テキストヘッダ

ENCHANTED

※縦書きリンクはこちらから https://drive.google.com/open?id=1RMcH6tI1tjte_L5e5od9qojG81gnSu2i

「また言ってる」
「え?」
「昨日も同じこと言ってたよ」
「ほんとに?」
 そうだったろうか。手の中で缶ビールが汗をかき、ぬるくなっていく。
「先のことばっかり気にしてたってしょうがないじゃん」
「まあね」

 大学が夏の一斉閉館になると、僕たちはいそいそと実習棟に集まる。彫刻科の外アトリエ。何故か前期の授業期間中に全く姿を現さなかったやつまで現れる。
 その一週間と少しの間、天井の高いその場所は、外とシームレスのくせにどこか聖域のようになる。普段は禁止されている校内飲酒も決められた場所以外での喫煙も勝手に解禁となり、僕たちは毎日のようにバーベキューする。でもちゃんとした肉を食べられるのは初日だけで、あとは誰かの実家から送られてきた野菜を焼いたり、業務スーパーで売っている何の肉かもわからない成形ソーセージを食べたりする。
 なぜかビールだけは尽きることがない。大きなクーラーボックスが焼成窯の脇にこっそり隠してあって、僕らはそれを延々と飲み続ける。どれだけ飲んでも、次の日にはクーラーボックスがまた満杯になっている。夏が終わると、クーラーボックスは細長い雑草の陰に隠れてしまう。
 ちょっとだけ製作をすることもある。プロジェクターを繋いでホラー映画を見ることもある。ただ喋っているだけのこともある。夜というのは案外短いなと思ったりする。

 僕はとにかく将来が不安だ。未来が不安だ。今が楽しければ楽しいほどに。
 呪われてるんじゃないかと思う。

「大丈夫大丈夫」と、帰り道を辿りながら恋人は言う。ビールの缶を持っていた冷たい手で僕の頭を撫でる。よしよし。もう空はすっかり青くなっていて、蝉が鳴いている。
 こういう空気を、冬には忘れてしまう。性懲りもなく。

 今日はナカタニが狂ったように踊っているのをみんなで見た。誰かがペラペラの音しか出ないブルートゥースのスピーカーにiPhoneで音楽をかけたのだ。ビールを飲みながらナカタニは踊る。身体がでかいくせに妙に小気味の良いステップを踏むものだから、僕らは笑って手を叩いた。ずっと見ていても飽きなかった。70年代終わりのの有名なソウルのアルバムを絶え間なく踊りきったあと、シャッフルで80年代終わりのエクスペリメンタルバンドのアルバムが流れ出しても、ナカタニは踊るのをやめなかった。
 MPが吸い取られそうな踊りだった。ナカタニは見ているだけの僕らのMPを吸った分だけますます恍惚とした。MPを吸われた僕の身体はほどけてばらばらになり、夜の星に吸い込まれて行く。夜明け前、ソファに座ったまま少しだけ眠った。

 恋人がシャワーを浴びている間、半分眠りながらテレビを見る。昨夜起きた事件が報道されている。身元不明の火事による一家三人の焼死。生活保護受給を断られた独居老人の餓死。高速道路での事故、渋滞。色々な死に方がある。
 都内のおでかけスポット情報で、春に出来たプラネタリウムが紹介され始める。恋人は裸でシャワーから上がってくる。濡れた身体のままで僕にのしかかってくるが、僕はプラネタリウムから目を離さない。

 冬の大三角だって見られちゃいます!

 大丈夫大丈夫大丈夫、と言って恋人は僕の頭を撫でまわす。

 夜になって目が覚めると、その日は小雨が降っている。
「誰もいないかな」と僕は言う。
「いるでしょ」
「いるかな」
「いるでしょ」
 僕たちは黙ったまま、大学へ向かう道を歩いていく。
「どの家も暗いね」
 大学の周りはニュータウンで、新しくて大きな家ばかりだ。
「みんな里帰りしてるんだろうね」
 わたしたち吸血鬼みたいだね、と恋人が言う。静かな通りを街灯に沿って歩いていく。空は曇っているが、じめじめとして背中が汗ばむのがわかる。
「あ」
 携帯忘れた、と言って青白い横顔の恋人が家に帰る。
 先に行ってて良いよ。
 わかった。

 実習棟は暗かった。
 ナカタニが置いていったスピーカーの、青いインジケーターだけが光っている。そのうっすらとした光線の先に、ビールやスナック菓子のゴミが散らばっているのがわかる。
 僕はしばらくその暗闇の中でじっと座っている。冬のことを思い、実家のことを思い、それから未来のことを考える。未来未来未来。その場所では、癌細胞を殺すワクチンが出来ていて、人間はみんなチューブの中を泳ぐようにして街を行き来する。
 暗闇の中でも、着実に時間が過ぎていくのがわかる。坂道の下に、さっき歩いてきたばかりの街灯の連なりがうっすらと見切れていた。
 これから僕はどうなるのだろう。呪いのことを考える。いつか自分が自分じゃなくなる呪い。持てるものは限られていて、今持っているものは指の間からどんどんこぼれ落ちていく。この手が間違ったものを選んでしまったら、取り返しはつくのだろうか。
 暗闇の中にナカタニの残像が見える。でたらめなステップ。踊る。踊る。ナカタニの線画がほどけて、闇の中に溶けていく。盥の水に絵の具を落としたみたいだ。
 立ち上がってステップを踏もうとすると、足元に転がっていたビールの缶を蹴飛ばして、大きな音が出る。外からがさがさと何かがざわめく音がする。え、あれ、という恋人の声が聞こえた。

 え、あれ、どこにいるの?
 え?何何何何?
 ええ?
 ねえ!何!?
 サトウくんだよね!サトウくん!
 怖いよ!
 何で返事しないの!サトウくん!ねえ!
 サトウくん!

 外アトリエのポーチライトが点く。
 目が合ったかと思うと、恋人が更に大きな悲鳴をあげた。

 恋人の視線の先、僕の頭の向こうに、大きな鳥が佇んでいた。
 鳥は身じろぎしたあと、翼をいちどはためかせて、大きくて不気味な声で鳴いた。耳を突き刺すような、遠くまで聞こえる音だった。そして僕の横を通りすぎ、曇り空に向かって飛んでいった。
 羽のはためく音がしばらく聞こえていた。

「怖かったね」
「びっくりしたね」
「どこから来たんだろう、気持ち悪い。なんか赤茶けて汚かったね」と恋人が言った。
「ほんとに?青白くて綺麗じゃなかった?」
「ええ、うそでしょ。汚かったよ。触ってないよね?」
「触ってないよ」

 その日は結局誰も来なくて、ビールを二本ずつ飲んで帰った。もう夏になるまでまで飲んでいた発泡酒の味が思い出せない。誰も来ないのをいいことに、夜明け前にアトリエ棟で少しだけ恋人の身体を触った。雨の音しか聞こえなかった。暗闇の中ですぐに返事しなかったことについて追求されるかなと思ったけど、追求されなかった。身体と身体の間にある隙間のことを、僕が頭の中で考えただけだった。
 帰り道を辿りながら、目を凝らして鳥を探す。まだ暗かったけど、あの青白い鳥なら見えるかもしれないと思った。
「暗闇の中で何してたの?」と彼女が聞いた。
「次何作ろうかなって考えてた」
 思いつきでごまかした後、でかい鳥にしよう、と僕は思う。マジでただただすげえでかいやつ。

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