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炭鉱

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昭和30年代まで長崎県内に無数にあり、地域の発展を支えた炭鉱のこと
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或る、軍艦島で生まれ育った方のサイトより ~ 「4.爺ちゃんのこぼした話」

*** 哀しい話である。 今、多くの観光客が「軍艦島上陸ツアー」で島を訪れているが、こういう話はまったく耳にしないこと。いや、できないこと。 「日本人に気に入られようと」というくだりが、本当に哀しい。 戦争とは、人の中に眠っている「差別」を、これでもかというくらいに増長させるのである。

坑口は巨大な地下・炭鉱街への入り口

おそらく炭鉱で働いている時に、坑口から先の世界がどうなっているのか、を詳しく喋り続けた炭鉱マンはいなかっただろう・・と思われます。 そうすることは、やたら家族の不安をかきたて、心配させることになってしまうからです・・・・ 今日も満船の状態で向かっているであろう軍艦島ツアー。その特異な島の景観に驚かれる人も多いと思いますが、実は海上の島は、巨大な「地下炭鉱都市」の氷山の一角にすぎません。 端島(軍艦島)鉱では、最深部が940m。最奥が坑口から2~3km。垂直に上下する竪坑道

「 人口擁壁 (じんこうようへき) と二隻の軍艦島?」

「端島(軍艦島)」と島の名が付くものの、元々の端島の姿というのは・・・・よっぽど凪の日に、お百姓の釣り人が上陸してのんびりと釣りを楽しむぐらいの、岩場か瀬といった場所でした。 説によると埋め立て前の面積は、現在の1/6にも満たないということです。 石炭の発見自体も、釣った魚を岩場で焼いて食おうとしたところ、付近の黒い石が燃えだして、「こりゃ燃え石だ!」などといったことのようです。 当然大きな波がやってくれば、海面から50mにも満たない岩礁は荒波に洗われるわけで・・・このような

「軍艦島グラフィティ」 むらかみ ゆきこ

実は、私はイメージとして「軍艦島好き=廃墟マニア」?という偏見が強く、特に廃墟写真集とかは、手を触れたことすらありませんでした。 そんな頑固な私のココロをおしひらいてくれたのが、この絵本でした・・・・ 著者の村上さんは、6歳まで(昭和49年の閉山時まで)、軍艦島で暮らしていた方です。 その中の、この頁。『クァツン クァツン・・・「もうすぐだけんね」と お母さんの声・・・』 一体、どういう島だったんだ!?船に乗るためにトンネルって? そして海の中の小島のドルフィンって??

地底の記録ー呪詛 坑内馬と馬夫と女坑夫 ③ 武松 輝男 著

※著者も亡くなり、出版社も無くなってしまった。 古書もweb上でも、ほぼ見つけることができない。 このままでは、唯一詳細な「坑内馬」の記録が消滅してしまうと危惧し、ここに写し取っておく。 ・・・は停年時の半分になってしまうような制度にしている。 これでは家庭的か、 あるいは身体的な抜きさしならない事情が生れてこないかぎり、辞めることはできない。 坑内での作業がどれほど危険であっても、仕方がないとあきらめる以外にないのである。 そのような坑内職場へ、 父親が災害で死亡したた

「 竪坑櫓 」

この漢字を見て、すっと(たてこうやぐら)と読めるのは、ある程度「炭鉱」に興味を持っているヒトだけでしょう・・。 「三菱高島炭鉱端島鉱業所」のあった端島が軍艦島と呼ばれるようになった要因のひとつが、この竪坑櫓であることは、言うまでもないのですが、そもそも何故このような櫓があるのでしょうか? 岸壁を壊すような荒波や強風が吹き荒れるこの場所に、このような高さ47mもある櫓を建設すること自体が無謀のようにも思えます。 これは軍艦島にあった第2竪坑櫓です。この櫓の下には地底600

地底の記録ー呪詛 坑内馬と馬夫と女坑夫 ② 武松 輝男 著

※著者も亡くなり、出版社も無くなってしまった。 古書もweb上でも、ほぼ見つけることができない。 このままでは、唯一詳細な「坑内馬」の記録が消滅してしまうと危惧し、ここに写し取っておく。 ・・・二基の墓石がみえるだけである。 一基は台座だけであるが、墓地につきものの花立ても見当らない。  私はずいぶんと、あちこちで墓地群を見たことがあるが、どんなに山の中の古びた墓地であっても、この密生した熊笹に、埋もれているような荒れ果てた墓地を、いまだかって見たことはない。 坑内で死亡し

松浦鉄道・神田駅 ~ 馬たちが送炭トロッコを曳いていた軌道

松浦鉄道、神田(こうだ)駅。乗降する人もまばらな無人駅です。 しかし、石炭で賑わった頃、佐々町にある国鉄佐々駅、小浦駅、神田駅に職を持つ国鉄職員は総勢400人を越えていた、と資料にあります。今では創造することさえ難しい数字です。 下は神田駅を通過する松浦鉄道(MR)の車輌。横には、日鉄神田、日窒江里炭鉱があった頃使われていたホーム跡が寂しげに残っています・・・ 繁栄の名残をとどめた「肥前神田駅」の駅舎。この駅に思い出のある人も多いことでしょう・・・ 昭和2年の資料による

人は去り、時は流れ・・・ ~ 吉井町に残る炭鉱住宅

炭鉱住宅・・・炭鉱を経営する会社が労働力である鉱員さんたちを集めるために作った社宅で、家賃は無料であるのはもちろん、光熱費なども無料か非常に安いものだったようです。従って、職を求めて各地から集まってきた人がすぐさま入居して働くことができたわけで、それが炭住のひとつの利点だったようです。 写真は佐世保市(旧北松浦郡)吉井町福井免あたりに残っている炭鉱住宅です。閉山後は個人や市町村に払い下げられ、長い年月を経過しているので、市営(町営)住宅だと認識している方も多いようです・・・

残された消火栓が語るもの  ~ 炭鉱跡地にて

閉山とともにその施設や土地の全てが売却され、跡形も無く消え去ってしまう「炭鉱」。 運よく取り壊しを逃れても、半世紀に近い時の流れが全てを風化させ、あるいは雑草や堆積土砂が覆い隠してしまいます。 でも、まちがいなくそこに「大勢の人の暮らし、生生き生きとしたドラマ」は存在したはずです。 その記憶を風化させない為に炭鉱跡地を探し、そして記録します。 住所も不明、地図にもない炭鉱を探す場合に、重要な決め手となる手がかりのひとつが、画像のような「消火栓」です。 これは崎戸町の山中に

軍艦島 ~ 階段・通路など

2010年の3月4日、長崎市の許可の元、テレビ番組の収録で、軍艦島に入った時に撮影した画像を紹介したいと思います。 その時の画像を元に、私の本の中の数点の作品がつくられました。 これから紹介するのは、「無人となった空間」ですが、その一枚一枚の中に、とてもあたたかなコミュニティの中で生活していた、子どもたちや人々の姿を重ねて見ていただければ、幸いです。 今回は、住人の方や子どもたちが、生活をしていた通路や階段などのうち、軍艦島らしさを表していると思われるものを数点ご紹介しま

炭鉱跡を歩いて、記事にしたことの意味

下のコメントは2023年の2月に頂いたものです。 かつて佐世保市にあった、文殊岳炭鉱の記事を書いたのは、2011年02月16日ですから、約12年前のことです。 炭鉱跡を記事にするのは、非常にデリケートな問題を含みます。 誰でも、今暮らしている場所の地下に坑道が残っていて、地表近くに「ボタ」と呼ばれる石炭にならなかった石が多く堆積しているということは、いい気持ちがしないでしょう。 しかし、なぜそれをやったか?と問われるとしますと、上のような多くの方々の為にあるのでした。 関係

不動炭鉱 ~ 佐世保市木風町

佐世保市木風(きかぜ)町1403番地にあった不動(ふどう)炭鉱。偶然ですが、ここは私が教師時代に5年間暮らした町のすぐ隣りにありました。 鉱業権者、河内 進。操業開始・昭和28年12月24日、職員18名、労務員数120名(昭和35年時)、閉山・昭和38年2月。炭鉱誌にも郷土資料にもほとんど資料がなく、わかるのはこれだけです・・・・ 案内板には「不動の滝」「不動炭鉱」・・・とありますが、どちらも地図上にもネット上にも現れません。小さな谷間にある小さな滝のそばに10年ほどあった

地底の記録ー呪詛 坑内馬と馬夫と女坑夫 ① 武松 輝男 著

目 次 1埋葬地 墓標のない埋葬地 2坑内馬 馬買い 鼠 石炭運搬 体高減少 3馬夫と女坑夫 坑夫募集 廃疾 賃金と生活 4人柱、馬柱 文柱 贄 栄光と没落 5あとがき 参考・引用文献一覧 墓標のない埋葬地  『坑内で死んだ馬が埋められたのは、あそこの、ほら、緑で覆われている小高い丘があるでしょ、ネ、あそこ一帯ですよ。  あんた、埋められたところを探しに行くとですか。それはやめた方がよか。あの緑で覆われたあたりはですナ、昔はずうっと丘が続いていたとです。それを