それにもびっくりしたけれど、兼業をやめ、農業一本に集中することで「福井県大野市(純ちゃんの住んでいるところ)の農家」として独り立ちしたという決心がスゲェと素直に思った。

で、色々と進めていくうちに「自分の商品を宣伝すること」が思ったよりも難しいことに気がついたそう。特に、「文章で発信すること」という壁にぶち当たったと。

「自分は文章を書くのが苦手だ。誰か助っ人を呼ぼう!!」と考えていたところで、同級生で「小説!エッセイ!書く!楽しい!」と、なんかトチ狂った私のことを思い出したと。やはり言い続けてみるものですね。

面白いことには目がない私。すぐさま「なにそれ面白そう!協力させて!」と快諾したのだ。また純ちゃん農園のお話は後日。

で、任されたのは「なぜ専業農家になったのか」という企業理念っぽい文言の作成や、販売する作物の売り文句を考えること。
文章を書く、というよりもコピーライティングスキルの方が必要そうだったが、それでも自分の可能性を試したかった。
「面白いもの書くには行くしかないっしょ!」と純ちゃん農園の取材がてら福井に通って数回目。

純「田んぼで対話をしたいって人がいるんやけど、会ってみない?」
私「!!」

バリ唐突

福井には面白い人がいっぱいいるんだなぁ。

対話とは
相手の考えを聞き、自分の考えを問い直し、相手を知り、自分を知る営み。
「対(等に)話(す)」、のイメージ。
嘘偽りのない素直な気持ちを、互いに知ることができる。双方向に対等な話し方。
要するに、「腹を割って話す」ということ。

対話の説明。すごく難しいですが、ニュンスとして「愛とは?」って聞いた時に
真面目に返すと対話、ふざけて返すと対話じゃない、みたいな感じです。

忘れもしない二ヶ月前。夏。7月。
純ちゃんの納屋でネギの加工作業のお手伝いをした後に、ちょっと一息ついて夜。純ちゃんの野菜が使われているという居酒屋さん「亀平」でその運命の出会いがあったのだった。

そこにいたのは、池口亮さん。純ちゃんはちょっと緊張した面持ちで座っていた(ように見えた)。いつもそんなに口数が多い方ではないけれど、今日は特に口数が少なかった。

「すみません、遅れました!!」

そう、私は遅刻していたのである。

別件のミーティングが盛り上がって、ちょっとかなり遅れて登場したにも関わらず「いえ!今来たばっかりでしたよ!」とデートで言われたら嬉しい言葉ランキング3位くらいの発言。
一目みただけで「良い人」が滲み出ているのがわかる。隠しきれない「良い人」オーラ。この人とどんな話ができるのかワクワクが止まらなかった。

ビールで乾杯して、そこからはグッと深い話を。

純ちゃんに事前に話を聞いていたとは言え、田んぼで対話をするというのはどこからの発想なのかが気になっていた。

曰く、「もともと死ぬってこと、生きるってことをフランクに話せる場所を作りたい」という気持ちがあったそうな。

「でも、病院でそれを行うとどうしても辛気臭い話になってしまう。医師や看護師的な立場としてからでしか発言ができなくなってしまうから、ちょっと堅苦しいと思ったんですよ」

場所によって、確かに話をする雰囲気は変わってきそう

そう、彼はお医者さんです。
大野市の隣の市、勝山にある「勝山オレンジクリニック」の院長さんらしい。

普通に生きていたらどう頑張っても患者と医者の関係にしかならなかったのに、こうして居酒屋でビールを飲み、つまみを食べてる。なんとも不思議な空間……。
と思いかけて、ハッとする。亮さんの言葉。
「立場じゃなくて、人と人とで話せたら良いんじゃないかな」

あかん、私が堅苦しくさせてどうするんだ!!と。

確かに人にはいろんな属性があって、職業は最も顕著に「その人」を特定するものなのかもしれない。
でも、その職業や肩書きによって「ははぁ、この人はお医者だからそう考えるのか……」とか「この人は小説とか書いているからそういう思考になるんだ」とかって考えるのは物凄く勿体無いことなのではないだろうか。

なぜならば、その人と本当に出会うチャンスを逃している気がするから。

職業や肩書きはあくまでも要素のひとつであって、そこにフォーカスしても何も見えないのだ。

あかんあかんと首を振って、今度は池口亮さんを池口亮さんとして見ることにした(観るといっても良いくらい)。
この人がどんなことを経験して、どう思って、そして「田んぼで対話がしたい」に行き着いたのはどうしてなのか……そっちの方が肩書きや職業よりも遥かに大事であったのだ。

「患者と医師の関係を取っ払う」
「死ぬ、生きるって話を田んぼですることで、違った意見が生まれるのではないか」
「気軽に話すことで、家族で死ぬことについて話すハードルが下がる。それが結局はその人を含めるみんなで「どう死ぬのか」を考えるきっかけになるんじゃないかなぁって」

亮さんの気持ち、まとめ

ACPという言葉がある。
アドバンス・ケア・プランニングという意味の略称であり、医学用語。

言っちゃえば、「本人とその家族を含めて自分がどう死にたいのかを話そうぜ」ってことである。自分の死に方を考えることによって、自分のこれからの生き方を考えることができるのだ。

訪問看護などを行う過程で、自分(患者)と家族の考えがズレている、話し合われていないことが多いそうな。終末期ケアあるある。
医療者と患者さんだけが「こういう感じ(治療)でいきましょう」と納得していても、結局決定をするのは患者さんの家族なのだそう。医療者と患者さんがめちゃくちゃ仲良くなっても、患者さんとその家族との意志が合致していないと「そういう感じ」にならないのだ。

ので、必要なのは家族内における「対話」。自分はどう思っているのか。相手はどうして欲しいのか。
人と人とで深く繋がることに、怪しさの方が先行してしまう現代。家族と本当の意味で「自分の意思」の共有、理解ができているのだろうか?

自分の家族を思い返してみても、なかなか出来ていないように思う。
家族だからこそ、できないと言っても過言ではない。

「結局医療者には限界があると思うので」

人と人とが関わる時に、だ

ふむ。なるほど。
確かに、医療者は家族ではない。家族ほど近い距離で患者さんを見ているわけでもないのだ。

豊かに生きるということは、どんな人にも当てはまる。

しかしながら一人で生きていく人はなかなかに少ないもので。大抵、家族だったりパートナーだったりと生きているものだ。もしくは地域の人たちとゆるーくうすーく繋がりながら。

そんななか、「私はこうやって生きていく!」「こうやって死んでいきたい!」と気軽に話せる環境があると、もっと豊かになると思うのだ。
誰かが自分の生き方を知っている、死に方を知っている。大切な価値観を共有できている……なんか、よくない??
どう「よくない??」なのかは、まだまだ言い尽くせないけれど。
でも、自分の心を素直に開くこと豊かさには何か繋がりがあると思うんですわ。

ということを亮さんと懇々と話していた。
もっといろんな話もしていた。
対話の可能性、人との繋がり、地域おこし、たくさんの地域活動……。

話していく中で、かなり面白い共通点もあったのですが、話が大脱線するので割愛。
とにかく仲良くなった。超短時間で。
1時間くらいしか、いなかったと思う。それでも半日分話したんじゃないかと思うくらいに濃密で、楽しい時間だった。

「田んぼで死ぬ生きるの話をしたい」というのが最終目標で、その中には「いろんな人が参加して、いろんな人と交流することで町おこしの一環にもなるし、それにいろんなことを知ることができる」

対話を通して、人と人とが繋がっていくんですね。素敵。

お寺の住職さんや、地域おこしをする若者、いろんなチャレンジをしている人をゲストに招いてお話を聞く会なんかも考えているそう。
福井県、可能性に溢れているぞ。私が知らないだけで、どこの町にもこういう「可能性」は潜んでいるのかもしれないけれど。

ゆくゆくは、対話できる街を作っていこうって話。

あまりにもワクワクするような話に、私もビールが進みます。
それに話を聞くに、いろんな活動があるらしく。対話はその一つなのだというらしい。

「堀尾さん、ファシリテーターの経験があると聞きましたが」
「ウッ、ハイ、マァ、一応……」
進んだビールがちょっと進まなくなった。
「ぜひこの活動に参加していただきたいなぁ〜〜って」
「ウォッ!ソレハ、スゲェ面白ソウ、エエ!」

ファシリテーター。今私が学びつつあるものであり、超面白いと思っているものでもある。

ファシリテーターとは
組織やグループにおいてその場所がよりよい場所へ促進させる役割。
司会進行のような「スムーズに予定していたイベントをクリアしていく」というよりも、「どんな風にその場が成り立っていくのか」が重要である。

結果よりも過程を重要視するというわけだ

ファシリテーターの経験、あります!と胸を張ってはまだまだ言えない。所属している研究室で修行を積まさせてもらっているけれど、上手いこといった回を数える方が難しいくらい……。てか、うまいこといってる実感すら掴めない時もある。

それに、学ばせてもらってようやく楽しさがわかってきたのはつい最近。
まだまだよちよちファシリ(赤ちゃんレベルという意)を「やってます!」とは言えず、またさらに「そんな大事な場にアタシなんて……」モニョモニョしていると、「練習だと思って場所を使って欲しいです」との最プッシュ。
ええ人やん……。

こんなの、「自信ないです!無理です!」って言えるでしょうか?

言えませんなぁ!!!

まぁ基本、お誘いを断らないマンの私なのですが。
ちょっと重大な役割でヒヨっちゃったのを少し後悔。

ということで、田んぼで対話のイベント……通称「タンボdeタイワ」のファシリテーターへ任命されたのであった。名前も可愛い。

任命されたと言っても、別にファシリテーターは魔法使いではないし、どんな場所でも笑顔あふれる場所へチェンジさせるようなパワーを持っているわけではない(と思っている)。

そりゃ、先生とか経験をブチ積んで対話を探求しまくって、言葉を磨き続けている人だったら、魔法みたいに素敵な場所を作れるかもしれない。

ただ、私はまだまだその足元にも及ばない。それにその場所を素敵にするためにはファシる(ファシリテーションをするの略)人だけがそういう気持ちであるだけではダメなのだ。
参加者全員で「この場を最高のものにしたいぜ!!」っていう気持ちが1ミリでも欲しい。そういう参加者の気持ちと、ファシリテーションが混ざり合って、最高の場所が出来上げるのだと思う。

すなわち、劇場版プリキュアである。応援がないと頑張れない。

とかなんとかぐるぐる考えながら、「でも自信、つけなきゃなぁ」と考えていた。
ヒトカタリや、今回の「タンボdeタイワ」。私は場所によっては「学ぶ」から「実践する」に移行していた。

ただ、私の性分的に「とりあえずやってみる」は肌にあったものでもあって。

「チャンスの神様は前髪しかない」って大好きな人が言っていたものだから、とりあえずやってみようと思ったのだ。ウジウジ考えるよりも、動いて、経験して、考えた方がよっぽど地に足をつけた世界が見えると思うんだ。

「9月18日に、タンボdeタイワ第ゼロ回を開こうと思います!」

そんな連絡が来たのはファシリに任命されてから一ヶ月後のことだった。
ちょうどいろんな予定がちょっとずつ終わって、一息ついていたところ。

たまたま空いているスケジュール。「運命やん!」と嬉しくなって早速車に乗り込んだ。
出発前日に、亮さんちょっとした打ち合わせをして(実際に対話する場って何が必要ですかね??みたいなお話)(こういうものがあったら良いと思いますよ!と返事)、いざ出発。
片道300km強。まぁ米沢と比べたら200kmくらい距離は短いので、「近いじゃん!」とか思いながら車を発進させた。

いや、普通に遠いんだけど。

ただただ新しい場所に、不思議なご縁に呼ばれて向かっている感じがなんだか嬉しくて、一気に向かってしまった。途中で休憩とかしなくちゃいけないんだけれども。本当はね。

久しぶりの福井はすっかり秋の様子に変わっていて、木々にも少しずつ赤みがかかってきていた。
なんだかんだ、冬、夏に遊びに取材にきていてるので、もうすっかり福井は馴染みの土地になっていた。

お久しぶりです〜と挨拶をして、はじめましての方にも、同じように挨拶。
この日はお休みでしたが、庭の手入れ作業をやろうということで、人がちらほらと集まっていました。ちょうどトンボを捕まえているところで、

「今回の対話のために静岡からきたんですよ!」
「ええー!」

漫画みたいな反応

そんなこんなで、打ち合わせを始めます。

このゼロからみんなで一つの場所を作り上げていく感覚がなんとも面白い。

改めて亮さんの気持ちを聞き、またその他の参加者の方(オレンジクリニックの医師、看護師、お友達の看護師さん、などなど亮さんネットワークの人たち)ともお話をして「対話って何するの?」「死生学ってなに?」みたいな話をしてきました。

私の所属していく研究室のお話が多かったですが、話すたびに「ほぉ……」「なるほど……」と関心のさざめきが起こるのがなんともくすぐったい。

私の研究室で行っていることを前提としてお話して、今度は「これからのタンボdeタイワ」をどう言う風に作っていくのかを話し合います。
研究室で行っていることと、これからここの場所で始まっていくものは全くの別物なのでね。
私の知っているスタイルで必ずしも行っていく必要はないように思いました。

それに、皆さん考えることがあって、やりたいことがあるのだと思う。それを素直に聞けて、素直に考えが話せる場所になればもう既に対話はできるような気がするんですよね。

研究室で使っている言葉や道具をそのまま使うのは「違う」と思ったので、骨組みとかは提供しつつ、「どんなことを聞きたいのか」を自由に聞いてみました。
第ゼロ回では、ウォーミングアップと「対話ってこういうものなんだ!」という感覚を掴むために「死生」から離れて「皆さんがみんなに聞いてみたいこと」をメインに集めてみた。

「恋と愛の違いは?」
「生きるってなんだろう?」
「人口が減少するこのまちで、幸せに生きるとは?」
「仕事へのあなたの誇りってなんですか?」
「1日の中で大事な時間はいつですか?」
「5歳の自分に「人生って何?」って聞かれたらなんて答える?」

色々と出ました。

どれも面白そうだし、次回次々回でやってみても面白そうな問いかけでした。これからの場所づくりが楽しみですね。
1時間の打ち合わせでは結局決まらず、本番になったときにみんなが「どの問いかけ」をやりたい気分なのかで決めることにしました。

それから移動して、純ちゃんの家へ。

時刻は夕方。ちょっとだけ日の入りが早くなってきた大野の真ん中で、我々は集まりました。純ちゃんちです。

「あれ、久しぶりやな」
「ええ、お久しぶりです」

約二ヶ月ぶりの再会にしては結構淡白な挨拶

農作業中の純ちゃんが合流し、メンバーが揃いました。

今回は天気が悪そうなので、すぐに避難できる納屋の近くで行うことになりました。それが冒頭。
ビールのケースをひっくり返して、ベニヤ板に座る。家と納屋に挟まれた開かれてるのか隔たれているのかよくわからない場所で「タンボdeタイワ第ゼロ回」は行われたのだった。

「内々で見せるために撮影するよ~」
「スマホスタンド、持ってます!」

資料ということで

磁気で近未来的な動きをするスマホスタンドを持ってきたのは、初っ端から対話に興味津々だった曽我さん。結構良い値段したそうな。

カッチョイイスタンドと、スマホの録画ボタンの押される音で、ちょっとだけ場が引き締まりました。さっきまでの和気藹々とした雰囲気から「さぁ、やりますよ!」といった雰囲気へ。

「あ、私がファシリだったんだ」と思い出す。
ファシリと言っても、この場で何をするかの確認と、問いかけをどれにするかを決めること。
あとは、チェックインをして、もう自由な対話の場を作っていくだけです。みんなで。

チェックインとは
ホテルや旅館に入る、と言う意味ではなく。
この場にきましたよ、今こんな気持ちでここにいますよ、ということを確認し合うもの。

それからは、打ち合わせで出た問いかけから一つに絞り、いざ、対話へ!

「1日の中で大事な時間はいつですか?」

参加者みなさんは自分のことを振り返って、「こういう時間を、こういう時を大事にしている」ということを話してくれました。
一人一人思うところは違って、「大事」にしている要素も違っていて、書いている時も、聞いている時も、質問している時も面白かった。

対話雰囲気。中心にいるのは処刑される罪人ではなく、私です。

私はひたすらに模造紙に出た言葉を書きとめて、書く中での意味の確認や、より深いツッコミを行っていきました。
言葉を聞いて、書き留めるのはかなりの集中力が必要だ。話の中で何がキーワードで何がその人が大切にしているのかを聞きながら、まとめていく。

今回は1時間を目安にしたので、集中力さえあれば……と喰らいついたのだった。
対話の具体的な内容は………………ナイショ!!

その場所でしか語れないものがあり、その場所でしか感じ取れないものがあるのだ。
それをここに書くのはまた違うと思っていて。
みなさんの言葉は、あの場所だから生み出されたもので。
それを文章で固定するのは、違うような気がしていて。

抽象的に、どんな話をしていたのか、どんな雰囲気だったのかを伝えて行こうと思います。

素直に、「楽しい~~~!」と思って、やっていた。
これが対話か! これがお互いを知るって言うことなのか! 
私の中での「対話」の概念がまたちょっとだけ形になったような気分。
それが面白くて、でもまだまだ掴み切れていない「対話」が自分の中でじんわり広がっていくのが楽しくて、とっても豊かな時間になりました。

あっという間に1時間が過ぎ、「まだまだいきましょう!」と、もうちょっと時間を延長。だんだん日は落ちていって、もうあたりは真っ暗に。

天気予報的には雨予報が心配なところ。山々に囲まれた盆地の大野。遠くの山が何度もピカピカ光っています。雷がなっているようだ。
幸いなことに、山が遠いのか音までは聞こえない。時折光る雷を手元の灯りがてら、まだまだみなさんの言葉を書き留めていく。

それぞれの「大事な時間」はとっくの昔に出尽くしていて、今度は「大事」や「時間」という言葉について、考えていることを言葉にしていく。
これがまた対話の面白いところで。話せば話すほど、問いを違う角度から見るようになる。

捉えている言葉のニュアンスが同じなのはどうしてなのか、違うのはなぜなのか。みんなで作り上げているこの時間で起こる、言葉の探求があまりにも楽しかった。

探求は止まらない。いや、止められない。
ゆるやかな沈黙で考えて、再びまた話し出す。自然とそれを促さずとも作られる空間がなんとも幸せで。

一つの問いかけによって、共有される空間がずっと続いたらイイのに……とすら思ってしまいました。

しかし……

「お、雨だ」
亮さんの一言をきっかけに、空を見上げる。
もう完全に夜。そして雷。
「なんか、福井市はドチャクソ嵐だそうです」
そんな情報もあって、「そろそろ終わりにしましょうか」と声をかけた。

撤収作業をしている途中で、ドカンと雨が降り出す。ドチャクソ嵐の幕開けだった。
しかし、まだ私にはやり残したことがある。

雨だ~!ワ~!と対話の時間を遠い過去に投げやるような閉じ方をしたくなかった。ので、一旦避難したのちに、「チェックアウト」を行った。

チェックアウトとは
ホテルや旅館から出ると言う意味ではなく。
この時間がどういうものだったのか、どういう風に過ごすことができたのか。これから続けるにあたってどうしたらもっと面白いものになるのか、なんてことを一言ずつもらうもの。

この時間がどんなものだったのか、これかれどういうものにしていきたいのか……いろんなところから考えもしなかったアイデアも聞けます。
またワクワクの種をもらって、この「タンボdeタイワ」がもっと面白い、素敵な場所になってく予感がしました。

模造紙はこんな感じで書きました。具体的な内容はボカしてます。

ちょっとした声のまとめ

「対話に感じていたハードルが下がった。話しやすかった」

↑うへへ。そうでしょう。楽しいでしょう。

「みんなの「大事」というものがちょっとずつ違っていて、面白かった。それに模造紙にまとめてくれたのも見やすくて、今何を話したのかを確認できた」

↑ぐふふ、頑張った甲斐がありました。

「実際対話をやってみたいと思ってみても、やっぱりどうすればいいのかわからなかった。でも実際にやってみてこれからもやっていきたいと思ったし、なによりも堀尾さんにきてもらって本当によかった」

↑盛っていません。確かに聞きました。

「これからもファシリをお願いしたい」

↑絶対言ってました。確かに聞きました。

こんなにも幸せなことがあって良いのでしょうか。
自分の「楽しい!」と思えるものが伝わった以上に、また私自身が関わったことでそれができたんだと思うと、嬉しくて嬉しくて。

しかも?「堀尾さんにきてもらって本当によかった」!!!
※盛っていません

承認欲求とはまた別のところで、達成感だったり満足感だったりが込み上げてきました。
自分のやったことに感謝をされる、自分の仕事(労働っていう意味合いよりも、行った内容)に対して評価がもらえることも嬉しさをここで知りました。

ちょっとずつ学んでいたことが、自分の中で芽が出ていたような、そんな気持ちになった。
だいぶ年月はかかったけれど、自分が「楽しい」と思うくらいには——自分が「できるかも?」と思うくらいには、大きくなっていたんだと実感した。

私自身も対話の面白さ、ファシリの緊張度合い、全員で場を作っていく雰囲気を体感できて、むしろありがとうと言いたい気持ちでした。実際に言いました。

場所を移して

ドチャクソ嵐の中、飲みといえばここ、「亀平」に全員で転がり込み、ドンチャン酒を飲みながらのんびりとお話をする。
まぁ、お酒を飲んでいたのは私と純ちゃんだけだったんですけど(みんなドライバー)(車社会)。

その場で初めて年齢を聞いてどよめいたり、なんと「呼ばれたからきました!みなさんと初対面です!」みたいな人もいてびっくりした。

あの場所の雰囲気というか、自由に発言できた空間、みんなが顔見知りだからこそできたのかなぁなど思っていたのに、その考えはひっくり返されたのでした。
庭仕事や打ち合わせでアイスブレイクができており、緊張感や「これ言ったら恥ずかしいかな……」という心のつっかえみたいなものがなかったからなのかも。

もしくは、亮さんの人徳……? 参加した皆さんの人柄……? 農園という環境…? 私のファシリ……?
緊張感もそこまで張り詰めておらず、ざっくばらんに話せたあの対話の時間。

何が要因で、あの面白い時間が過ごせたのか、決め手がわからなかった。
きっと、全部がうっすらと要因で、うっすらと関係しあっている。

こんなの、可能性の塊じゃないですか!!!面白すぎる!!!
この「タンボdeタイワ」これからも、人を巻き込んで行っていくそうです。絶対楽しい。

しかも、これからもその場所に行けるなんて、最高すぎ。
「どうせなら、おもしろいこと、やりたいじゃないですか」
そう言っていた亮さんはあまりにも素敵で!

地域おこしだって、対話だって、どっちにせよ自分が楽しいと思わないことには何も始まらないと思うんです。
それを知れた濃ゆい1日だったなぁ。

一番見切れているのが亮さんです。

その後、荒島旅舎(泊まるのはおそらく三回目)で一泊して、翌日に住処へ戻りましたとさ。このゲストハウスもまた素敵で。
窓から見える商店街の景色もワクワクして楽しい。案外、街中で泊まるってなると高いところから景色を見下ろすイメージがあるけれど、ここは商店街の真ん中で、まるで「ここに住んでいましたけど?」みたいな気持ちになってくる。

色々と調べていたら、noteがありました!
立ち上げた想いが読めて、これはまたゆっくり読みたいところ。

純ちゃんの記事もあった!
いつも話していることプラスアルファが書かれていて、また純ちゃんに出逢いなおした気分。

もしかしたら、福井県という場所は。大野という場所は。勝山という場所は。
私にとって最高で超面白い、深い深い繋がりが持てそうな所になるんじゃないかと予感している。

振り返り

「対話って聞くと、なんだか難しい感じがする」
というお話が出た。

確かに、普通に生きていたら「対話」と言う言葉自体使わないのかな……?とも考えてしまう。よくわからないものは、難しそうな気がしますわ。そりゃ。

私も対話の面白さに気づいたのは今年に入ってからだし、それまでは「これが対話?」の連続で、「対話の概念」的なものすら掴めなかった。

対話の場所に行きまくって、話しまくって、対話というものが何かを考えて、ようやっと「これかな……?」というものができた。

それまでは「今まで「対話」というものを知らなかった自分がしてきた、人との話し方と、対話を学んでからの話し方はどう変わってしまうんだろう…」とかも思ったりした。

対話という概念が自分の中に入る前と後で、自分の話し方がどう変わるのかとか、変わったとしたら、対話を知る前の私は一体どんな話し方をしていたのか、その時の「対話っぽいもの」が「対話」に置き換わっていく怖さもあった。

私にとって「難しい感じ」というのは首が折れるくらいに頷ける気持ちでした。

ただ、会話と対話にはそこまでの違いはないんじゃないか、と思う瞬間があるのだ(これね、研究室の先輩とか後輩とかにみられたら「今まで何学んできたんだよ!」とかキレられそうだけどね。でも感覚として)。

もしかしたら、私自身ずっと人と対話をしてきたんじゃないかとも思ってしまう。むしろ会話がわからないのかもしれない。

※まぁここで私が友人少なすぎ問題や、そんなに今まで人と話してこなかった問題などがあるので、ちょっとこの気持ちはもっと言葉にしないといけないのだけれども。

要検討案件

私には、「対話したい!」っていう気持ちであると言うだけで、相手も同じような、似たような気持ちでないと成立しないとは思うんですけどね、そこは。流石に。

会話はコミュニケーションツールの一貫だとか、普段何気なく行うものだとか言われてきたけれど、対話も何気なく行われるものたと思うし、コミュニケーションを深く深くとる事が出来るようにも思う。

まあ人の悪口とか言う時は対話でもなんでもないとは思うけれど。
「なんでこんなにムカつくのか」、「どの部分に気分を害したのか」を聞いていけば、きっと対話による探求ができるとは思うんですけどね。

私はそういうことを望んでいるけれど、相手が望んでいるとは限りませんが。
結局は双方向の営みなので、「対話しようとしている!(聞きたいことがある、その人の想いを聞きたい)」という考えがお互いにないと対話にはならない、とも思います。

誰かの話を聞いて、こういうことかなって考えて、自分の言葉に置き換えて問い返す……人と話す時、こういうことの連続だと思うのだ。

相手の話を聞かない/否定するだとか、自分の話ばかりをする、だとか、相手を一人の人間としてみない場合は、対話にならないとは思うけれど。
そういう時は会話でもなく、シンプルに押し付けなんだと思う。

追記
そう思っていたけれど、やっぱり思い返すと「あの時、自分の意見ばっかり言っていたかも」「相手の言葉をちゃんと聞けていただろうか?」と振り返ると、そうでもない時間もありました。
100%の対話を、やっているつもりではあっても、考え直すとそうでもない時間もあったりする。ので、まだまだ私は実践できていないと思います。
すなわち「対話しているつもり」と「対話している」の違いが、自分の中で混ざっているような気がしています。

校正中にそういうことを思ったので、分けて書いておきます。

ああ、さらに追記
やっぱり対話って難しい。「対話したい!」って気持ちだけじゃあ、やはり。ダメなようだ。
対話しているつもり、から抜け出すためにはとんでもなく慎重な言葉と、深い理解と、参加者の覚悟が必要なのだ。

追記の追記。対話、好きだけどまだ言葉になってない。


基本的には——私がまだまだ人というものに夢を見ているから、言えるのかもしれないが——人と人とが話す時、それは相手のことを知ろうとしている時なのだ。
自分と他者がお互いに理解しようとしていると、思っている。いや、願っているのかな。

相手の言葉を聞き、自分の中にスルッと入り、自分の中の言葉と相手の言葉が混ざり合う。これが対話だと思うのだけれども、いかがか。

そう考えた時、これっていつもしていることじゃない?と思うわけだ。濃淡はあれども。
少なからず、相手の考えや気持ち、やっていること、起こったことが気になって聞き、それに相手は答える。
時折、考え込むような静かな時間が続いて、そこからまた慎重に言葉を紡いでいく。
そうやって言葉のラリーが続いていくのだ。
ので、「対話ってこんなに面白くて身近で、楽しいんだ!」っていうのをいかに私が体現できるのかもミッションの一つかな、と思っていました。

そりゃ、本読んで、対話の場所に出て、観察して……みたいな修行フェーズは私は短いのかもしれない。
パーン!とグラフィックファシリをやったり、ファシリをしたりとするのは「早すぎる」のかもしれない。「青すぎる」のかも。

ただ、単身でファシリとして飛び出してきて、参加したい!っていうみなさんの声を聞いた。聞くことができた。
実践をして、経験をして、自分のできたこと、できなかったことがわかった。そうじゃないと見えない世界があったのも本当なのでね。

実践だって、修行のうちなんだと思う。
素振りをしまくっていても(基礎的な筋肉は鍛えられるかもしれないけれど)試合にでないと相手の動きは読めないし、アドリブ力も身につかない。

ファシリテーションはいろんな人のものを見て、実際に自分でやってみて……の繰り返しで磨いていくものなのかなぁとも思う。
まだまだ私のファシリは至らないところあるかもしれないけれど、着実に人との出会いで、いろんな可能性や方法に出会っているような気がする。
気がするのだ。

やっぱり対話、好きだ。

「これが対話だ!」とか「対話とはこういうもんだ!」っていうのをまだまだ自信を持って表すことができないけれど、人の話を聞き、自分の言葉で返し、その人と真正面から「出会う」営みが好きで好きでたまらない。

いろんな人がいろんなことを考えながら、生きている。
いろんな人がいろんな悩みを抱えて、生きている。
それに触れられるなんて、それが知れるなんて、なんて嬉しいことなんだろうと感じるのだ。
その人の「生きる」を間近で感じているような気がして、私の「生きる」も一緒になって震えているような気持ちになるのだ。

対話には定義があり、技術があり、テクニックがあるのだろう。ただ、それがないと「あなたは対話参加できませーん!」ってのはない。
対話ができる人、できない人の線引きは案外ないのかもしれない。
お互いの聞き方次第、お互いの覚悟次第でどれだけでもどこまででも人と対話することができるのだ。
……って思うんだけれどね。

まだまだ若いし、対話も「やってます!」ってほどやっているわけでもないから、こういう風に思うのかもしれないけれど。いつまでたっても「やってます!」ってならないのかもしれないけれど。

「そんなの無理やろ」とか、「だれとでもできるわけじゃないやろ」とか、考える時もあるし、「そんなのできたら苦労しないよ」とも思う。

でも、みんなが素直な気持ちを表に出せて、それに耳を傾け、また言葉を考える機会があれば、とっても素敵だと思うんです。そこに私は居たいと思うんです。

対話の技術

いろんな壁があると思う。相当な努力も必要だし、相当な集中力と、適切な語彙、気遣い、心配りが必要だと思う。

でも、それを「私一人でやらなくちゃ!」と思うから苦しくなるのだ。
ちょっとずつ同じ気持ちの人が増えて、ちょっとずつ自分と違うところが得意な人が集まって、全員で補い合えるようなチームでやれば、私が頑張るのは「ひとり」のときよりもずっとずっと少ないだろう。

全員にうっすらと努力があって、集中力があって、語彙があって、気遣い、心配りがあれば、きっと、「一人でやらなくちゃ!」と意気込んでいた時よりも良いものができあがりそうだ。

「タンボdeタイワ」にはたくさんの仲間ができたし、これからもいろんなところで「仲間や!!」って思えることが増えていくのだろう。
ヒトカタリもそうだし、他のところでもそうだし。

気づいていないだけで、身の回りにたくさんの仲間がいるのかもしれない。
それに気づくのも、「手伝ってくれない?」って声をかけるのも、私だ。

そうやって集まった人たちでつくるものを、場所を、私は見てみたい。

だから対話に惹かれ、場所に惹かれ、人に惹かれるんだろうなぁ。
まだまだ私の人生は夢だらけ。


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