死体

死体

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 死体役が上手い、ユアサにやらせたら右に出るものはいない、といつからか言われるようになり、みんなが死体役が必要な時は絶対僕にお願いをしてくるようになった。本当にすごい死にっぷり。よ、アカデミー死体男優賞。最初はそんな風に言われても冗談として受け取っていたけど、既に色々賞を獲って商業デビューもしているウドウくんに、ユアサ、本当にお前すごいからこれ極めた方がいいよ、と真面目な調子で言われたから僕もちょっとその気になってしまっている節がある。画面の端に死んでいるお前が映っているだけでも、そこだけに別の物語が立ち上がってくるような感じがするんだよな。本当はお前だけで一本映画撮れるのに、あくまで背景にしかしないってことに贅沢さを感じるよ。

 死んで死んで死にまくる。画面に映った時にはもう既に死んでいる状態であることが多い。刺し殺されたり毒殺されたり。僕にとって大事なのは死因で、どうして死ななければならなかったのか、ということではない。それは死体役には必要ない、と個人的に思っている。死ぬ瞬間というのはどうして自分が死ななければならないのかなんて考える余裕はない。痛くて苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまう。それだけだ。悔しさも悲しさも怨みつらみもない。それを前に誰かに言ったら、やっぱユアサはすごいな、みんな死んだことないからてっきり色んなこと思い出したり死んでいく自分の姿が見えたりするのかと思ったよ、というようなことを言われた。みんな死んだことないからわかんないんだよな、とそいつが言って、僕も本当には死んだことないよと言ったら、ははははと笑っていた。死んだことないだって。あんなに死んでばっかなのに。

 うわあ、ユアサさんですよね!動いてる!ウドウさんの映画でユアサさんのお芝居拝見しました、というようなことを現場で言われることが増えた。ウドウくんは最近大作映画を撮って、それから過去の作品が再評価されている。同時にかつてその映画で死んだ僕も再評価されている。逆に動いている方が不思議な感じがしますね、とか、動いてても死んでるみたいですね、とか。褒められているのかもわからず、なんと応えていいかわからないから、はははと笑ってありがとうございます、と答えると、自分がスターにでもなったような感じがする。嫌な感じに見えていないかなあとたまに思ったりするけど、サインを求められたりするのでまあいいかと思ったりする。ユアサのサの上に、目尻の下がった眼窩を描いて頭蓋骨のマークに見えるようにしている。アシスタントの子が、僕も監督目指してるんでいつかユアサさんに出てもらえるように頑張ります、と言ったりするので、じゃあちゃんと誰かが死ぬ物語にしてねと返したりする。

 死んで死んで死にまくる。カメラが回ったら息を止める。身体に空いている穴に透明のフィルターを被せていく。身体に膜が張って、関係という関係がほどけて途切れていく。びりびりと自分の身体の表面だけが熱くなる感覚があって、リハーサルの時には理解できていた台詞の意味がわからなくなる。何度も共演したことのあるアイドルの子の顔も名前もわからなくなる。どこまでも縦に伸びた地面が地面だとは思えなくなる。遠くに映っている天井や空の距離感が薄れていく。眠りでも覚醒でもない、ただそこに自分の肉体と自分の肉体を取り巻く状況があるのに近寄れない感覚だけが研ぎ澄まされ、干渉できない別のレイヤーからそこに触れようとしているような感じがしてくる。触れようとすればするほど音が遠ざかり、喉がふさがれるような感じがする。やがて諦める。僕は内側だけになり、外側を喪失する。

 ユアサさん、ユアサさん、と呼ばれて光と風景が戻って来る。ねえ、びっくりするじゃないですか・・・寝てました?驚かせようとしたんですか?ちょっと演技力抑えてくださいよ。ははは。

 僕を映画に出したいと言ってくれたアシスタントの若い男の子が、僕の手首に指先だけで触れている。微かな温かさが胸か頭かに届く前にその指は離れていて、自分で身体を起こす。噂には聞いてましたけど・・・本当にすごいですね。僕、ほんとにどきどきしちゃいました。

 死んで死んで死にまくる。本来一度しかないはずの死を何度も演じている。嘘をついている。一回目に死んだのは確か子どもの頃で、あのときは・・・確か・・・どこか狭い部屋の中で・・・僕以外にも地面に死んでいる人たちが地面に転がっていて・・・いや、そうじゃなくて、あれはただ眠っていたんだったか。眠りと死の違いについて考えていたらわけがわからなくなったのだったか。僕、生きてますよね、とケーブルを巻いている彼に聞くと、いやあもうそんなのどっちでも良いんじゃないですか、と返事が返ってくる。僕、時々キャストでも映画出してもらったりするんですよ。で、ユアサさんにちょっと見た目が似てるからって言われて死体役やったこともあるんですけど、いいなあユアサさん上手く死ねて。上手く死ねると、台本書いたりするときに三人称視点とか上手く書けそうで良さそうだなあと監督志望の僕としては思います。ほら、自分のことも含めて全部客観的に書けそうじゃないですか。僕は死んでいるとか。死んでいないとか。死んだことないとか。死んだからもうこの世とか関係ないし、みたいな。何もかもすべて見通す視点が。

 呆然としていると、まだカメラが回っていることに気がつく。僕と監督志望の彼の周りだけが明るくて、動くものは他に何も見えない。僕を見つめる気配だけがそこにある。え、なにこれ、ねえ君、まだカットかかってないの?いやいや、なんかわかんないけどもうやめてよ。本当に生きてるかどうかわかんなくなりそうだからとりあえず生きてるってだけ言ってくれない?と僕が言うと、いやだからほらそんなのどっちでもいいでしょう、と彼は言う。死体役演るにあたって、死んでるとか生きてるとか、関係あるんですか?みんなそんなのいちいち考えないんですって。生きてても死んでても別におかしくないけど、生きてるか死んでるか確かめたがるのは大分おかしくなってますよ、ユアサさん。ほら、血糊拭いてもらっていいですか?足跡残っちゃうんで。

 足元に赤い液体が水たまりを作っている。これ、何でできているのかよく考えたら知らないな。いや、カメラカメラ、カメラ止めてよ、本当にわけわかんなくなりそう、ねえ生きてるよね?彼は暗闇の方から延々と何かのケーブルを引き出している。ずるずる。ねえユアサさん、ユアサさんが生きてるかどうかなんて僕にもわかんないですよ。良いなあ。そんな風に世界が見れて。ずるずるずる。

 それで、わけがわからなくなって、こうして自分が生きてるのか死んでいるのか確かめるべく台本を書き出してみたわけである。ますます混迷を極めている上に、ここに彼はいなくなっても、まだカメラが回り続けている。でもそれとは裏腹に、確かに彼が言うように、生きているか死んでいるかなんて、これを観ている人にはどうでもよいのだろうなあと思えてくる。いつの間にか僕は一人でカメラの前に立っている。観客は僕が生きているか死んでいるかそのものよりも、自分が生きているか死んでいるかを問うことに何かを見出そうとするのだろう。そうでしょう?でもどうなんでしょうね、それって。本当にどうでもよくないですか、そんなこと。彼、この本持っていったら映画にしてくんないかなあ。誰か良い人が死体役やってくれれば、すっきりした気分になれそうなのだけど。



 表紙ビジュアル制作/峰村 巧光

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