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【三田三郎連載】#002:積極的飲酒と消極的飲酒

※こちらのnoteは三田三郎さんの週刊連載「帰り道ふらりとバーに寄るようにこの世に来たのではあるまいに」の第二回です。
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積極的飲酒と消極的飲酒

 この世界における飲酒は二種類に大別される。快楽を得るための飲酒と、苦痛を和らげるための飲酒である。
 
 飲酒と言って一般的に想像されるのは前者であろう。家族や仲間と談笑したり騒いだりしながら楽しく飲む酒もそうだし、一人でリラックスしながらじっくりと味わう酒もそうだろう。このように、とりあえずは安定的な日常生活がベースとして前提され、そこに快楽を付加するために行われる飲酒の様態を、「積極的飲酒」と呼ぶことにしたい。
 
 一方で、平穏で幸福な暮らしを享受している人々には理解し難いことかもしれないが、この世には自らの抱えている苦痛を和らげるために飲む酒というのも存在する。辛い過去や厳しい現状を忘れるために飲む酒がそうだし、いわゆるヤケ酒もこれに当てはまるだろう。また、心身に何らかの問題を抱えていて、一時的にその苦しみから逃れるために飲む酒もこちらに該当する。このように、そもそも生活や心身の安寧を阻害するファクターがあり、それによって生じている苦痛を軽減するために行われる飲酒の様態を、「消極的飲酒」と呼ぶことにしよう。
 
 では、私の飲酒はどちらに当てはまるのかと言えば、基本的には消極的飲酒タイプである。後述のように、最終的に積極的飲酒へと到達するケースもあるのだが、まずは消極的飲酒として私の飲酒はスタートする。私は多種多様な苦痛のコレクションを保有しているので、それを少しでも減らすために酒の魔力を利用する必要があるのだ。読者は別に知りたくもないだろうが、この場を借りて現在の私が抱えている苦痛を思い付くままに列挙してみたい。
 
 仕事のストレスは蓄積される一方で解消される見込みがない。両親の体調はほとんど不可逆的に悪化し続けていて回復の望みは薄い。過去を振り返れば抹消したい記憶ばかりだし、未来に目を向ければ不安で視界が埋め尽くされている。恋人との関係で悩んでいるのならまだしも、そもそも恋人がいない。かつての友人たちはみな申し合わせたように東京へ行ってしまった。ネットやテレビを見れば、およそ正気の沙汰とは思えないことばかりで気が滅入る。加齢による肉体の衰えを感じることが増え、胃はもたれるし腰は痛いし目はかすむ。洗濯機は調子が悪いし、電子レンジは完全に壊れている。近所のコンビニの店員に嫌われている。隣家の飼い犬が私にだけ吠える。玄関でいつもミミズが死んでいる。
 
 まだまだあるが、これくらいにしておこう。こうした世俗的な苦痛は枚挙にいとまがない。おまけに、自分が自分であることの不快とか、自己に内在する他者性への恐怖とか、自らの意志によらずこの世界に生まれたことの不条理とか、実存的・存在論的な苦痛にまで悩まされている。これで酒を飲むなという方が無理な話ではないか。
 
 こういう話をすると、決まって「その程度の苦しみなら私も抱えているが、私は酒を飲んでいない。苦しみを口実にして酒を飲むな」といった批判を受けるのだが、それはおかしな道理である。だったらその人も酒を飲めばいいだけのことで、私に酒をやめろというのは筋違いである。同様に、「みんなそれくらいの苦しみは抱えている」という主張に対しては、だったらみんなで酒を飲みましょうと答えておきたい。
 
 さて、私は前述のような苦痛を和らげるべく酒を飲み始めるのだが、やはり酒は裏切らない。二、三杯も飲めばあらゆる苦痛が和らいでいくのを実感できるし、そのまま飲み続けていればある段階で完全に苦痛が消失する。その状態にまで至れば、消極的飲酒としての目標はめでたく達成されたことになる。
 
 そして、もしこの時点で幸運にも諸々のコンディションが良好であれば、私の消極的飲酒は積極的飲酒へと移行する。消極的飲酒によって苦痛が消去され、快楽を積み上げていくための基礎が整備されたことで、以降は積極的飲酒が可能となるのだ。そうなれば、あとはひたすら快感を増大させるだけの、純粋に楽しい飲酒が待っている。このモードに突入すれば、もう怖いものなど何もない。難しいことは考えず、一心不乱に飲み続ければいい。
 
 ただ、その無敵モードに入ったとしても、いくつか気を付けなければならない点がある。まず、飲み過ぎて気持ち悪くなってしまっては、積極的飲酒が一転して単なる苦痛へと変貌することになる。そうなってはせっかくの積極的飲酒が台無しなので、せめて就寝までは快感を維持しなければならない。私もかつてはしばしば飲み過ぎて気持ち悪くなっていたが、長期にわたる厳しい訓練を経て、最近はそういうことがなくなった。
 
 そして、次に問題となるのが二日酔いである。二日酔いもまた、積極的飲酒を楽しみ過ぎた先に待ち受けている苦痛である。もちろん、理屈としては二日酔いにならない程度に酒量を抑えればいいのだろうが、それはあくまでも理屈でしかない。翌日の二日酔いのリスクを高めている時間帯は、積極的飲酒において順調に快楽を積み上げている時間帯と重なるので、そこで飲酒を打ち切るという選択肢は事実上あり得ないのだ。積極的飲酒によって生じる二日酔いは、快楽と引き換えに支払う代償として甘受すべきであろう。私も二日酔いはどうしようもないものとして無抵抗で受け入れている。
 
 そう考えると、二日酔い自体はさほど大きな問題ではないのかもしれない。実のところ、より警戒すべきなのは迎え酒の方である。迎え酒は、二日酔いの苦痛から逃れるための飲酒だから、純然たる消極的飲酒である。そうすると、消極的飲酒から始まって、幸いにも積極的飲酒へと移行できたのに、そこから生じた二日酔いの苦痛から逃れるために、また消極的飲酒へ飛び込むという、危険なループが形成されてしまう。
 
 いや、このループが積極的飲酒を経由しているうちはまだ救いがあるのかもしれない。毎日迎え酒をするような無茶を続けていれば、いずれそのループから積極的飲酒の時間が脱落するに違いない。そうなったときに残されるのは、二日酔いと迎え酒とを往復するだけの苛烈な輪廻である。
 
 私は現在のところ、迎え酒をすることはほとんどない。迎え酒を我慢することで、積極的飲酒から消極的飲酒へと至る経路が誕生するのをなんとか阻止しているのだ。自らの抱える苦痛を軽減するために、私は飲酒よりも効果的な手段を見つけることができない。また、ひとたび消極的飲酒から積極的飲酒へと突入したら、ひたすらに快楽の増大を追求してしまうから、翌日の二日酔いのリスクを回避するために酒量を調整することもできない。そうであれば、私にできるのは、誕生しつつある苛烈な輪廻を、迎え酒の地点で断ち切ることだけなのである。

活力の錬金術の代償が二日酔い程度なら儲けもの   三田三郎


著者プロフィール

1990年、兵庫県生まれ。短歌を作ったり酒を飲んだりして暮らしています。歌集に『もうちょっと生きる』(風詠社、2018年)、『鬼と踊る』(左右社、2021年)。好きな芋焼酎は「明るい農村」、好きなウィスキーは「ジェムソン」。
X(旧Twitter):@saburo124


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