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一般人でも「神様」の存在を感じられる簡単な方法

勿体ぶらずに結論から申し上げますと、一般人でも神様の存在を感じられる方法は「神無月に神社に参拝すること」という発想に至りました。

私がこのような記事を書くに至った経緯につきまして、詳しくはこちらのブログ記事をご参照ください↓

縮めてご報告させていただくと、昨年11月にひきこもりである筈の私が決行した小さな電車旅と、その出先で参拝した神社で感じた「神様がおらず、空っぽな感じ」が今回の事の始まりです。そんな内容の記事を此処noteではなく"はてなブログ"の方に投稿していたのですが、それに偶然目を通されたスピリチュアルに詳しい知人が「神無月だったのではないか?」という提言をくださって、調べてみるとまさにピッタリで驚いた……という流れになります。

伝承に依ると、「神無月」とは日本各地の神様方が、出雲大社で一堂に会される期間であり、故にほとんどの神社が"留守"の状態になってしまうようです。一方、出雲大社の側からすれば大勢の神様で賑わう時期であり、それで「神在月」という風に反対の表記をするのだとか……。

私が知らず知らずのうちに為してしまった神無月での参拝。そこで胸いっぱいに味わったアノ寂しい「神の不在感」。それも振り返れば非常に良い経験でした。

「では、神無月が終わった後に同じ神社に参拝すればどうだろうか?」と無邪気な好奇心が湧いてくるのも、欲も資産も薄っぺらい割に好奇心だけは一人前の私には時間の問題でした。

何故だか神様が居ない気がして、神聖な空気も無いようで、普通の公園みたいに見えてしまった、件の神社。そこを今月の頭に再び参拝してきたのですが、案の定、別格の違いがありました。

まず一つ目に、境内に踏み入れた瞬間からピンと張る空気が違います。初めに空気が張り詰めたような緊張感が起きて、それに浸る内に奥にある清々しさや、安心感に気が付くのです。「お天道様は見ている」なんて言葉がありますが、まさにそんな風に"遥か上空からの視線"のようなものも微かに感じられます。

そして二つ目に、匂いが全く違うことに気が付きました。これは比喩的な表現ではなく、実際に鼻の嗅覚で感じ取れる匂いを指しています。私には神社以外で嗅いだことの無い匂いですが、印象だけで勝手に例えるならば、高い着物や化粧箱、古い絵巻に描かれた貴族らの歩いた廊下の残り香、月夜に現れる透明の花、胸に流れ込む清涼感に日頃の俗心も正されてしまうような、そんな凛として高貴な匂いです。ただ単に神社の従業員らが着ている和服の匂いが広がっているのかとも疑いましたが、それにしても境内一帯に及ぶ広範囲になるとは考え難く、ちょっと説明が付かない気がしました。

「神様の匂い」というものは、スピリチュアルの界隈でも取り上げられているようです。そして、そこで書かれているいずれの表現も、私が感じたあの形容しがたい"高貴な匂い"と合致しているように感じるのです。あれは本当に神様の匂いなのかも知れません。

つまり、神無月とそれ以外の日で交互に神社参拝をして、カクテルの飲み比べの如く違いを探っていただければ、あれこれ議論されがちな「神様」という存在をもっとご自身の体験として、もっと身近に感じていただけるのではないかという発想を記事にしてみました。

私といえば特に霊的な修行も信仰もしていないただの一般人(どころかひきこもり)ではありますが、今回はちょっと面白い発見をできた気で居ます。ご興味のある方は是非試されてみてください。

「神」という存在についてはこれまでのnote記事でも度々取り上げてきましたが、今回の件ではまた一層彼らへの親近感が増すことになりました。ただ一方で、私にはまだ神々が何を考えているのかがわかりません。何やら神妙そうにやってくる参拝客らを眺められては一体何をお感じになり、何を望まれるのか……。私自身もこんな風に好奇の目を光らせて、歓迎されるのか怒られてしまうのか……(笑) そのわからない所が怖いと同時に美しいような気がします。「理解は出来ないけれど、確かに尊い」思えばこのような畏怖の感覚も、とにかくわかりやすいものばかりに飛びついて、難しいものにはすぐ蓋をしてしまう昨今の大衆が忘れかけているものではないでしょうか。

まだまだわからないことの方が多く、故に畏怖に値する「人類」と「神々」について、今後も私は「ひきこもり」という名のある種の異星人として、調査を進めて参る所存です。





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