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キリシタン流刑という弾圧を受けながらも千人近い棄児を養育した 岩永マキと十字修道会の女性たち(長崎のカトリック史)

岩永 マキ(1849~1920)の肖像。
写真すらほとんど残っていませんが、見る限り凛とした美しい表情をした人であることがわかります。
強さの中に秘めた優しさ、或いは優しさの中に秘めた強さ。そういうものを感じます。

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上の写真の集合写真です。マキは前でも中央でもなく写っています。見る限り、文献にあるような大柄には見えません。

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こちらの写真でも、手は細く小さく、体つきも華奢に見えます。

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岩永マキに関する文献は、ほとんど見つけることができません。
聖母の騎士社刊「お告げのマリア」と長崎文献社刊「長崎の女たち・第2集」の中で取り上げられていますが、それも多くではありません。
浦上キリシタン資料館の中に、その生い立ちを記した記述がありました。

『1849年(嘉永2)肥前国彼杵郡浦上山里村平(現:長崎市本原町)で生まれる。

父市蔵、母モンの長女、弟一人、妹三人、市蔵の祖父は「なわこもや徳右衛門」(「なわこもや」は縄や菰の卸問屋)で信仰深い豪農であった。』(出典:浦上キリシタン資料館内の掲示物より)

禁教時代、潜伏キリシタンの家に生まれたマキは、16~17歳の時に信徒発見(カトリック神父と浦上の潜伏キリシタンが250年ぶりに出会う)という歴史的な出来事を経験しています。この信徒発見は、長崎中のキリシタン信者達にとっては、もちろん世界中のカトリック教徒たちにとっても驚くべき事でした。
しかし、大きな後ろ盾を得たキリシタンたちが、仏式の葬式を拒否したことから「浦上四番くずれ」という、悲劇の大弾圧につながってしまいました。

カトリック信徒であるというだけで、およそ3,400人もの全村民が富山以西の各藩に流されました。流罪というと身柄を移されるだけのようにも聞こえますが、その内容は『 監禁の上、生殺与奪の権を藩主に与え、教諭を加える。やむなき時は中心人物を処分する 』という、まるで家畜以下のような扱いを受けたわけです。現に、各地に送る際、信者達に対し、「114匹、備前岡山預け!」などと読み上げたといいます。
藩により格差はありましたが、ひどい藩では、信者達に食事や水も殆ど与えず、冬もむしろ一枚もない吹きさらしの家畜小屋に押し込んだ上、見せしめとして真冬の池に投げ込んだり、裸で何日も寒ざらしにしたりなど、考え付く限りの拷問・残虐行為を加え、多くの信者を死に追いやっています。
これが現在の政府につながる明治政府によって行われたのですから、何とも言葉がありません。

マキ一家ら総勢117名は、岡山藩に送られました。岡山に送られたのは、主に本原郷の平、辻に住んでいた信者達でした。(マキ、18~19歳の頃)
当初、ろくに食べ物も与えられない城下の牢獄に収容されていましたが、明治3年の10月からは播磨灘に浮かぶ鶴島(現:岡山県備前市日生町)という周囲2kmの小さな無人島に移され、その島の荒れ地を男は日に8坪、女は6坪開墾するという苦役を課せられました。「収容所であった長屋は非常に狭く大変窮屈だった(資料館説明より)」とあります。おそらく粗末な掘っ建て小屋のようなものだったでしょう。相変わらず食料はわずかで、「海岸で貝を拾って食べた」だけで、木に吊され、打ち叩かれたそうです。開墾というのは建前で、その実は、人目の届かない場所における拷問、残虐行為に過ぎませんね。
こうした中で18人が亡くなり、その中にはマキの父(当時45歳)と妹も含まれています。
前述の木に吊され打ち叩かれた信徒に対し、マキは「改信せんと辛抱すっとじゃ。体が切れるか、梅の木が枯れるか、根くらべたい!」と叫んだと言います。この時、マキはわずかに二十歳を越えたばかりでした。

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明治6年、諸外国の猛抗議により、明治政府があわててキリシタン禁制を取り下げた為、ようやく流配が解かれました。マキは信徒たちの先頭に立って故郷浦上を目ざし、岡山からずっと歩き通しています。
しかし、ようやくたどり着いた浦上の地は荒れ果て、略奪され尽くしていました。マキの一族も家屋や田畑、財産などの一切を失いました。農具さえも無い中、信徒たちは割れた茶碗の欠片で土を耕し、わずかな支給金で屑芋を買って飢えをしのぎながら、また必死に働きました。

翌年の夏に、長崎で赤痢が大流行しました。医療の知識があったド・ロ神父やロケーニュ、ポアリエ神父らが医療隊を結成するとマキと3人の若き娘と深井咲太郎、野口卯八、そして山本常吉らの青年たちが看護助手を志願しました。マキはこの時25歳(片岡ワイ28歳、守山マツ34歳、深堀ワサ25歳)。
感染を避けるため、家族の元には帰らず、ドミニコ高木仙右衛門の納屋に合宿して、伊王島、外海、浦上各地で救護活動を続けています。
また長崎港外にある蔭の尾島(現在は三菱重工長崎造船所の香焼工場の一部となり、立ち入ることができない)で天然痘が発生すると、早速救護隊は島へ向かい救護活動を行いました。天然痘は当時、赤痢よりも恐れられ、家族までもが患者を見捨てて逃げるような有り様だったと言います。この時マキは、天然痘で両親を亡くし、泣きながら道をさまよっていた幼女タケを抱きかかえて合宿小屋に帰ってきました。マキはこの時31歳。この時からマキと20代の娘たちは、普通の娘たちとは違う生き方をする決心をしたわけです。

ここまででも、十分すごいことなのですが、これ以降も、マキたちはまさに「超人的」な活動を行います。

その頃、巷に溢れていた孤児や棄児を見かける度につれ帰り、自分たちで養育する一方、田畑を耕しながらの自給自足という生活を続けています。
中には病気や天災で孤児となった子も多かったと思いますが、生活できないからこそ子を捨てる「棄児」も多かったこの時代に、見かけた子どもを全て連れ帰って養育することが、いかに大変であったかは、容易に想像がつくことです。しかも、マキたちの評判を聞きつけて、県外からも子どもを棄てにくることがよくあったといいますから、この時代にあって、この女性たちの生き方は、どんなにか輝いていたでしょうか。
初期の頃を語るマキの思い出話に「狭い板の間にむしろを敷き、一枚の布団を交代で着てわずかの睡眠をとり、芋と醤油かすで飢えをしのいで、ときたま作られる味噌汁は一つしかない欠け茶碗で回し飲みした。空腹で野良仕事に力が入らない時は、縄で腹をしめくくって頑張った。それでも心は朗らかであった。」とあります。
入会する娘たちも増え、捨て子の数も増えていきました。年々大きくなる養育院の経費を満たすために養蚕、糸繰り、機織をし、びんつけ油、薬、日用雑貨の行商もしているのですが、この旅はまた孤児の引き取り、伝道、病者訪問の旅でもあったといいます。

この行動に感銘を受け、仲間に加わる娘たちも徐々に増えていった結果、マキたちの仲間は、ド・ロ神父が私財を投じて購入した土地に家屋を建て、孤児養育を続けました。この建物を「子部屋」(後の浦上養育院で敷地も現在の位置で小部屋とも)」と呼び、マキら信徒の娘たちの共同体を「女部屋(高木仙右衛門の屋敷があった場所で現在はお告げのマリア修道会 十字修道院がある)」と呼びました。

マキは、身より頼りの無い子ども達を皆、自分の籍に入れています。それは、無理矢理引き取った子を信者にしようなどといった俗っぽい行為ではないことが、下の当時の新聞取材からわかります。

『 長崎で発行されていた「東洋日の出新聞」は明治43年2月14日~23日の八回にわたって「慈善婆さんと語る」というマキに直接取材した記事を掲載している。その中から「子部屋(養育院)」に関する記事を抜粋する。その時マキ62才。

 第四回「明治七年から今日まで三十六年間私の手で引き取って育てた者は、よく覚えていませんがざっと五、六百人位だろうと思います。一旦は私の戸籍に附けるのですから、私は石婦でもこの大勢の子の母となっております。世間では私か貰った子は無理やり耶蘇教にしてしまう様に思し召しておりますが、私たちの宿願は不幸な子を助けたいばかりにて、その子供たちの成長の後は何等の干渉もいたしませんので、宗教は面々勝手な向きを信じていることと思います。又これら多くの成長した子供たちは、この村にも町にも散在して立派に商業なり農業なりを営み、すでに妻子を持ち海外にも数十人参っております。しかし先方から慕ってくればとにかく、決して私の方から世話風を吹かして往復はいたしません。丁年になれば男でも女でもなるたけ私の手から出たことを隠そうといたしますので、私もその心を察して人にはその素性を秘密にしてやります。

 第五回「子供の育て方は二通りに区別がしてありまして、すでに乳離れのした子、最早粥で育てられる子は手許で育てますが、藁の上から持ち込んで来た者、又捨て子などは取りあえず牛乳などを与えて後、口を探して里子に遣ります。里扶持は普通四円から五円か限度ですが、私の手許から出す里子は里親も同情して二円から三円位で引き受けてくれます。さて里子でも削かろうという親は大概わが最愛の子を亡くした人達ですから我子も同じ位慈しんでくれまして、ついには改めてその子を養子に貰いに来ます者もたくさんあります。子供たちの世話は私どもが致しますのですが、子供にかかり切っておりますと食べさせること、着せることが出来ませんので、私たちの手にかけて成長させた娘たちで不具の娘たちが世を恨むこともなく私だちと暮らして面倒を見てくれています。」

 第六回「小学校を終える迄健やかに成長した子供にはそれぞれ職業を授けてやりますが、本人の所存を聞いて成りたいものに成らせます。出世したいという健気な者には自分で学費を稼がせて海星学校や鎮西学院へ通っております。」

 第七回「昔を忘れぬ殊勝な心持の者はお母さんと言って慕ってくれ、暮には供えてくれる鏡餅で座敷が一杯になります。日露戦争の時に私どもの手塩にかけて成長させました子供が十八人出征いたしました。一人も欠けず無事凱旋致しましたが、戦地で一人の兵士が負傷した兵士を介抱してその名を尋ねますと、長崎の岩永某と答える。お~僕も長崎の岩永じゃが、もしや君は浦上の天主の婆さんに縁のある者ではないか、そんな所から名乗り合って、あの中隊にも岩永がいる、この中隊にも岩永がいる、この小隊にも岩永がいるといずれもその奇遇を喜び合ったということです。」

 第八回「半日の清談にこんな快感を覚えたことは実に初めてであった。」と記者は結んでいる。』

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記事の中でマキは、引き取って自分の籍に入れ、養育した子どもを500~600人くらいと述べていますが、最近の資料の発見で、実際は920人あまりを養育していた可能性が高いことが判っています。実に驚くべき数です。

2018年3月22日の長崎新聞より

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子部屋の様子。多くの乳児が抱っこされています。おそらく
(以下、浦上キリシタン資料館の許可を得て掲載しています)

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浦上養育院全景。拡大してみると、乳児から割と大きな子どもの姿が確認できます。時代は違いますが、新戸町にあったゼノ修道士らの孤児養育施設といい、このような場所が長崎にあったことは大変誇らしいことです。

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現在の浦上養育院です。正面には年老いたマキと子どもたちの像があります。あくまで個人的な感想ですが、像は溌剌とした青年期のものがいいのではと思ってしまいます。

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イメージとしては、このような溌剌としたいい笑顔で。

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北側から見た養育院です。隣には同系列の「うみのほし保育園」があります。

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うみのほし保育園の正面入り口です。

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ちょうどモッコウバラの美しい時季でした。

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聖母子像と壁のブルーとバラの黄色が絶妙の色合いとなっています。

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実は、岩永マキのことも、浦上養育院も何も知らなかった年々も前、長崎の小径を撮影して歩いていたと時に、偶然この前を通りかかり、この美しさに魅了されてきました。私が個人的にもっとも好きな聖母子像です。時折、ブログのタイトル背景にも使用させてもらっていました。

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さらに保育園の隣りには「マキこどもホーム」があります。

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北側から見たこどもホームと保育園です。多くの子どもたちが今も尚、マキの志のもと、養い育てられ、また教育を受けています。

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女部屋は明治10年、ド・ロ神父の指導の下、規約もでき、「十字修道会」と名乗りました。
その後、各部屋は時間をかけて話し合い、昭和50年に教皇の公認を得て、「お告げのマリア修道会」として成立し、今に至っています。
その間、昭和20年の原始爆弾被爆時には、同修道会は壊滅し、22人もの爆死者を出していますが、一週間後の終戦と同時に原爆孤児を集め、バラックに収容して養育院を再開しています。

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敷地の一部に、古い時代の修道会の名残の石段と門扉が残っています。

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大正9年1月27日、72歳の時に、数年前から胃がんを病んでいたマキは、かかっていたインフルエンザを悪化させて死去しました。「女部屋」誕生から46年が経っていました。
浦上天主堂での葬儀には出席者が2500人を超え、埋葬された、「こうらん場墓地(現:長崎市石神町)」まで長い葬列が続いたそうです。

マキたち十字修道会士の共同墓地。浦上の町を見渡せる場所に立っています。墓地の中では最も低い場所につつしみやかにあります。十字修道会らしいと感じました。

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マキの名は、その中に小さな名前が彫られているばかりです。

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すぐ横には、ドミニコ高木仙右衛門の墓があります。

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蒼い空に並び立つ十字架。

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キリストの像。

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訪れる観光客もほとんどいませんが、長崎らしい景色と言えます。

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資料館のマキのプロフィール紹介の末尾は、次のように締めくくられていました。

『 マキは生前も死後も個人として何の栄誉も受けてはいない。死に至るまで、色あせた筒袖の着物と三幅前掛(みはばまえかけ)姿の浦上の婆さんであった。 』

マキのプロフィールをまとめると、以下のような簡単なものになる。
「 1849年(嘉永2)肥前国彼杵郡浦上山里村平(現本原町)で生まれる。父市蔵、母モンの長女、弟一人、妹三人、市蔵の祖父は「なわこもや徳右衛門」「なわこもや」は縄や菰にも)の卸問屋で信仰深い豪農であった。

1866年(慶応2) 3月17日、信徒発見。浦上四ヵ所に秘密聖堂が建てられる。マキ17歳

1867年(慶応3) 浦上四番崩れ始まる。

1868年(慶応4) 浦上キリシタン総流配(約900戸)

1870年(明治3) 1月マキー家他117名、岡山に送られる (鶴島:瀬戸内海の播磨に近い小さな無人島)
1日に6~8坪の開墾を課せられた。父死亡(45歳)、妹も死亡

1873年(明治6) キリシタン禁制の高札撤去、信者帰村。マキ24歳、流配者総数3394名、不改心者1930名、改心者1022名、死亡者56名、他逃亡、残留者など。「なわこもや」一族も田畑、家屋、財産を失う。姓の登録で岩永姓となる。

1874年(明治6) 赤痢発生、7月ド・口神父とともに看護活動(四ヶ月)。マキ25歳 片岡ワイ(28歳)、守山マツ(34歳)、深堀ワサ(25歳)が加わり、共同生活始まる。

伊王島、外海、浦上の患者総数717名中、94名死亡、浦上では210名中死者は8名にとどまる。

天然痘発生(蔭の尾島、今の香焼)、ド・口神父とともに看護。

天然痘がおさまったとき、マキは孤児を抱いて浦上にもどってきた。

四名による、孤児、棄児のの養育、田畑を耕作して自給自足の厳しい生活
ド・口神父が家を買い与えて、援助本格的な育児活動。


浦上ではこれを「子部屋」、マキたち共同体を「女部屋」と呼ぶ。

「子部屋」がのちの浦上餐育院、「女部屋」がお告げのマリア修道院の基盤となる。

マキたちの活動

*看護活動  明治16年~30年 長崎に腸チフス、コレラ、天然痘、赤痢、ジフィテリアなど、伝性病発生。県下のこれら患者1685名、死者1086名。官民協力の防疫のなかで十字会の働きは大きく「政府のために奉仕した」と報告される。

*子部屋活動 明治13年から大正8年までの40年間に養育した孤児、棄児数1834名とも言われているが正確な数字はわからない。

1891年(明治24年分家、戸主となる。入籍した養子数200名余。彼らはすべて岩永姓になった。

1920年(大正9) 1月27日マキ死去。72歳1月30日浦上天主堂で葬儀が行われた。会葬者数2500名、浦上天主堂から本原のこうらんば墓地までのおよそ2キロの間に葬列が続いた。」(浦上キリシタン資料館より)

【 語り伝えられるマキの人柄 】

・言葉が明瞭でぐずぐずしていることが嫌いだった。

・自ずから備わった統率力があり、小さなことにこだわらず決断力に優れ、しかも細やかな心遣いのある人だった。自然に長として仰がれる人だった。

・竹を割ったような性格、男勝り、体つきも男の様、剛腹な人だったとだれもが言う。

・食事の作法、日常の躾が厳しかった。

名声を求めず、身を飾ることをしなかった。いつも筒袖の着物に三幅前掛けで県庁へも出かけた。その上に羽織を着て「ちょっと東京まで」と政府の役所へ出かけた。

・叱るほうも叱られるほうも尾を引くことはなく、むしろ、マキの母親のような心遣いが後に残るのだった。式見という漁村から四里の道を、大きな竹寵を背負って魚を売りにくる女たちがいた。若い会員は安いイワシなどをさらに値切って買っていた。 それを見て、マキは言った。 「こん魚は生命がけで取った魚じゃろが。値切ってはいかんとよ。それよか、遠い山道ば越えて来んしゃったおばさんたちに、何ぞご馳走してやらんな」 会員たちは、マキのこうした言葉に教えられることが多かった。誰もが心から、畏敬と親しみをもって「姉さん」と呼んだ。

結びに。

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、世界遺産になるのかどうなのか、この記事を書いている時点ではわかりません。
しかし、もし世界遺産に認定されたとしても、その遺産的な価値の源流のひとつに、マキたちが為したことと、その精神がまったく知られることが無かったとしたら、それは悲劇でしかないと思います。

マキたちが為したことは、世界遺産以上の偉業であると思いますし、世界のどんな偉人と比べてみても、優ることはあっても劣ることはないと思えます。
このような人が我が郷土にいて、大変勇気づけられますし、誇らしく思えます。
現在の長崎も少子高齢化に加え、自治体の消滅まで宣告される大変苦しい時代ですが、マキの生き方を知れば、まだまだいくらでも頑張れる気がしてきます。一歩踏み出す勇気さえ持ち続ければ、何でもできるような気がします。ですから、岩永マキのことをぜひ、若い世代の多くの方に知ってもらいたいと思っています。

参考文献:
浦上キリシタン資料館
「長崎の女たち・第2集」長崎文献社
「お告げのマリア 長崎・女部屋の修道女たち」小坂井 澄 聖母の騎士社
浦上養育院HP
*資料により年代などに違いがありましたので、より信憑性の高い数字を用いています。

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(記事作成及び撮影:2018年6月)





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