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総理だって、成長する。(ドラマ「総理と呼ばないで」を観て)

1997年、フジテレビ放送の連続ドラマ「総理と呼ばないで」。

脚本は三谷幸喜、主演は田村正和。26年前のドラマとは思えないほど、素晴らしい作品だった。(TVerで鑑賞)

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三谷作品で「総理大臣」を取り上げた作品として、2019年公開の映画「記憶にございません!」がある。

・総理大臣が主人公である
・史上最低の支持率である

という共通点があるけれど、個人的な感想は26年前の「総理と呼ばないで」の方が圧倒的に面白い。正直なところ、美術はスカスカで、首相官邸のシーンも明らかにスタジオで撮影しているような趣がある。

それなのに面白いのは、やはり脚本の力だろう。

「記憶にございません!」はハッピーエンドで終わるが、「総理と呼ばないで」はハッピーエンドで終わらない。結局、「史上最低の総理」の汚名は覆せず、世間の評判は芳しくないまま、主人公は政治の世界を追いやられてしまった。(いちおう議員は続けるっぽいが、在野に追い込まれ、もはや挽回も不可能である)

それなのに、なぜ面白いのか。
それは、総理がちゃんと成長を示してくれたからだ。

例えば終盤、こんなシーンがある。

側近の政務官が汚職に手を染め、政府の継続が立ち行かなくなったとき。総理は政務官をかばい、自らが「汚職に手を染めるよう指示を出した」と嘘をつく。もちろん嘘は良くない。だが、「責任は自分がとる」という決意のもと、長年歩みを共にしてきた政務官のキャリアを守ったのだった。

ドラマ序盤の総理は酷かった。(いや、まあ全編通してポンコツではあったのだが)

嘘をつく、セクハラをつく、他人のせいにする、謝らない、権威をかさに威張り続ける。(まるで日本の政治家である。oops!)

人間として最低で、仲間からも軽蔑される始末。支持率が下がるたび(最終的に0.05%まで落ちた)に、誰もが自信をなくしていった。

だがその終盤で、秘書官が用意した原稿をかなぐり捨て、「全部、私の責任です。私が悪い。ごめんなさい」と潔く謝った姿は、見ていて清々しかった。

最終話、総理が首相官邸を去るとき。ラストシーンをキャプチャーした写真で全員が笑顔になっていたのが本当に良かった。コメディで、泣ける要素など一切なかったはずなのに、ちょっとだけ目元が緩んでしまった。

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脚本の妙もありつつ、細かな設定も気が利いていた。

例えば僕は「総理」「政務官」「秘書官」といった役職で登場人物のことを呼んでいた。実はこれ、ドラマの中でも同様である。

ほとんどの登場人物には、名前が与えられていないのだ。

田村正和さん演じる総理は「総理」と呼ばれ続けるし、総理も相手のことを、「お前」「あなた」「あいつ」と言う。

匿名性が高いというよりも、ある種、コメディというフォーマットで政治を批評したといえる

実際に政治家も、「総理が〜〜」「文部大臣が〜〜」といった感じで、名前よりも役職が重く用いられる。本作は田村正和さん演じた総理と、鈴木保奈美さん演じる総理夫人の夫婦仲が冷え切っていた。最終的に会話も成立するようになるのだが、それまでは目も合わせない、会話もしないといったコミュニケーション不全を撒き散らしていた。そういったのも、「こういう夫婦ってあるよね」と、当時の夫婦の関係性を言い当てていたんじゃないだろうか。

世間から見たら惨めだけど、一番信頼を寄せる仲間からは「格好いい」と思われる。それって、それだけで、十分幸せなことだ。

もちろん総理たるもの、政治責任を果たすという義務がある。仲間から「格好いい」と言われるだけでは不十分なのは間違いない、間違いないのだけど、これはフィクションだ。

「総理」というフィルターを通して、「格好良さ」のあり方を本作は提示している。脚本の妙、そして言うまでもなく、田村正和さんの佇まいがそれを可能にしているのは、間違いないのだけれど。

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