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【いま、何も言わずにおくために】#002:演じる、記憶する、やってみる 前編|森脇透青・渡辺健一郎

※こちらのnoteは森脇透青さんの不定期連載「いま、何も言わずにおくために」第二回の前編です。他の記事はこちらから



森脇
『いま、何も言わずにおくために』という連載の初回は書き下ろしでしたが、今回以降はゲストを招いて対談を行います。第一回のゲストとして、渡辺健一郎さんに来ていただきました。渡辺さんは『演劇教育の時代』というテキストで群像新人賞を取られて、演劇に関わっていらっしゃいます。この連載はフィクションとフィクションを取り巻く現在の状況を言葉にしていくものですので、渡辺さんには主に演劇の方面からお話をお伺いできればと思います。

渡辺
渡辺健一郎です。批評家、俳優という肩書きを並べて活動しています。最近よくこういう自己紹介をしているんですが、俳優というのは、自分で何かを言葉を発するのではなく、書かれていることをそのまま喋る。もちろん言い方とか、イントネーションとか、言い方に関わる作業はしていますが。一方で批評家というのは、どうやら多くの場合は、自分の言葉で何か作品や社会について語ります。今日は、俳優と批評家、この二つの肩書きがどう関係してくるのかを含めて考えたいと思います。加えてお伝えしておきたいのですが、私は即興での喋りが苦手なので、その辺はご容赦ください……(笑)俳優は、セリフが基本決まっているというところもあるかもしれませんが。

森脇
よろしくお願いします。第1回では、「フィクション」と「フィクションについての語り」の関係を問題にしました。現代、作品というものはきわめて迅速に「意味」に変換されて流通しており、作品の価値は、作品についての語りの数をいかに増幅し流通させたかによって決定されている。その意味が次から次へとどんどん新たな意味を生むさまを分析しよう、というのが大雑把なスローガンです。それをドゥルーズとフーコーのパロディで「意味の考古学」と呼んだのです。

ただ、タイトルから誤解されることもあると思うのですが、僕が書いたのは決してただ沈黙せよということではないですし、語らずに作品と一対一で静かに向き合おうみたいな、そういう真面目な話でもありません。重要なのは、「語る」ことで意味がどのように発生してくるのかを考えること、あるいは語り方を考えることなのです。

演劇はどう残るのか・意味はどのように変質/発生するのか

渡辺
ひとまずタイトルに関して言うと、「何も言わずにおく」というテーマには大変共感しつつ、私は何かが「語ったことにされてしまうこと」にも関心があります。何の気なしに口をついて出た言葉が、何らかの意味として受け取られてしまうという事態がある。連載の初回で森脇さんは「意味の発生」を問うと書いていましたが、その場合ひとが「言わんとする(した)こと」だけが問題なのではなく、「お前はこう言わんとしていただろう」ということにも関わるのだろうな、と思いました。

森脇
たしかに、現代では人々の語ることは、ポジショントークや党派から粗雑に理解される機会によく出くわします。僕自身も、「インテリのポストモダンの左翼だからこうだろう」みたいな批判にはよく晒されています(笑)。そして実際に多くの論者やインフルエンサーたちについては、自身のポジションを守るために語っているように見えることも多いですね。そこでは議論や評論の中身はもはや関係なくなっているのです。最近、福尾匠さんが「置き配的」という言葉でアイロニカルに形容していますが。
そういう状況に対しては、まず徹底的にリテラルに文章を読むという、最も基本的な倫理をもって抵抗することが大事です。ただし、「語ること」がそもそも何かの行為として世界に働きかけるものである以上、語ることの内容だけを誠実に読みあうんだ、という次元に固執することもまた欺瞞的ですよね。次の段階として、まさにフーコーが「言表」という概念で言い表したもの、言葉がもつ働きかけの効果を意識し、また分析していかなくてはならない。これも常識的なことではありますが。

渡辺
大変よく分かります。そのうえで、ある種の戦略として掲げられている「意味の考古学」について、このモチーフも大変良いと思ったんですが、しかし演劇は考古学と相性が悪いところがある。「アーカイブ問題」などと言われたりしますが、確固たる形では痕跡が残っていかない演劇に関して、その「意味」を掘り起こすことはいかにして可能か、という問いが否応なく生起しますし、恐らく演劇にとどまらない問題だろうとも思っています。

演劇批評は何を問題にしてきたか

森脇
ある程度古典的な演劇についてまず安易に思いつくことを言えば、それこそシェイクスピアの戯曲が時代によって全く異なる形で上演されるということは、「意味の考古学」の真ん中にある問題ではないのかと思うんですね。

渡辺
それがまさに演劇の中心的な問題の一つだと思います。もちろん古典の上演に祭しては当然様々に解釈しなければならないし、今の観客に向けてやらねばならないわけです。日本で上演するときに、シェイクスピアを原語のままやったりはしない。当時の戯曲が書かれたときの意味の発生を問うと同時に、演劇はやはり同時代的な、戦略的な問題と絶対に切り離せないんですよね。
つまり本であれば、今読まれなくても100年後に読まれうるみたいな、そういう希望もある気がしますが、演劇の場合にはとにかく今目の前の人たちに見せなければならないという、ある種の強迫観念みたいなものがあります。

森脇
僕が問題にしていた「意味の考古学」は、一つのものが別の意味を産出していく事態を想定しています。この事態がもっとも先鋭的に現れるのは翻訳の次元です。一つの文学というかコーパス(資料)がその都度に翻訳されてまた別のコーパスを生み出していく、そういう勝手に動いている不気味さですね。フーコーが言表の実定性という言い方をするとき想定しているのは、実はそういう事態ではないでしょうか。実際、メディア論なんかの分野でフーコーを批判的に受容したグループが「メディア考古学」を唱えていますが、僕がフィクション論として提起した問題はそれに似ています。
さて演劇の場合は、上演された場合に別の「もの」になる点が自明ではない。もちろん、現代では映像として記録される場合もあるでしょうけれど。言語の翻訳であれば、例えば原語の聖書は元々ヘブライ語なりギリシャ語で書かれラテン語に訳されたわけですが、重要なのは近代にルターがドイツ語という「俗なる語」に訳したことです。それを通じて聖書は民衆に開かれ、ドイツ語そのものが力を持ち、時間をかけてドイツ文学の土壌が準備される。もちろん演劇も時代ごとにそのような文化的な力を持っていたわけですが、「上演」という点から考えると、演劇はきわめて瞬間的なものにも見えてしまう。

渡辺
そう、だから、過去の作品については、過去に行われた上演の戯曲から読むとか、当時書かれた劇評とか、そういうものから判断するしかないという。
僕は必ずしもそうじゃないですけど、多くの演劇人はやはりその一回性がいいよねみたいなことを強調する人たちが多いし、もちろんそのこともわかる。

森脇
ただ、渡辺さんはご著書『自由が上演される』(講談社、2022年)で、“représentation”(上演する・表象する)という概念にこだわっておられましたよね。
ふつう、演劇は現実=「現前(présentation)」に対する模倣=「再現前(représentation)」として理解される。つまり一方に「現実」があり、他方にその現実を真似た「演劇」があると考える。しかし、渡辺さんはこの「re-」という接頭辞を「反復」ではなく「強意」として解釈するジャン=リュック・ナンシーに依拠して、この単純すぎる図式を破壊しています。その見地からすれば、「上演」とは強調された現実の様態であり、さらに翻れば、むしろ現実そのものがすでに一個の「上演」として演劇的であるわけです。依然として演劇において「もの」をどう理解するかという問題は残りますが、少なくともここですでに、「反復」vs.「一回性」という対立が演劇というモメントを通じて複雑化されていたのではないかと思います。

俳優≒エクリチュール?

渡辺
まさしく。そして、かくも厄介な上演にいかにアプローチするかということが問題になるわけですが、例えば日本の戦後の演劇批評は頻繁に俳優に言及しているんですよね。例えば福田恒存の劇評なんかを読むと、かなり俳優に辛辣です。かつて演劇批評は俳優の演技が中心的な問題の一つでした。すなわち、目に見えているもの、聞こえてきたものをまずしっかり批評する、という態度があった。現代で俳優を主題とするような批評はほぼ存在しないし、テクストの意味や演出の意図にばかり注目していて、「背後」に関心が向きすぎていると言えるかもしれない。
そのために俳優の側にも、「これはあくまで演出家から言われてやっているだけです」みたいな、そういう開き直った態度もありえます。僕はどこかでそれがよくないと思っていて、演劇を俳優の元に取り戻さねばという気持ちがあるんですね。
 今、最前線で演劇をやっている人たちは、多分俳優について同じような感覚を持っているんじゃないかなと思っています。だから、演出家のいない創作集団や、そもそも作り方から考えようという集団が増えてきているし、俳優は自分こそが作品の最終責任者だという恐怖のもとに演劇を作ってもいいのかも、と。

森脇
今の話を聞いて感じたのは、「俳優」とは実は「エクリチュール」相当するのではないかということです。
第一回のステートメントでは、私はエクリチュールの背景にすぐさま意味を読み取る惰性をやめにして、ある意味でひたすらエクリチュール──言葉であり同時に「もの」である──に着目するならどうなるか、という話をしていたのですが、伺った俳優論はそのエクリチュールの取り扱いと似てるような気がするんですよ。

渡辺
エクリチュール(痕跡)とは言うものの、普通に考えれば俳優にはパーソナリティもあるし、だからこそペルソナ(仮面)をつけて別人格を演じていた歴史もあるわけで、そこはあまりすっきり図式化できるものではないようにも思います。

森脇
たしかに文字に人格はありません。ただし、僕の考えるエクリチュールというのは、単なるコーパスではありますけど、静的なものではなくて、痕跡である以上にそれ自体が不気味に動くものです。そういう意味では、人間として好き勝手に動く一方で、ある種の媒体として演劇の中で意味を伝える俳優のあり方は、エクリチュールに似ているように思います。反人間主義的な言い方になるかもしれませんが……。

本と先生は同じもの?

渡辺
いや、基本的には私も俳優=エクリチュールと考えています。ただ、その上でエクリチュールにも様々に異なる性質があるだろう、ということですね。歴史的にいえば、俳優という存在は古今東西、共同体の中ですごく特殊な位置を占めてきた人たちですよね。河原者と言われたりもしますし、神聖性を帯びるか、汚穢そのものとして扱われるか、かなり二極化していました。それは、俳優が社会の中で、エクリチュールとしての人間という特殊な位置を占めざるを得ない、ということに起因するのかもしれません。
先日、荒木優太さんの『サークル有害論』刊行イベントが梅田であったのですが、彼は本当に独学でいろいろ学んできた人で、先生の手をあまり借りずに、サークルに依拠せずに何かできないかと画策しているわけです。一方で僕は、集団でこそできることがあるのではないかと考えています。

森脇
演劇はそれこそそうですよね。また、彼がやっている在野系研究というのも、ある意味では学会というその共同体に属さずに研究を続けることで、そこは通底しているかもしれません。

渡辺
エクリチュールの話からつなげて何が言いたいかというと、彼は、いわゆる人間の教師と本=エクリチュールにあまり違いを持たせていないというか、なんなら同じものとみなしているんだと思うんです。逆に荒木さんから、本と先生って違うと思いますかと聞かれて、僕は良くも悪くも違うんじゃないかと答えました。
先生という人間存在を肯定的に考える人は、先生の責任みたいなものを強調すると思います。この辺はちょっと私もアンビヴァレントですが、本はむしろ責任を持たない。拙著『自由が上演される』でも主題の一部にしたんですが、本というのは一度書かれてしまった後には、ここってどういうことですかと聞いても、返事してくれない。その無責任さが重要なのではないか。

森脇
プラトンは『パイドロス』で書き言葉の無責任さを糾弾している。喋る言葉というのは、問いかければその主体が答えてくれるという意味で主体の正しい息子で、書かれた言葉というのは勝手に主体から、父から離れ、いろんなところを渡り歩いて誤解と偏見を生む。しかもそれ自体に問いかけても答えないという意味で、ある種の私生児であると。プラトンに反してデリダがエクリチュール概念を作るときは、このイメージがすごく強くある。

その意味で教師と本にはやっぱり違いがやっぱりあるし、現実に教師には責任が生じます。ただ、爽快な「無責任」の可能性というものを皆低く見積もりすぎているのではないだろうか(笑)。あまりに重すぎる責任というものは人間を衰弱させますよ。個人的な気分としては、僕は静かなところで長時間座っているのが苦痛な人間であり、それゆえ授業というものが嫌いだし、先生の講釈を聞くよりも自分で無責任にテクストを読んでしまったほうが早いと思う(笑)。『ジャック・デリダ「差延」を読む』(共著、読書人、2023年)の解説でも強調したつもりですが、変に構えて自分でハードルを作るよりも、みんなさっさと無責任に読み捨ててしまえばいいと思っちゃいますね。

渡辺
まさにそうだとも思っているのですが、しかし書くこと、表現することの責任も感じてしまう…というアンビヴァレンスを、私はどうしても抱いてしまうんですよね。

森脇
それはもちろん僕もそうです。そういう矛盾を抱えない無責任はただの暴力ですからね。とくに自分より若い人と話しているとそう思います。

演劇と共同体

渡辺
さっきreprésentationの話もしてくれましたが、僕が演劇/批評で「上演」を主題にしているのは、あらゆる集団がカルト化の可能性をつねに秘めていると考えているからなんです。集団の中でどのように活動するか、そこにどれだけのめり込むかとか、どれだけ距離を取るかみたいなときに、上演の観念がなくなってしまうと、共同体にどんどん飲み込まれていく状況になりかねない。だからこれはあくまで上演なんだと強調されねばならないという話を、拙著で書きました。

森脇
つまり観客と舞台上にはある種の切断があるよ、ということをちゃんと言っていかないといけないということですね。それが一体化するされた祝祭みたいになってしまっては危ないと。

渡辺
たとえばブレヒトは、そういうことを意図してやったわけです。かなり戦略的に、お前らが見ているのは上演でしかないんだよと言う(異化効果)。そしてそこから何を現実的に考えるのか。少なくとも一般的にはそういうことを言った人だと理解されています。
ただ、上演に対して現実があるよね、それを冷静に見よう、という単純な話ではありません。上演の上演性を強調しすぎても、よくある作中のメタ発言のように、ハイハイと流されてしまいかねない。いかにして上演に熱中するか、させるか、ということも同時に問題にしなければならないわけです。
ブレヒトは醒めた目で見る演劇だとか、人々に醒めた目を持たせる論のイメージで理解されていますが、実はむしろ、目の前の人物に興味を持ってもらうためにやっているんだみたいなことを言っています。いかに目の前の対象に熱中してもらうか、ということを戦略的に考えた人でもあるわけです。ちなみに、『解放された観客』でブレヒトに対して辛辣だったランシエールも、『文学の政治』では上演と現実の複層性を生きた人だと評価しています。


演技と記憶

渡辺
この熱中と冷静の問題にかかわるかもしれないこととして、記憶の問題があります。演劇の俳優は、何度も繰り返し同じセリフを言わなければいけないので、演技の新鮮味を保つために、もしかしたら「忘れる技術」、あるいは「今、新たに発見し続ける」みたいな技術が必要なんじゃないか、ということを最近考えていました。
ここでいくつかの条件があって、かなり当たり前のようにも思われるかもしれませんが、まず暗記の問題があるんじゃないか。言葉を物として、まず自分の中に落とし込んでしまう、という。

森脇
ランシエールはブレヒトに辛辣だった印象しかなかったので、その観点は面白いですね。
記憶に関して言えば、たとえばヘーゲルは、『精神哲学』の認識論的な箇所で「機械的記憶」なるものを論じています。これは要するに、いちいち外界の事物を参照したり、何かのイメージを思い浮かべなくても瞬時に「意味」を想起しいつでも取り出せるようになる能力であり、「もの」を「意味」へと抽象化すること……と言うと難しいけれど、これは要するに「暗記」なんです(笑)。ヘーゲルにとってはこの「暗記」こそが人間精神が外界から解き放たれて自立し、真理に接近していくにあたって重要な契機になっている。

渡辺
厄介なことに、その機械的記憶は、ハビトゥス(習慣)が形成されてしまう、ということでもありますよね。

森脇 
しかしこの機械的記憶にもたまに違和感が生じることがある。「あれ、これでいいんだっけ?」というふうに考えはじめると、自明の動作ができなくなってしまう。それはいわば「意味」から「もの」への逆再生であり、日常的にはゲシュタルト崩壊なんかで経験していることです。スポーツなんかで言えばイップスの原因になる。「自分の腕の振り方は、脚の運び方はこんなふうでいいんだっけ?」と、自身の身体が他人のものかのように感じてしまうと、それまでスムーズに習慣化されたことができなくなってしまう。
強引に言い換えれば、それは自明化された「意味」に対して再び「もの」が襲いかかるという経験です。たとえば詩を読む経験というのは、イップスの発症に近いと僕は考えています。詩は他人の肢体のようなもので、スムーズな「意味」の流通に抵抗する。詩を読むとき、人間は日常的に動作している言語のタガが外されて、「そもそも言語はこのように使っていいんだっけ?」と再認識するほかなくなる。

後編に続く


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