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「差別」の上に、「憎悪」が加わると、生命へのリスペクトなど、跡形もなく消し飛ぶという話

人類の歴史上、「およそ人間が成せる事とは思えないような、残虐行為」は、枚挙にいとまが無いほど繰り返されてきた。そして、現在も尚続いている。

「戦争は、人の心の中の差別心から生まれる」と説いてきたが、なぜ人は、身の毛もよだつような残虐行為を平気で出来るようになるのか?は、うまく解釈が出来ずにいた。

しかし、標題のごとく、「差別の上に、憎悪が加わると、生命へのリスペクトなど、跡形もなく消し飛ぶ」のだ。

これからそのロジックを説きたい。
次元はまったく異なるが、同じことだろうと思う。

私はほぼ毎朝、家の前の通りを掃く。
石垣を覆っているツタが、葉を毎日のように落とすからだ。
その時、どうしてもアリやダンゴムシも一緒に掃いてしまう。
そのまま、ゴミ袋の中に入れてしまうのは、しのびないので、塵取りをそのまま数時間置いておく。
そうすると、その間に虫たちは、塵取りの中から出ていくというわけだ。

一方、玄関へのアプローチには、「挿し芽」から育てた4種のバラの鉢が置いてある。
挿し芽の小枝をネットで買ったのだが、届いた時は真夏で、ほぼ「枯れるな・・・」というような状態だった。
そこから、ダメもとで栄養をやったりして、やっと大きくなって、今年初めて無数の小さな可憐な花をつけたところだった。

連日の大雨に油断していて、ふと見ると、葉っぱの多くが茎だけになって、花も半分以上が食い荒らされていた。
バラの天敵?チュウレンジハバチの幼虫(イモムシのような姿をしている)に食い荒らされた跡だった。

私はその無惨な有様を目の当たりにして、怒りで我を忘れた。
即刻、物置においてあった駆除薬を用意して、彼らにそれを浴びせかけ、彼らが「もだえ苦しんで」地上に落下するまで、執拗に攻撃し続けた。
辺りには、幼虫の死骸が散らばっていたが、私はなんとも感じなかった。

この幼虫たちは、蚊やハチ、ムカデのように、人体に苦痛や痛みを及ぼすものでは無い。
鑑賞用のバラをだめにするという存在だ。
その点で、精神的なダメージを及ぼす存在だとは言える。

いずれにしても、「人が持てる生命に対するリスペクト」なんて、偉そうなことを言っても、「自分にダメージを及ぼす存在かどうか?」によって、かくも簡単に「残虐な殺意」に変わるのだ。


このところ、連日のように私のTwitterには、「動物虐待」に関するツイートが流れてくる。
チュウレンジハバチやムカデが、その対象となることはまずないが、人間の生活を脅かす存在、例えばサギやカラス、シカやクマなどになると、事は深刻だ。
「散弾銃で撃たれたサギが、地上に落ち、農家の人間によってその首を折られて殺される」
「わなの檻につかまったイノシシは、銃が使えない為、竹やりのようなもので、突き殺される」
といった現実を思い知らされることになる。そしてまた人間の心の闇とも言える残虐性に背筋を凍らせることとなる。

もっとも憂慮すべきことは、そういった残虐な現実を、純粋な子どもや若者が目の当たりにしてしまうことだ。
これらの「人間の残虐性」は、頭の中で理解することが当然できないので、その精神的なショックを、下手すれば一生引きずってしまうこととなる。

その顕著な例は、やはり「戦争」である。
元々、A国とB国、Aという民族とBという民族の間に、殺意などあるはずがない。
あるとすれば、「偏見」という名の差別心ぐらいのものだろう。

それが一端、戦争となるとプロパガンダによって、その差別心は一気に煽られる。
その内、仲間が殺されたり、街が破壊されたりするとなると、一気に憎悪が増し、殺意へと変わる。
殺さなければ、殺されるとなると、その殺意は、もはや収まるはずがない。
どんなに残虐なことをしても、何とも思わなくなるのは、当然のことなのだ。

遺恨は遺恨として引き継がれ、同時に差別心も引き継がれていくので、どこまでいっても人類史上、戦争が無くなったことはない。

では、どういう「打つべき手」があるのか?

話の次元を、私のバラとチュウレンジハバチまで、戻そう。
そもそもバラを愛でる生活を、見直してもいいかもしれない。
バラを綺麗だという心情は大切である。何でもない毎日に、大変な癒しと潤いを与えてくれるものでもある。
しかし、バラと言っても、ひとつの植物であることに変わりはないから、当然、バラを食料とする虫なども存在する。
「10本の花が咲いてるとしたら、2~3本はやられてもしょうがないか」と思うことも大切であろう。
またチュウレンジハバチを殺すのではなく、寄せ付けなくするという方法が存在する。
そのひとつは、植物の根から忌避剤を吸わせておくという「予防法」だ。
少々手もかかるが、何もしないよりはてきめんに効果が望める。

クマについては、「熊止め林」という話も聞いたことがあるし、そもそも里山を生態系を無視したスギ林ばかりにしたことが、イノシシやシカの食害を増やした原因でもある。
これを元の豊かな雑木林に戻していくことも、大きな意味のあることだろう。

そして、最後に人間の話。
Aという人(国や民族)と、Bという人が、お互いに対して偏見という差別を持たないようにして、そして利害が衝突する場合に、どういう平和的な解決をするか?どういった方法が可能か?を考えていくこと。こういうことを学んでいく場所こそが「学校或いは学びの場」の役割なのだろうと思う。

その上でやっと、「差別心を捨てる闘いをしよう」と「あらゆる生命に対して尊重する姿勢を忘れないようにしよう」という言葉が生きてくる。



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