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雑草をむしる。

賃貸マンションから一軒家に移り住んだことで、管理人さんの「管理」がいかに有り難かったかを実感している。

ゴミ出しは決められた曜日、決められた時間にしか出してはいけない。「そりゃ、そうだろ」というルールでさえ、気ままなマンション暮らしに慣れた人間としては、結構つらいものである。

もうひとつ、しっかりやらなければならないことが、庭に生息する雑草を抜くことだ。しばらく誰も住んでいなかった土地なので、雑草が生え放題の環境になっていた。一部はブルーシートが敷かれていたが、より良い庭づくりのためには、まずは雑草を取り除かなければならない。

そこで朝、5〜10分間だけ時間をとり、毎日「雑草を抜く」作業をルーティンとして組み込むことにした。まだ家族が起床していない早朝、鳥の鳴き声を聞きながらせっせと雑草を抜くのは気持ちが良い。我ながら良いリズムを作れたなあと満足していたのだが、それでも「雑草だらけ」の様相に変化は見られなかった。

ということで、今週土曜日、満を持して雑草むしりに1日を割くことにした。根が深そうな雑草(むしろ小さい木くらいの高さがある)は、スコップで土を掘り起こし、根から引き抜く。タンポポなど、引っ張ってもなかなかとれない植物も同様だ。軍手をしながら、雑草を抜いていく。

それはもはや、「抜く」のではなく「むしる」であった。

植物を擬人化したら、植物視点でみればホロコーストである。「ホロコースト」なんて迂闊に使うのは不適切極まりないのだが、いかにシステマティックに雑草をむしるのかを考える様は、さながら映画「関心領域」の主人公・ルドルフ・フェルディナント・ヘス(以下「ルドルフ・ヘス」、アウシュヴィッツ収容所長)のようではないか。凡庸な僕は、凡庸ゆえに工夫をほどこして効率的に雑草をむしろうと試みた。時代と場所が異なれば、僕もルドルフ・ヘスになっていたかもしれない。

そんな不適切な比喩に負けず、作業の甲斐あって庭はかなり綺麗になった。これから夏にかけて雑草もまた伸びていくだろうが、引っ越し当時よりもかなり整頓されてきたのを実感する。戦後、絞首刑に処せられたルドルフ・ヘスとは大違いの達成だ。

だが、雑草をむしったことによる代償はあった。握力が、ほとんどなくなったのだ。1日経った今でも、完全には戻っていない。

賃貸マンションの管理人さんは、言うまでもなく有償労働である。一方で僕は無償労働で、金も名声も得ずに握力を失った。庭を持つというのは、村上春樹さんも短編『午後の最後の芝生(『中国行きのスロウ・ボート』に収録)』でも書かれていた通り、なかなか骨の折る対価を払わねばならぬことなのだ。

ただ、庭を気持ち良く走り回る子どもたちをみると、多少は報われた気分になれる。僕も、一昨日よりは昨日、昨日よりは今日という感じで、清々しい感覚だ。

たぶん、これからも「雑草をむしる」作業は際限なく続いていくはずだ。そのたび、多かれ少なかれ握力を失うと思うけれど、心してその作業を受け入れたいと思う。

この達成が、小さくも自分自身の尊厳につながっているような気がするから。

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