【小説】カメラトーク、セッション(BOOK1) 1章

Ⅰ. ジャンク、意味のない落書き

 凡庸な私たちの毎日は無為無策の連続だ。
「違う」と否定する人間たちの生活と比較・参照したとしても、やはり大きな違いはないだろう。私は思う。大なり小なり、私たちは平凡を追求している。私たちは平凡を愛し過ぎているのだから。
 未来のことは誰にも判らない。一秒先に繰り出そうとしている意志決定は、いずれ自分にとっての面倒となり、多かれ少なかれ、他人にとって迷惑を呼び起こす。些細な認識のズレが衝突を招く。けたたましく静謐とした世間の喧噪は、それらの集積だ。人間たちの呼吸、その間隙を縫うように、私たちは居場所を捜す。捜せない者は影と同じだ。踏まれたが最期、永遠に眠る。

 恩恵を享受するためには相応の代償を払わなければならない。汗水垂らし生命を擦り減らして懸命に働くこと。文字通り生命を落す人間もいる。必ず死が隣り合わせの時代だ。
 トレード・オフをすり抜けて、甘い汁を吸う狡猾な猿たちもいる。そのせいで、いつだって果実はかすかすに薄い。生き抜くために、僅かに残った糧を獲得しようと、人間たちは消耗戦を繰り広げる。この世界でルールとマナーを護れない人間は、落伍者の烙印を押される。

 救いはある。
 私たちの世界に、たくさんの優しい人間がいることだ。
 時には暖かい言葉で励まされる。例えば?

「気楽にやろうよ」
 気楽にやれば、どんなことでも前向きに捉えられるかもしれない。

「なるようになるさ」
 自然体でいれば、時間が課題を妥結に導くかもしれない。

 進路選択、就職、パートナー選び、天気予報、経済政策…。突然の雨に降られ、ろくでもない意志決定に振り回されることも、心意気できっとやり過ごせる。笑えないときでも口角を上げれば良い。きっと奇跡みたいなことが起きて、いつかダレカがナニカを処理してくれる。
 あるいは、質の悪いロックンローラーが「あなたは大丈夫」と言うだろう。あなたはきっと、大丈夫。(ねえ、確からしい真実に洗脳された気分はどう?)

 そんな人間はペテン師だ。金魚の餌にもなりはしない。禿げて死ねばいい。
 Oops. あまり快くない自己紹介だったかもしれない。許して欲しい。でも、それが私だ。私は救いなんて求めない。付帯条件の多いメイビー、マイトビーの海の中で、方針さえ決めれば泳ぐことは困難じゃない。そこから達成を視出すことも。Maybe.

 ここまで。私は未来の不確からしさを述べたけれど、結局のところ、過去から現在に至るまで、自分自身の全過程を掌握しているわけではない。歴史観は曖昧。自分のことは自分が一番良く判っている、というのは出鱈目で。暴かれる反証に怯えながら、私はひたすら現在を切り取ってきた。(そして闇に葬ってきた)

 もう少し具体的に、私の話をしても良いだろうか。
 この六年間、私は私を取り巻く事実を残してきた。事実だけを、なるべく簡潔に。付き合っていた恋人と別れる直前、ふとしたことがきっかけで始まった、誰にも読まれない短いmémoires.
 喜怒哀楽を極力排しながら。私の行ないを客観的に評価できるように。どの角度から視ても、完璧なノートとして機能するように。メモの如く簡便さが肝要だ。メモはメモリーと結びつく。詰まらないダジャレ。洒落た要素はどこにもない。でも、そういうことだ。

 それから推察するに。私を愛した男は、私の生きてきた二十九年間で四人いた。愛することは、関係を持つことと同義ではない。愛することは、圧倒的な百パーセントの温度と意志と意欲で接するということだ。

 例えば、
 性行為のあいだに、ビートルズの音楽をかけないということ。

 例えば、
 性感帯を刺激するでなく、受け容れるがために耳を舐めるということ。

 時には、
 優しさと一緒に、暴力を行使するということ。注:暴力とは、肉体や精神を傷つけることとは限らない。

 それらを満たす愛には、なかなか巡り会うことはできない。

 私を愛した四人の男と、私はこの先二度と会うことはない。
 (愛の始まりに理由はないが、愛の終りには理由がある)

 一番目の男は、ありきたりで凡庸な男だった。私の記憶から、いつ消えても可笑しくないほどに。
 毎回同じようなデートをして、同じような濃い味のラーメンを食べて、同じような体位のセックスをした(彼がコンドームを装着していた記憶は殆どない)。当たり障りない会話は、まるで微風のように、部屋のカーテンを揺らすだけ。彼は私を愛して、私は彼を愛さなかった。そんな関係は永く続くまい。短くはない時間の中で得た、為にならない人生訓。

 最初のうち、彼は挨拶のように「好きだ」と私に言った。彼は私の左側に立つのが好きだった。右手で私の左手を握るのを常とした。右手で私の髪をくしゃくしゃにした。真っ直ぐ私の眼を視つめ、何でもないようにキスをした。私は眼を瞑り密やかに、明日の朝食は何を作ろうかと考えていた。
 周囲には、蜜月のように視えていただろうか。二人を結びつけていたものは、あまりにプラクティカルで俗物的だった。お互いの誕生日にプレゼントを贈るとか、判りやすいギヴアンドテイクが発生し、チクタクと乱れないリズムが刻まれる。本質的な交流はない。確実に、二人の世界はそこにあったのだけど。

 でも、その世界の中で、お互いが孤立を余儀なくされていた。圧倒的な不可抗力は若さゆえではあるまい。前提として、決定的に欠如していたナニカ。二人とも欠如していたのだから、補足も補助もできやしない。
 ゆえに非連続に訪れる偶然が、すれ違いを発露させる。ボタンのかけ違いは必然だった。ポップと前衛を絶えず行き来する実験的な音楽のように。ロジックはあまりに遠く飛翔し、誰も追いつくことができなかった。

 最期の頃、彼はマントラを唱えるように「愛している」と私の方に言った。じめじめとした湿り気が、私の可動域を小さくしていく。いつしか私と彼の間は、重く巨大な回転扉で仕切られるようになった。気付けば、それは外側にしっかりと根付いていた。ひゅうひゅうと不快な音が風を切り、生ぬるい空流が渦巻いている。彼は、その内側をぐるぐると廻り続けていた。私にもそれを求めたが、かなり前から、私は別のボートに乗り込んでいた。回転扉に留まり続けた私は別人格、あるいは残像に過ぎなかった。彼は汚い言葉で私を罵った。涙が出るほど乳房や腕や太腿をつねり、他人の眼に付かない部位をライターで炙った。その後でひとしきり私を抱き、彼は泣いた。

 結局のところ。彼は私を視てはいなかった。彼自身を壊しているだけだった。
 壊れていく彼を視るのは、気持ちの良いものではない。彼は本質的にまともな人間だったから。彼を不幸せにする要因は、私たちの方にあったのだろう。明白に。彼と一緒にいれば、否応なしにその崩壊の様を直視せざるをえない。関わらなければならない。致し方ない、それが残像の義務だ。
 カケラのような分銅が、一方の上皿天秤に積み上げられていく。残像(あるいは影)は、彼と同じ仄暗い穴倉に閉じ込められた。彼が混沌とのたうち廻っている。「踊るしかない」と脅されているかのように。ダンス・ステップは、痛々しいほどに華麗だった。

 私は泣かなかった。

 そうして。いつしか彼は、鞄にナイフを忍ばせるようになった。刃先は、私の生命を狙っていたのだと思う。身の危険を感じて逃げることも考えたが、彼に殺されるのも悪くないように思えた。敢えて逃げたとしても、私たちに行き場はないのだ。
 彼と会い、交流の意図を示すことは、私たちに与えられた唯一の義務だった。会うたびに、その日彼が何度笑うかを記録した。その数が二桁から一桁に落込み、程なくしてカウンターは作動しなくなる。故障ではない。彼の眼孔から、鋭い光が止むことなく放たれていた。ぶつぶつとナニカを呟いていた。私は聴こえないフリをして、スマートフォンを弄っていた。落書きできないような黒い画像ばかり検索し、それらを総て東京湾に廃棄してやろうと画策した。

 彼に殺されるのを待っていたが、その瞬間は永遠に訪れなかった。
 ナイフは先に、彼の喉元を貫いた。

 浴室で血にまみれた彼は、かつて鮮やかだった紅葉がその役目を終たときのように、土色に変容していた。眼は大きく視開かれ、私の方を睨みつけているようだった。酢を思わせる尖った臭いが充満していた。間違いなく彼から発せられているものだ。その異臭は、今も鼻に残る。

 私が殺した。殺したようなものだ。
 義務を果たせなかった。私のせいだったんだ。

 彼がいなくなって六年の月日が流れた。記憶は徐々に平面的になり、細部は曖昧になっていく。事実だけが褪せずに存在し、錆びた鎖のように私を制御する。

「私と一緒にいて愉しい?」
「愉しいよ。啓子のことが好きだからね」
「もし、私のことを嫌いになったらどうするの?」
「啓子を好きな気持ちがなくなったら、俺の生きてる意味なんて、ないよ」

 彼がそんなことを言ったのを憶えている。誰も崩壊していなかった季節は、例年に比べ蒸し暑い夏だった。油蝉がひっきりなしに吠えていたけれど、気付かないフリをして、私は遅めの朝食を準備していた気がする。
 愛されていたことへの返礼は、同じような言葉をして、彼に伝えたことだった。その罪もない発言(意志決定)は、結果的に決定的に誤りだった。私にとって消えない傷であり、言うまでもなく、締め付ける痛みを伴い続ける。

 生きる意味なんて、ない。でもそれは誰だって同じだろう。
 それでも私には許されている。記憶を思い出として切り取ることが。

 良い思い出もあれば、悪い思い出もある。
 一方は胸に秘めたまま、一方は鴉のもとに。
 悪い思い出は鴉のもとに、生ゴミと一緒に放り投げよう。仮定の世界はいつだって便利だ。

 今だって、グーグルで彼の名前を検索すれば、ふらっと彼の顔面が投影される。情報社会の賜物だ。

「ねえ、でもそれは誰のため」

 それは、思い出したくない相手から来た、読みたくない手紙のようなもの。
 開封するかしないか、私に選択権があるのなら、もちろん私は開封しない。
 しかしここは、あまりに暴力的に無関心な世界。強制的に開封を迫られるケースが大半を占める。そんな手紙を既読にしたまま、私はこの先、私の世界をリードしなければならない。
 逃げちゃ駄目だ。逃げれば抹殺される。ペナルティを負うことになる。前進したとしても、それは罠だ。チャレンジという錦の御旗のもと、リスクの中に飛び込む勇敢な志士たち。私に自由を、さもなくば死を与え給え。

 ああ。思い出したくないし、読みたくない。ミスリードに決まってる。
 一方だけの場合と比べて、不快感は倍以上になるかもしれない。あるいは幸運なことに、負の部分が相殺され、不快感が和らぐかもしれない。でも、正の値に転化することは殆どないはずだ。

 奇跡、ミラクル、クリスマス。
 数学や論理で、世の中の総てを説明することは困難だ。整頓された公式を幾重にも振りかざし、無理数を根気強くカウントして得られるものはナニカ。3.14159265368979323846…?
 膨大な時間と、遂行する意志と体力が求められる。ただし証明の果てに、クエスチョンマークが漏れなく付与される。視える終りが、本当の終りか判らない。
 でも、それが残された私にとって、最初で最期のアサインメントなんだ。私だけのユニークID、私だけの存在証明。解明に向けて、私は物語を立ち上げる。

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