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【三田三郎連載】#013:急性胃腸炎と第一歌集と葉ね文庫

※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の第十三回です。
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急性胃腸炎と第一歌集と葉ね文庫

 私は仕事中に急性胃腸炎で救急搬送されたから、「葉ね文庫」という書店へ通うようになった。

 これだけを書くと頭がおかしくなったと思われそうだが、確かに因果はそのように結ばれたのだ。では、実際にどのような経緯で私が葉ね文庫へと行き着いたのか、私の頭がおかしくなっていないことを証明するためにも、時間を遡ってその道筋を辿り直してみたい。

 私が急性胃腸炎を発症したのは、2018年1月17日のことである。その頃の私は、半年前に取引先との間で生じたトラブルの事後処理にまだ追い回されていた。トラブルの内容については、職務上の制約もあるので具体的な記述は避けざるを得ないが、その手があったかと感嘆してしまうほどにアクロバティックな裏切り方をされた。それにより一時は自社の存続が危ぶまれたものの、半年間あがいてどうにか最悪の事態は脱しつつあった。そんな折だった。

 その日はいつも通り朝から事務所で仕事をしていた。午前中は体に何の異変もなく、晩はどこへ飲みに行こうかと無邪気に思案を巡らせていたくらいである。ところが、ちょうど正午あたりに腹痛が始まったかと思えば、そこから体調は加速度的に悪化し、しまいには激しい下痢と嘔吐に見舞われてトイレから出られなくなった。トイレで休めばいずれは回復するのではないかという最後の望みも無残に打ち砕かれ、意識が遠のいていくのを自覚した時点でもはやここまでと観念し、スマートフォンで救急車を呼んだ。そして力尽きた。

 そこからは意識が朦朧としていて記憶も曖昧なのだが、病院へ搬送されている最中に、ひとつ確かに抱いた思いがあった。それは、どうせ死ぬなら歌集を出せばよかった、という思いだった。そのときはもう短歌から離れていたが、学生時代は作歌に励んでいた時期もあったのだ。作った短歌を書き付けたノートは実家の机の引き出しに保管してあったが、それがなぜかそのタイミングで唐突に物々しい存在感を伴って思い出された。後悔や希求というような強い感情ではなかった。ただ、もうすぐ自らの人生が終わりを迎えると仮定して、その人生に歌集がある場合とない場合とを比較した場合、前者の方が面白かろうと、他人事のように思っただけだった。

 結局、医師による診断はストレス性の急性胃腸炎で、しばらく休養をとれば問題なく回復するだろうとのことだった。どうせ死ぬなら歌集をどうのこうのというのは、苦痛に対する耐性の著しく低い私が、混濁した意識の中で勝手にパニックを起こしただけのことで、実際には命の危険など微塵もなかったのだ。実際、その後入院することもなく、1週間の自宅療養を経て仕事に復帰した。

 ただ、たとえ非常時の混乱の中で突発的に湧いた妄念であるにせよ、歌集を出せばよかったという思いを自らが抱いたことは紛れもない事実で、せっかく稀有な経験をしてそこから教訓を与えられたにもかかわらず、それを生かさないのはひどくもったいないように思えた。そこで、学生時代に詠んだ短歌の中から100首を選んで並べた、簡素な歌集を制作することにした。それが第一歌集『もうちょっと生きる』である。あくまで学生時代に詠んだ短歌を一冊にまとめるのが目的で、そこから歌人として活動するつもりなど全くなかった。完成した歌集を友人たちに配りさえすれば、もういつ死んでも思い残すことはない──、となるはずだった。

 ところが、困ったことになってしまった。そもそも私は友人が少なかったのだ。歌集は数冊配って終わりである。友人だけではなく知人にまで配る対象を広げても、プラス10冊程度の上積みにしかならなかった。いったん書店に流通させる分も含めて、私はなぜか歌集を500冊も刷っていた。その段階から新たに480人の友人を作れば解決する話ではあったが、そんなミラクルは望むべくもない。また、恥ずかしながら当時は謹呈というシステムも知らなかった。もはや大量の歌集が手元に残ることは必定のように思えた。そして何より、せっかく歌集を制作したのに十数人に配って終わりというのはあまりにも寂しすぎた。

 そこで思い出したのが、葉ね文庫である。詩歌に特化した書店が大阪にあるという噂は以前から聞いていた。そのことをふと思い出し、自分の歌集を置いてもらえないだろうかと図々しく考えたのである。もし置いてもらえるならば、あと数人は歌集を読んでくれるかもしれない。そうなれば今度こそ未練がなくなるのではないかという期待があった。色々と躊躇いもあり、突撃の決心がつくまでにはそこから3カ月を要してしまったが、初秋のある日、太腿を拳で叩いて自らを鼓舞しながら、歌集を持って葉ね文庫へと向かった。

 木曜日の夜7時、開店と同時に葉ね文庫に入った。「やってますか?」と尋ねながらドアを開けたものだから、なんだか開店直後の飲み屋に入るみたいになってしまったが、店主の池上さんは温かく迎え入れてくれた。本を買わずに自著の売り込みをするのは失礼だと思う一方で、欲しくない本を儀礼的に買うのはもっと失礼だと思ったので、30分ほど丹念に棚を物色して、本当に欲しくなったものをレジに持って行った(1冊のつもりだったが2冊になった)。池上さんは「これ両方とも面白いですよね」と言ってくださり、なんだかそれだけで目的を果たした気になってしまい、そこから色々と世間話をしていたのだが、途中でふと我に返り、会話が途切れたタイミングで鞄から自分の歌集を取り出し、この店に置いてもらえないかとお願いした。緊張のあまり、「売れてもお金は結構ですから」「売れなかったらいつでも処分してください」などと妙なことを口走ってしまった。一方の池上さんは冷静で、私が手渡した歌集をしばらくチェックして、とりあえず3冊入荷したいと言ってくださった。嬉しかった。そのときは1冊しか持っていなかったため、また出直す旨を伝えて足早に葉ね文庫を後にした。去り際は失礼だったかもしれないが、その嬉しさを温存したまま酒を飲みたかったのだ。

(※現在では持ち込みは原則NGとなっているようですので、どの口が言うかと思われそうですが、同様の行為はご遠慮いただけると幸いです。)

 そして2日後の土曜日、歌集を3冊持って葉ね文庫へ納品しに行った。これでもういつ死んでも思い残すことはない──、とはまたしてもならなかった。納品が終わった後も、葉ね文庫へはしばしば通うようになった。短詩型の本の品揃えは素晴らしいし、何より池上さんや他のお客さんとの交流が楽しい。今でも葉ね文庫は、私が素面で他人と会話を楽しめるほとんど唯一の場所である。そして、葉ね文庫で出会った歌人の笹川諒さんに背中を押される形で、私は再び短歌を作るようになった。そのまま短歌を作り続けて、第二歌集まで出すことができた。

 もし第一歌集を葉ね文庫へ持ち込んだとき、取り扱いを池上さんに断られていたら、私が作歌を再開することはなかっただろう。もちろん第二歌集が生まれることもなかった。そう考えると、池上さんには足を向けて寝られない。いや、そもそも池上さんと同じ世界で私が寝ていること自体が畏れ多くて仕方ない。

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著者プロフィール

1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124


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